第13話

――はじめに。


 ショージと初めて出会ったのは一年前の梅雨時期だったと記憶していたが、それは私の記憶違いだった。確かに彼を港内中の卓球部に勧誘しに行ったのは去年だったがそれ以前に私は彼と出会っていた。彼と初めて卓球道場にて出会ったのは今から3年前の蒸し暑い夏休みの初日だったと当時の日記に記述が残っている。なぜ彼との出会いを2年も誤って認識していたのか。それは去年会った彼が私の知っていた彼とは大きく異なっていた事が要因だったと感じている。そのイメージが強く残ったまま今も彼と行動しているからか、3年前、小学5年生だった山破ショージの姿は私の脳裏から押し出された形になってしまっていた。今から話すショージのハナシは私の脚色とある人物から見聞きした視点が混じるが真実とは大きくずれてはいない事を自覚し、思い出しながらではあるが伝えていきたいと思う。


 真夏の夕刻時。日中の暑さが少しだけ引き、遠くでひぐらしのなく声が聞こえ始める頃、私は指導での汗を流しに駅から少し離れた場所にある銭湯に向った。日頃から銭湯に通う習慣はなかったのだが、自宅の風呂釜が故障していたこともあり、固定化したライフワークから外れる楽しみも込め、気分転換の気持ちもありその銭湯へと足を運んだ。


 舗装の行き届いていない狭い通路を抜けるとすぐにその場所が分かった。昭和から時が止まっているような、外壁が色あせたよくいえば味のある下町の銭湯。足元を歩いていた猫のしっぽを踏まないようにしながら、引き戸を開け、カードキー型の靴箱で素足になると番台に座るちいさな男の子に入銭料として小銭を手渡した。


「まいど!おっさん、この銭湯初めてだろ?」


 澱みの無い無垢な少年の発声が天井の高い店内に響く。野球帽を被ったその少年は小学生3年生くらいだろうか。離れて暮らす娘の事をふと思い出した。


「おっさん、卓球やってるだろ?」


 驚いて声を掛けた番台に座る少年の顔を見上げると「ほら、あたりだ!」と彼は私のふくらはぎを指さしてにっしっしと笑った。長く卓球を続けているとふくらはぎにコブのような特殊な筋肉が付く。腹周りの腹横筋と腸腰筋はすっかり脂肪で囲われているが私の短パンから伸びた脚を見てこの少年は私の経歴を見抜いたのだ。年端も行かぬ目の前で鼻をすする小学校低学年の少年が。


「ウチ、銭湯の他に卓球道場をやってるんだ」


 少年が顔を横に振って店の奥を指すとドアを取り外した通路の向こうからピン球の跳ね返る音が聞こえてきた。店の大きさから行って設置してある卓球台は1台か2台程度だろう。少年に後で寄ってみるよ、と言い私は男湯ののれんをくぐった。


 浴場は想像していた通りの昭和の銭湯で、入口手前側に洗い場があり、奥の大風呂の壁のタイルには富士の山が描かれている。左手側には無料のガスサウナが設置してあって私は入浴の時間を快適に過ごした。



 風呂から上がり、上着を羽織って休憩所で牛乳をあおっていると奥の卓球場から男の声が響いてきた。同じ言葉を繰り返すクレームじみた声を聴く度に、興味が湧いてきて私は奥の卓球場に足を運ぶ。すると長身の男が真っ白な髪の老婆に眉をひそめて突っかかっているのが見えた。


「…信じられない。このメーカーの替えラバーがこんなにするなんてありえない。これはぼったくりだ。SNSで拡散されたら問題になりますよ」


 男性に糾弾されている老婆が口に咥えたタバコに火を着ける。細く白い煙が天井に吐き出されると皺の多い唇が上下に開いた。


「ウチは特別料金でやってんだ。文句があるなら他所で買いな」

「そうさせて頂きますよ。だがひとつ聞かせてください」


 男は老婆を見下ろして少し高い声を鼻にかけるようにして訊いた。


「ここからすぐ近くに卓球用品を取り扱っているスポーツショップがある。これはそこで買った商品ですね?」


 老婆が男から視線を外すように首を振り、大きく舌打ちを浮かべる。


「シールの剥がしが雑なんですよ」


 驚いて私は近くにあったピン球のダース箱を手に取った。値札に目を落とすと私の知る限り定価の約1.5倍の値段で販売しているようだった。男性は更に老婆を問い詰めた。


「アナタは他所で買った卓球用具をここで転売している。その理由を聞かせてください」

「質問はひとつじゃなかったのかい?イヤミな男だね」


 二口つけただけのタバコを灰皿に押し付けると老婆は男を見上げて答えた。


「セコい商売だと思うだろう?でもこの小銭が明日のメシを作るんだよ。覚えときな。これ、テストに出るよ」

「ちなみにラバーの張替えもやってるぜ、もち有料で!」


 番台の少年がやってきて老婆の台詞に言葉を付け加えた。


「やれやれ…ここはみにくい守銭奴しゅせんどの集まりですか?」


 気取った仕草で髪をかき上げると男は木造の屋根木がむき出しになっている天井を見上げて言った。


「卓球道場だと言うから来て見たら、居るのは子供と老人だけではないですか。実力者を求めてやってきたというのに興が醒めますね」

「で?その高そうなラケットは飾りかい?お兄ちゃん」


 すぐ隣で少年の声がして私は彼を振り返る。番台の少年より少し年上の快活そうな少年。日に焼けた肌は山遊びによるものなのか、それとも生まれ持った肌色なのか。むっとした顔で見つめる男に少年は手に持った自分のラケットを差し向けて言った。


「打つかどうか聞いてんだよ。冷やかしなら風呂入ってとっととけぇれ。それともこんな場末のばあさんゆすろうってなら」


 色黒の少年が目で合図すると番台の少年が短パンからスマートフォンを取り出してそれを男に突き付けた。


「SNSで拡散するぜ!」


 面倒な時代になったものだ、と私はくっくと笑うと男が肩をいきらせてラケットを握り台の前に立った。「そうこなくっちゃな」色黒の少年が卓に向うとにやりと笑いながら男に訊ねる。


「で、小学生相手だけど、アンタどんだけ振る?これだけの年齢差だ。ある程度、弾んでもらわないと」

「あたしの職場で賭博じみたことするんじゃないよショージ」


 老婆からショージと呼ばれた色黒の少年はフン、と笑うと「トミ婆、一番借りるよ」と言ってピン球を弾ませて2台置かれた卓球台の左側に着いた。「小僧が。調子にのるなよ。生意気な鼻っ柱をへし折ってやる」怒りを押し殺した男がゆったりとした構えで台の前でラケットを持つ。11点ワンゲームの闘いが始まった。


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