第8話

夕暮れの河川敷。『サーブの師範代』ヒガタとの試合の後、ぼくは去年秋の新人戦で中野渡翔に負けた時と同じようにこの場所に訪れていた。角の欠けた縁石に座ると緩やかに流れる川を見つめながら大きく深いため息をついた。気持ちが落ち着いてくると頭にきつく巻かれた包帯から鈍痛がこみ上げてきた。保健室で貰った頓服とんぷくを持っていたミネラルウォーターで喉に流し込む。しばらくすると細い影がこっちに近寄ってきて、連なった縁石にマネージャーの田中がスカートを抑えながら座った。


「あの、その…残念でしたね、モリアさん」


うまく言葉が見つからず、もじもじとした態度で田中が視線を逸らしながら言う。…言葉が浮かばないのはぼくも同じだ。試合前に大見得を切って全日本選手権の出場権をゲットすると宣言したにも関わらずこのザマだ。


「キオンとコーダイはなんて言ってた?」


意を決して腹に力を籠めて田中に問いただす。敗北しても部長としての務めがある。世代最強と言われる程の実力者である小学生コンビにぼくの卓球はどう映ったのか。「えっと、それはですね…」少し答えづらそうにして頭の中で言葉を選びながら田中はぼくに答えた。


「キオンくんは『まー、相手のサーブもエグかったし仕方ないっすよ。上手い人がトーナメントの最初で負けるのはよくある事だし。でも正直言うともう少し粘って欲しかったっすね。それに相手にあれだけサービスエースを許すのはあり得ない』と言っていました」

「そうか…コーダイは?」

「コーダイくんの方は、あまり多くは語りませんでしたが、少し深刻そうな顔をしていました。もしかしたら穀山中の卓球部は自分の実力にあっていないと感じたのかもしれません」

「…そうか」


ふたりとも声が震えていた。『全国レベルの実力を持った彼らが入部しても恥ずかしくないような強い卓球部を造る』という目標を立てぼくと田中は活動してきた。そのミッションが失敗という形で崩れ落ちようとしている。大型のトラックが後ろの道路を通り過ぎてその車輪の音が遠くなるとぼくは深く息をつくようにして田中に告げた。


「俺、今日で卓球辞めるよ」


驚いた顔で田中がぼくを見つめる。この1年、真剣に卓球をやってきて少しずつ分かってきた。世の中にはこっちがどれだけ努力しても少しの才能でそれを簡単に飛び越えていくような凄い連中が大勢いる。それもこの小さな田舎町にしてもだ。同世代、少し上の世代、そして下の世代。地元メディアに『チキータ王子』なんて持ち上げられて思いあがっていた。ぼくはただの弱小卓球部のいち部員でしかなかった。その事実に気づいた途端にこみ上げてきた自分の存在が足元から消えていくような感覚に耐えられず自分の口から『辞める』という言葉が漏れていた。


「どうしてですか?今日試合で負けたから?悔しいのは分かりますけど、モリアさんは部長なんだからもっと冷静になって…」

「もう決めたんだ。俺、辞めるよ。約束したんだ、卒業した先輩達に最強の卓球部を造って全国制覇するって。それと目を掛けてくれた全日本協会員の人たちに対してもだ。世代で一番の選手になるって誓ったのにこんなところで負けるなんて恥ずかしくてもう、やっていけないよ」

「もう!モリアさんの馬鹿!!」


両拳を握って立ち上がった田中の姿を驚いて見上げる。レンズ越しの眼は真っ赤に充血し、荒い呼吸のまま田中はぼくに言葉をぶつけた。


「一番の卓球選手になれなくたっていいじゃないですかっ!私にとってモリアさんが一番近くで卓球をしてくれるのが一番なんですよっ!誰が何言っても関係ありません。モリアさんが私にとって一番であれば…!」

「おいおい、落ち着け。何を言ってるんだおまえは」


なだめるように立ち上がると涙目の田中と目が合った。…そうだ、田中は卓球部に入部した時からいつもそばに居てくれた。卓球部が解散の危機に陥った時もぼくを連れ戻そうとして隣町の卓球大会に仮装までして出場した。今までぼくに向けられていた彼女の想いにもう目を背ける事は出来ない。ぼくは田中の肩を抱き、気が付くと声をあげて泣きながら田中の小さな体を抱きしめていた。


「モリアさん、わたし嬉しいです。願いがひとつ叶いました。ありがとうございます」


とんでもない間違いを犯した。これまでのぼくが今のぼくを見ていたら指をさして馬鹿にしていただろう。敗戦のショック?一時の気の迷い?違う、ぼくの心に湧き上がった感情。それは腕の中の少女に対する愛だったのだ。



「なんだ、おまえら。そういう関係か。もうオレが入り込む余地なんてねーな」


少年の声がして驚いて田中から離れると目の前に良く知る顔の人物が立っていた。


「タク!?どうしてここへ?」

「お前の試合が気になってランニングついでに観に来たんだよ。もう終わってたのは残念だったけど吹っ切れたみたいだな」

「そ、そうですよ!モリアさんはタクくんじゃなくてわたしを選んだんですっ!」


田中が顔を真っ赤にしながら眼鏡を押し上げて声を張った。ぼくは親友であるタクに「見に来てくれてありがとう」と頭を下げた。


「おいおい、観に来たけど終わってたって言ったじゃん。それともおまえらが抱き合う姿をか?」

「あー!タクくん見てたんですね!」

「ああ、一部始終見てやったぜ。おまえらの小恥ずかしい青春をな」

「もー、クラスのみんなには内緒にしてくれないと困りますからねー!」


照れ隠しでタクを追い回す田中を見ていたら涙で視界が歪んできた。やっぱり俺にはコンタクトは向いていない。目から鱗を外して裸形の世界を見つめる。ぼくの卓球人生はまだ始まったばかりだ。


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