十九

「私知りません!」

 大口を開けて泣きわめきながら、丹原三梅は言った。「凶器が箒に刺さってたからって、なんで私がやったことになるんですか?」

 テーブルの上に、シンプルな座敷箒と、持ち手がガラスでできたアイスピックが寝かされていた。箒の柄頭には穴が開き、アイスピックのニードル部分には、赤黒いものがまとわりついている。

「それはね」

 しらけきった面持ちで、佐野は言った。「このガラスの持ち手から、君の指紋が検出されたからだよ」

「嘘です! 私ちゃんと拭————」

 おらび声がやんだ。部屋の中が、しんと静まり返った。

「ちゃんとふ?」

 顔色を変えずに、佐野は問いかけた。三梅は、唇を絞るようにして黙った。

「丹原さん、冷湖さんの殺害については、認めるつもりはないってことだね?」相原が言った。

「もちろんです! 私、絶対にやってないです!」顔を上げ、三梅は必死にうったえた。

「だったら、遺体を発見したときのこと————本当のことを話してもらわないと、僕らも君の言葉を信用しきれない」

「だからあ、私が部屋に入ったとき、おばあちゃんはもう死んでたんです!」

「だからぁ、それはもう聞いたんですよぉ」

 眉間を押さえながら、うめくように佐野は言った。「俺たちが説明してほしいのは、こっちのこと」

 佐野は、テーブルの上をつついた。

 三梅は血に染まったアイスピックを打ちひしがれたようすで見つめた。それから、不安げに話し始めた。

「私、ほんとに分からなかったんです。おばあちゃん、ほんとに寝てるんだと思って……。枕元のテーブルに、お酒を——あの————洗剤だったやつですけど————置いていこうと思って。近づいたら————む——む、む————」

 三梅は恐怖に顔をゆがませ、言葉をふるわせた。

「落ちついて」相原が言った。「ゆっくりでいいから」

 三梅は呼吸を整えると、再び話し出した。

「ワンピースの、胸のところが、赤くなってて————。びっくりして、お酒こぼしちゃって。すぐには分からなかったですけど、何か————透明なのを握ってるのが見えたんです。それで、手を開いてみたら————」

 三梅はまた、アイスピックに視線を向けた。

「それで?」佐野は催促した。

「それで、急いで掃除用具入れのところまで走っていって、これに突き刺しました」三梅は箒を指差した。

「どうして」

「どうして?」

 三梅はいぶかしげに目線を上げた。「知らないんですか? これ、タチシェフ?っていうブランドのやつで、一本何十万とかするんですよ?」

「そうなの?」

 佐野は相原の方を見やった。相原は小刻みに首を振った。

「ほんとです! 私聞きました。花織さんと、あの高校生の子たちが話してるの」

「それってさっきの洋間にあったガラスドールのことじゃないの?」

「さあ。私、部屋の外から聞いてただけなんで」

 三梅はなぜがふくれっ面だった。「あの子たちが何見てたのかまでは知らないです。砂織さんがうるさいんで、必要な部屋以外、勝手に入らないようにしてましたし、事件が起きて、警察の人にいろいろ聞かれるまで、あの部屋にガラスの人形があったことすら知りませんでした。だから、おばあちゃんがこれ握ってるの見たとき、あの子たちが話してた高価なものなんだと思って————。私、盗もうと思って盗んだわけじゃないですよ。家の中物色したりとか、お客さんの私物漁ったりだってしてません。でもこのアイスピックは、あの時、たまたま目に入って……」

「それで?」

「おばあちゃん、死んでたし……」

「だから?」

「……もう、必要ないかなって」

「死んだ人のものなら、盗んでもいいの?」

「わ、私だっていろいろ考えてるんです!」

 また、三梅はわめくように言った。「何も一億円盗んだわけじゃないじゃないですか! お金持ちの資産のうちの、ほんの数十万ですよ? それが盗まれたら、お金持ちの生活が変わるんですか? 不幸になるんですか? ならないですよね? でも、私は十万とか二十万貰えたら、ちょっとは生活に余裕ができるんです。何百万とか何千万とか、それくらいの額だったら、私だって〝よくないな〟って、手ぇ出したりしませんでしたよ。おばあちゃんの部屋に高そうな宝石があることだって知ってましたけど、それだって、少しも盗もうなんて思いませんでした。なくなったら、私のせいにされるの、分かりきってるし……。でも、このアイスピックは数十万のやつだって聞いたんです。それくらいなら、もしなくなっても、バッグ一つ誰かにプレゼントしたとか、海外旅行行ったとか、それくらいの気持ちで流せるじゃないですか。私、ほんとは血とかだめだし、ホラーとかも無理だから……あの時は、すっごい怖かったです。だけど、頑張ってアイスピック回収して————私、死んだ人に触るのなんて初めてなんですよ? しかも、自分のおばあちゃんならまだしも、赤の他人のおばあちゃん。なんでこんな思いまでしてお金稼がなきゃいけないんですか? あの双子の子たちは、この家に生まれたってだけで、高そうな指輪して、いい車に乗って、待ってるだけでご飯が出てくるような贅沢な暮らしができるのに。世の中不公平ですよ!」

 そうだよ。

 佐野は心から思っていた。だが、健全なふりをした。

「でもさ、分かるじゃない? 殺人事件なんだよ? 凶器なんだよ? 勝手に持っていったらだめだって思わなかったの?」

「なんでですか?」

 三梅は、気持ちのよいほどきれいな不思議顔を浮かべた。「だって、犯人なんていないんですよ。あのおばあちゃん、自殺したんです。自分で自分を刺したんです。捕まえるべき人間がいないんだから、凶器があってもなくても同じじゃないですか。だったら、その凶器を売って他の誰かが幸せになる方がよくないですか?」

「同じじゃないでしょ。もし本当に冷湖さんが自殺だったとしたら、その事実が有耶無耶になってしまうんだから」

「だから、そっちの方がよくないですか?」

 少し苛立ったようすで、三梅は言った。「身内が自殺したなんて悲しいこと、知らずに済むんだから。凶器が見つからないまま、事件は迷宮入り。それでいいじゃないですか」

「そうかな。結果はどうあれ、真実を知りたいと思う人だって、いると思うけど」

 説教を垂れるつもりなどなかった。だが、佐野の口調は、相手をたしなめるようだった。

「君のやったことは、証拠隠滅の罪に問われるんだよ?」

 相原が言った。三梅は、唇をとがらせてうつむいた。

「もう一度聞くけど、死体を発見したとき、不審な物音を聞いたり、人影を見たりしなかった?」佐野はたずねた。

「見てないです」三梅はうつむいたまま、きっぱりと言った。

「アイスピックの他に、部屋の物を動かしたりは?」

「してません」

「枕元にあった封筒も?」

「触ってません」

「絶対に?」

「絶対にしてません」

 三梅は、じと目になって佐野を見た。

「なんでそんなに疑うんですか?」



 佐野と相原が、氷降邸の玄関から出てきた。

「どうだったんですか?」

 あずき色のドレスを着たメイリスを胸に抱きながら、本村が聞いた。

 他の三人も外で待っていた。この日の午後、本村たちは岩月市へ帰ることになっていた。荷物はすでに、相原の車に運び込まれている。

「どうだか」

 手応えのないようすで、佐野は答えた。

「あのアイスピックは、この家のものじゃないそうだよ」相原が言った。「キッチンで使ってるものでも、所有してる骨董品でもない。冷二さんも見たことがないって」

「じゃあ、三梅さんはどうしてそれを盗もうとしたんですか?」

「君たちが話してるのを聞いたんだって」気怠げに、佐野は答えた。

「え? 俺ら?」大槻が言った。

「そう。あのアイスピックが、一本うん十万の値打ちのあるものだって」

「それって、花織ちゃんとガラスドールのこと話してたときのじゃないですか?」本村は言った。

「一体うん十万くらいするんでしょって、俺がてきとーに言いました」大槻は言った。「実際はそれ以上の価値のある骨董品でしたけど」

「その会話をうっすら聞いて、冷湖さんが握ってたアイスピックを、骨董品だと勘違いしたらしいよ」佐野は言った。

「それで、盗んでお金に換えようとしたってことですか?」本村は聞いた。

「まそんなとこ」

 玄関から、柏谷夫婦が現れた。亭一はせかせかと不機嫌そうに、久子は上品な小股歩きで、自家用車の方へ向かっていった。

 亭一は運転席に乗り込みながら、誰へ向ける風もなく、大声で話した。

「なんだ。やっと解放されたと思ったら、『後日またお話を伺うことがあるかもしれません』だと。警察はこの三日間何をしてたんだろうな」それから、勢いよくドアを閉めた。

「お気張りくださいな」

 久子は微笑みながら、佐野に向かって小さく頭をさげた。

 佐野は道化のようにうやうやしく首を垂れた。久子が助手席に乗り込むと、車は名残惜しさなどこれっぽっちもなさそうに、一息に敷地を駆け抜けて出ていった。

 玄関先に視線を戻すと、青山が、見送りに立つ一族の人間に向かって謝罪のように何度も頭を下げていた。

 早苗が、後れ毛をかきあげながら熱心に別れの言葉を述べていた。その脇から、花織がサンダルを履いて飛び出してきた。

「もう行っちゃうんだね」

 花織は、少しそわそわしながら言った。「本当は、もっと寛いでほしくてお招きしたのに……。なのに、こんなことに巻き込んじゃて……。本当にごめんね」

「ううん」

 当然とした無表情で、本村は言った。「花織ちゃんのせいじゃないでしょ?」

 花織ははっとして肩をつり上げた。熱のない本村の顔には、一突きで刺すような強い瞳があった。

 花織は逃げるように視線を落とした。

 熱などないはずの人形の顔に、然有らぬふりをした、甘い微笑があった。

「送ってやれなくてごめんな」

 彗一がやって来て言った。「俺なんかこのあとまた警察と話さなきゃならないらしくてさ。ほら、あの人形壊れたし。ショーケース、作ったの俺だし」

「全然、気にしないでください」本村は言った。

「お世話になりました」大槻も頭を下げた。

 ふと池脇が気づくと、庭木の影に、こちらを見つめる伊織の姿があった。

 池脇はそっと歩み寄り、しゃがみ込んだ。

「帰るわ」

「うん」

 首をひねりながら、伊織は言った。

「元気でな」

「うん」

「わらび餅、もうできてっから」

「うん」

 伊織は、靴のつま先で地面をえぐりはじめた。

「気晴らしにいっしょに来るか?」

「いい」

「あっそ」

 池脇はゆっくりと立ち上がった。「じゃあな」

 本村たちは車に乗り込んだ。

 青山も年季の入った軽自動車に乗り込もうとしていた。だが、忘れ物をしたらしく、慌てて玄関の方へ引き返していった。

 相原のスマホが鳴った。通話が終わるのを待つ間、本村たちは話した。

「ショーケースの下に落ちてたガラスの槍は、やっぱり兵隊の人形のパーツだったんですか?」本村は聞いた。

「そうみたい」佐野は言った。「戻ってきたのはいいけど、肝心の人形本体は全壊だって」

「あの時、誰かが槍を戻そうとした?」

「で、人形を落として壊したから、ガラスの破片の中に槍のパーツを置いて逃げた?」

「三梅さんには無理ですよ」

 大槻が言った。「ガラスの割れる音がしたとき、俺らと一緒にいましたから」

「そもそも、このタイミングで槍が戻ってきたってことは」佐野は言った。「やっぱりあれは事件と関係があるんじゃないかってことよ」

「あの」

 池脇が言った。後部座席で腕を組みながら、真剣な表情を浮かべている。「俺のやばい推理聞いてもらっていいすか」

「あら珍し」大槻が言った。

「いいよ聞こうじゃないの」佐野は気楽に構えた。

 池脇は腕をくずして、やや前のめりになった。

「多分すけど、ガラスの人形を割ったのは、伊織だと思います」

「そういえばてつみち、あの時、伊織君とわらび餅作ってたんだよね?」大槻が聞いた。

「そう。でも、人形やショーケースから指紋が出るかもしれないって話をしたら、あいつ、急に一人でどっか行って」

「人形を壊しに?」佐野が言った。

「いや、槍のパーツを戻しにです」

「槍のパーツを盗んだのは、伊織君ってこと?」大槻は言った。

「なんでまた」佐野も言った。

「多分、盗むつもりはなかったと思いますよ。普通に、あのガラスの人形で遊ぼうとしたんだと思います。俺の想像ですけど、あいつ、自分が作った服を人形に着せたかったんじゃないかなって。それで、兵隊の人形をいじくってるときに、槍のパーツが外れた」

「でも、あれって元々外れるようになってたんですよね?」

 大槻は佐野の方を向いて言った。丁度、電話を切った相原が、佐野の代わりにすばやく答えた。「そう。あれはすごく精巧な、ガラスの着せ替え人形だから」

「でも、伊織がそれを知らなかったとしたら?」

 池脇は言った。「元は着せ替え人形だったとしても、今は骨董品で、ずっとあのショーケースに入れられたままなんすよ?」

「何も知らずに遊んでいて、突然、人形の一部が欠けたら、伊織君、きっと……」

 本村は、痛ましがった表情を佐野の方へ向けた。

「叱られると思って、槍をどこかへ隠したってとこかね」座る体勢を整え直して、佐野は締めくくった。

 車は発進した。ダークブラウンのサフラネクは、のどかな田舎道をゆったりと抜けていった。

「それから、ブルーキュラソーの件も」

 池脇が言った。

「まさか」

 佐野は顔をしかめて振り返った。「あれも遊びのつもりだったとか言うなら怒るよ?」

「いや、ウォッシャー液のボトルをシロップの棚にしまったのは、伊織で間違いないんすよ。でも、それもわざとじゃないっていうか————。金曜の夕方、伊織が台所に行ったら、結子さんたちが氷を使った跡と、彗一さんが持ってきたウォッシャー液のボトルがあったらしいっす。それで、伊織はそのボトルを、ブルーハワイのシロップだと勘違いしたらしくて。本人はいいことしたつもりで、ボトルをシロップの棚にしまって、それを、夕食のとき、棚を間違えて開けた丹原さんが持っていったって感じだと思います。寝酒が洗剤にすり替わったのは、いろんな偶然が重なって起こった事故なんすよ。ウォッシャー液も、槍のパーツも、冷湖さんの死とは関係ないと思います」

「また、ふりだしに戻る必要がある」

 車の前方を見つめながら、佐野は言った。「丹原三梅の証言で、遺体発見時の状況が大きく変わった。冷湖さんはアイスピックを握りしめた状態で発見された。枕元には二枚の白紙が入った、白い封筒が置かれていた。死亡推定時刻、家の中にいた人間全員にアリバイがある。盗られたものは何もない————」

「あ、相原さんストップストップ」

 本村が言った。車は、街へ向かう長い林道へ差しかかっていた。

「あれ、見えます?」

 本村は林の奥を指差した。「青山さんが話してた、太陽の神様が祀られてる祠です」

「ここ通るときは、手ぇ合わせる習慣なんですって」大槻が言った。

「へー」興味のなさそうに、佐野はもらした。

 本村、池脇、大槻の三人は車を降りた。

「もういいじゃん。誰も見てないし」

 車の窓から、小ばかにしたようすで倉沢は言った。

「でもいいじゃん、イベントなんだから」大槻は軽く返した。

「あれ、村の人じゃないですか?」

 車の前方を見据えて、相原が言った。林道の向こうから、一人の老人がゆっくりと歩いてくるところだった。

「菊田さんだ」本村は言った。

「菊田?」佐野は口をぽかんと開けて考えた。

「あれですよ。摂津せっつさんと加賀かが君が聞き込みに行った、すっごいよく喋るっていうおじいさん」相原は言った。「帰り際に春菊くれようとしたって」

 まだ少し遠い距離から、菊田は歩きながら、のんびりとした調子で声をかけてきた。

「もう帰んのぉ」

「はい」

 大きな声で、愛想よく、大槻は叫んだ。

「気よつけな」

 本村たちのもとまでたどり着くと、調子を変えずに菊田は話し出した。車の方へは目もくれなかった。「鹿やら、狸やら出るから」

「あ、春菊」

 本村は車の中を指さした。「ごちそうさまでした」

 どうということはないという風に、菊田は曖昧な謙遜の言葉を述べながら片手をひらひらとさせた。

「菊田さん、この道歩いてきたんですか?」大槻が聞いた。

「そうよ。いつもここまぁっすぐ行って、戻ってくんのよ」

「結構な距離ですよ」本村は言った。

「んなも、俺あまだここここ強いもの」

 菊田は自身の腿を叩いた。それから、照れ隠しのように、茶目っけを出して言った。「じゃあね!」

 菊田は歩き出した。

「さよなら」

 車の窓から、倉沢がそっけなく言った。

 菊田は立ちどまって倉沢の顔を凝視した。

「あんた誰」

 それからまた歩き出し、軽快な足取りで村の方へ向かっていった。

「あのおじいちゃん、若い頃バイクの無免許運転してたらしいですよ」

 菊田の後ろ姿を見つめながら、大槻が言った。

「へー」呆けたようすで、佐野はもらした。

「逮捕します?」本村が聞いた。

「まさか」

 ため息のように言うと、佐野はぼんやりと上を見上げた。「子どもの頃近所にいたな。無免許で軽トラ乗り回してるおじさん」

「え、最低」本村は言った。

「なんで積極的に面倒くさい世の中を作っていこうとするんですか?」大槻は言った。

「今と比べると、いろいろ罰則も緩かったですしね」相原も言った。「嘘だろって思うかもしれないけど、昔は、飲酒運転してる人だって結構ざらにいたんだよ」

「ええっ」

「病気だよ」

「殺人未遂でブチ込んでやりゃいいっすよ」池脇は言った。

「ほんとにそう思う?」

 まっさらな顔で、佐野はたずねた。

「はい」

「普通に」

「縁切りますね」

「通報します」倉沢は言った。

「そっか」

 佐野は、ふっと笑った。

「時代は変わってるんだね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る