ジムノペディ

灰崎千尋

茜さす

 放課後、悪友たちとさんざん無駄話をしてから下駄箱まで来たところで、自分が日直だったことを思い出した。

 かったるいこと甚だしいが、日誌を書いて職員室へ持っていかなければならない。明日も続けて日直をやらされる方が、余程かったるい。

「悪い、先行ってて」と、帰宅部仲間に伝えてきびすを返す。

 そろそろ空き教室には部活に勤しむ奴らがやってきて、暇人が追い出される時間だった。引き潮のように人が少なくなった廊下に、上履きの靴音がやたら響いて聞こえる。それがやけに、俺を追い立てる気がした。

 自分のクラスの戸をガラガラ開けると、崎本がいた。窓際後方の席にポツンと一人座っている。崎本がこんな時間まで残っているのを見るのは珍しい。いつも授業終わりのチャイムが鳴れば、早々にいなくなるイメージだった。

 とはいえ、そんなに仲が良いわけでもないので、俺は特に声もかけずに教壇へ向かう。そのぱっくり口を開けた棚から日誌を出して、ページをめくった。

 さて、何を書くか。高二にもなって日誌に書くようなことなんて無い。すこぶる平和な一日だった。それで充分じゃないか。前の奴らは何を書いているだろう……


『大会に向けて、バスケ部の練習が厳しくなってきた。レギュラーは死守したい。』

『四時間目のゲリラ豪雨がすごかった。台風だったら早く帰れたのに……』

『なんでもいいから5000兆円ほしい!!!!!』


 うん、全く参考にならなかった。予想通りではある。

 それでも何か数行埋めるだけのネタはないかと教室を見回してみて、ふと、崎本の顔が目に入る。どうも物足りないと思ったら、眼鏡をはずして拭いていた。

 いつもかけている、学ランと同じ黒につやめく、少し細身のセルフレーム。それが無いだけなのに、まるで知らない顔だった。少し神経質そうな顔が今はやけに無防備で、意外と黒目がちな目がぼんやりと手元を見ている。

 それだけだ。けれど何故だか目を離せない。

 やがて、崎本が拭き終えた眼鏡をかけ直した。すると俺の視線に気付いたようで、レンズの奥の目が素早く瞬くと、はにかんだようにふんわり微笑んだ。

 そんな顔をされたら、見てはいけないものを見てしまった気になるじゃないか。

 まるで、裸を見てしまったかのような──


 途端、俺の頬がカッと熱くなった。どうして俺が恥ずかしい気持ちになっているんだかまるでわからないが、心臓の音がうるさい。


「ごめん、邪魔だった? すぐ出るね」


 そう言って崎本がいそいそと帰り支度をするのを「いや別に、違うんだ」と、とりあえず押しとどめた。


「日誌、書くことなくてさ」


 日誌を抱えて、崎本の席に歩み寄った。本当のことなのに、なんだか言い訳している気分だ。崎本の方は「ああ、日直か」と、何ともない顔で頷いた。


「確かに今日は、何にもなかったねぇ。体育とかも無いし」


 そう言いながら、崎本の指先が机の上をしなやかに叩いた。


「午後の授業はぽかぽかしていて、ジムノペディが弾きたくなるなぁって、思ったかな」


「じむ……何?」


「あっ、ジムノペディっていうピアノ曲があって。えっと……聴いて、みる?」


 俺が聞き返したのに対して、崎本がおずおずといった感じで答えた。よくわからないまま頷くと、崎本はやけに嬉しそうにスマホを取り出して、ミュージックプレイヤーのアプリを開いた。


 『ジムノペディ 第1番』


 じわじわと再生バーを伸ばしながら、静かにピアノの音が零れだす。

 ああ、これは何というか、音楽の授業で聴くような曲と違って堅苦しくも、重苦しくもない。少しけだるくて、喫茶店とか昼寝とかに似合う感じの。


「……割と好きだけど、男子校の午後ってこんなにオシャレじゃなくない?」


「そうかな、ここから見てるとこんな感じだよ。寝てる人もちらほらいて静かだし」


 崎本はまた、ふんわり笑った。

 それを見た俺は、動揺を隠すように日誌に目を落として、思いついたことを口にした。


「んー、じゃあさ、日誌に書いていい? 『今日はジムノペディの似合う日でした』って」


 ええっ、と声をあげて崎本は戸惑ったが、やがて「僕の名前を出さないなら、いいよ」と答えた。

 よし、と俺はその辺に転がったボールペンで日誌に書き込みながら、ふと崎本に尋ねた。


「ピアノ、弾けるの?」


「少し習ってるだけ。今日もこの後レッスンなんだけど、先生が少し遅らせてほしいって言うから、時間つぶしてたんだ」


 横目で崎本を見遣ると、その指がタカタカと机を鳴らしていた。細長い指から手の甲は、骨の形がはっきりとわかるほど筋張っている。背は俺より低いくらいなのに、手は崎本の方が大きいかもしれない。ピアノのことは全く知らないが、この手がピアノを弾くのはなんだか良いな、と思った。


「崎本のおかげで助かった。じゃあ俺、日誌持っていくから」


 書き終えた日誌をぱたん、と閉じて、俺が出ていこうとすると、「あのさ」と崎本が言う。


「さっきの好きな感じだったら、他のも聴いてみて。エリック・サティって人の曲」


「崎本のおすすめは?」


「えっと……『梨の形をした3つの小品』……」


「うーん、覚えらんない気がするから今度貸して」


「CDでいい?」


「ん。じゃあ、ピアノがんばって」


「ありがとう」


 こっぱずかしくてもう振り向かなかったけれど、崎本はまたふんわり笑ってるんだろうな、と思う。

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