二十
一つ一つの景色を確かめるように、青山はごく浅くアクセルを踏みながら、ゆらゆらと車を走らせていた。
林道に差しかかり、車を止めた。青山は車を降りて、林の中に入っていった。
祠に刻まれた六角形を見た。
青山は天を仰いだ。いつのまにか空は淀んでいる。林の中を見回した。殺伐とした風景だった。
また、祠の方へ目を向けた。
早苗さんは知っているのだろうか?
いや、たとえそうだったとしても、僕は、早苗さんのことを————。
青山は踵を返した。運転席に乗り込み、車を発進させた。
「もう帰っちゃうの?」
青山は急ブレーキを踏んだ。
車は前につんのめるようにして停止した。恐るおそる振り向くと、後部座席に、こともなげな表情をした思織が品よく座っていた。
青山は声も出なかった。
狭い車内に、無機質なエンジン音だけが響いていた。
思織は運転席のシートをつかみ、そっと顔を近づけた。
「先週の映画はどうだった?」
青山は唇をふるわせていた。
「あたし知ってるの」
思織は怪しげに微笑んだ。
「二人が、一緒にあの映画を観に行ったこと。あの映画の原作は、私もお気に入りなの。謎解きのシーンは、何度も何度も、なぞるようにして読んだわ。でもお母さん、まさか私が、人のたくさんいる映画館にわざわざ足を運ぶなんて、思ってもみなかったみたいね」
「思織ちゃ——」
「新しい相手ができたと、素直に報告することができなかったのね」
やっと出た青山の言葉を遮って、思織は続けた。
「だから、偶然出会った大学生に介抱してもらったなんて嘘をついて、自然に、あなたと氷降家との繋がりを持たせようとしたんでしょう? あなたが神話に興味があると私たちに知ってもらえれば、今後も、この村を訪ねる口実ができるものね」
青山は何も言い返すことができなくなっていた。
「あの映画に出てくる彼もね、夏が好きだった。権力に押し潰されて、かなわぬ夢に終わったけれど————。でも、私たちはちがうわ。結子ちゃんと結太郎君が愛し合っていようと、お母さんが年の離れた大学生と再婚しようと構わない。一般人のルールや常識にとらわれる必要はないの。みんな自由に、好きなように、好きな人と愛し合うべきだわ。おばあちゃんだって、きっとそう言ったはずよ」
青山は言葉を失ったまま、ゆっくりと首を戻した。
「お父さん」
思織はシートに顔を寄せて、うっとりと目を瞑った。青山の背筋は凍った。
「早くうちへ来て」
思織はため息のように言った。
「氷降家の人間になって」
青山は、ぴくりとも動けなかった。
「そうしたら、私たち、ずっと一緒だから」
彗一は胡座をかいて物思いにふけっていた。
ガレージには暖色の照明が灯っていた。彗一の前には、分解されたバイクのパーツが、部分ごとにバットに入って並べられている。
誰だ。
彗一は何度も繰り返していた。
俺が相続人になることで、いったい誰が得をする? いや、そもそも俺には————。
彗一は使い慣れたレンチを、手の中でくるくると遊ばせていた。
俺にはもう、資格がない————。
彗一はバットの一つを持って立ち上がると、作業台の方へ向かった。それから、バットの中に、無色透明の液体を注いた。
ふと、作業台の隅に、汚れた鉄くずを見つけた。
誰だ。
彗一は考えながら、鉄くずを、トレイの中へ沈めた。
「ねえ」結子は言った。
「なに」結太郎は言った。
「私たち、どうなっちゃうの」
「どうもならないよ」
「私たちのやったことが、警察に知られたら?」
「やったことって? 俺らのしたことが、罪になるの?」
二人は、ベッドに並んで仰向けていた。
「もしも」結太郎は言った。
「なに?」結子は言った。
「もしもとやかく言うやつが現れたとしても、大丈夫だよ」
「なんで」
「俺たちは氷降家の人間だよ? 一般人のために作られた法律なんて、通用しないよ」
「そっかぁ」
結子は目を大きく見開いて、結太郎の方へ顔を向けた。
二人はよく似た顔を寄せ合った。
「結子大好き」
「結子も、結太郎のこと大好き」
「俺たち、ずっと一緒だね」
晶彦は眼鏡を外し、顔をこすった。
「大丈夫?」
緑茶の入ったティーカップをテーブルに置いて、砂織は言った。
晶彦は険しい表情でソファに浅く腰かけたまま、動かなかった。
砂織は盆を持って立ち上がった。
「警察は、何か?」
晶彦は言った。その、短い問いかけにさえ、気力が込もっていなかった。
「特に何も。アイスピックが見つかって、また、いろいろと一から調べ直すみたい」
「このまま自殺として、処理されるんだろうか」
「さあ。ショーケースから出てきた遺言書のことがあるし。それに————」
少し間を置いてから、晶彦の方を見て、容赦なく砂織は言った。「晶彦兄さんが書いた、遺書の件も」
晶彦はくたびれた笑みを浮かべた。
「俺がヘマしたと思ってる?」
砂織は首を横に振った。
「誰かが、何か————ちゃんとした意味があってやったのよ。晶彦兄さんを悪者にしたかったわけじゃない」
「意味? 意味ねぇ……」
晶彦は訳もなく、庭の方へ顔を向けた。「俺が犠牲になれば、丸く収まるのかな」
「犠牲って————」
「動機はあとから考えるとして」
知的な表情に戻って、晶彦は流れるように話し出した。「俺が一番おばあちゃんの近くにいたわけだし、俺が書いた遺書も見つかってしまったわけだし、死体が見つかったとき、俺がおばあちゃんの息を確認しなかったことを、警察は疑ってるみたいだしね。犯人役を立てるとしたら、状況からいって、俺が適任だと思うよ。それで氷降家が守られるのであれば、事を長引かせるよりも、そっちの方が————。あとは、優秀な弁護士を用意して————」
「ちょっと待って。どうして晶彦兄さんが犠牲にならなくちゃいけないの? 誰もそんなこと望んでな————」
砂織が言い終わらないうちに、晶彦は立ち上がって部屋を出ていった。
「どこ行くの!」
「書斎」歩きながら、晶彦は言った。
「もう少し休んだ方が————」
「休むよ」
そう言って、晶彦は振り返った。「書斎の方が落ち着くんだ」
晶彦は書斎へ向かうと、デスクの脇の、書類が載ったトレイを見下ろした。
どうして————。
晶彦は呆然としていた。
あれは、確かに燃やしたはず————
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます