十六

「もしかして、木花知流比売コノハナチルヒメのこと?」

「ううん。六離天流比売」

木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤビメじゃなくて?」

「ム・ツ・ノ・ハ・ナ・テ・ル・ヒ・メ」

「うーん……」

「本村君、ちょっといいかな?」

 部屋の外から、花織は呼びかけた。

「ふぁい」

 倦怠な声がして、花織は障子を開けた。部屋の中には、障子に足を向け、畳に腹這いになる倉沢の姿だけだった。

「あれ、みんなは?」

「池脇は伊織とわらび餅作りに行った」

 肩越しにちらりと花織を見て、倉沢は言った。

「わらび餅?」

「そう」

 倉沢は凝り固まったような鈍い動きで頭をもたげた。「砂織さんに聞いたら、未開封のわらび粉があるからって。本村と大槻はトイレ探しに」

「トイレ? トイレならここを出て————」

 花織は廊下の先を指差した。

「あー……」

 倉沢は喉を鳴らすようにして発した。「ぬー……」

「あ、ううん、いいの」

 とっさに花織は言った。「伊織を見かけなかったか、聞きにきただけだから。池脇君と一緒なら、いいの」

「そうですか」

 倉沢はぎこちなく返した。

 二人は同時に、同じ具合に固まった。倉沢は花織に足を向けたまま。花織は、廊下から倉沢を見下ろしたままだった。緊張感や気不味さはなかった。軟く、そこに落ち着いていた。

「今、誰かいなかった?」

 花織は言った。

「はい?」

「ううん。誰かと話す声が聞こえた気がして。倉沢君、ずっと一人?」

「二人」

「え?」

 倉沢は体を上げ、覆い隠していたものをあらわにした。畳の上で、小さな青髪の淑女が光っている。

「すーごい。これ、ホログラムだよね?」

 花織は倉沢のそばへやって来た。

「そうです」

「これ、これがその機械?」

 花織はなでしこの足下にある小さな四角いプロジェクターを指した。

「『ピクシー』です」

「おしゃべりできるの?」

 倉沢は頷いた。

 花織はほうっとため息をもらした。「すごいねえ……」

 花織はすぐにはっとした。

「あ、ごめんね邪魔して。池脇君が戻ったら、『伊織と遊んでくれてありがとう』って、伝えておいてほしい」

 倉沢は頷いた。

 花織は立ち上がり、戸口へ戻った。それから、何か思い出したように振り向いた。

「倉沢君、もっと楽な服で過ごしてくれていいんだよ」

 倉沢は足を放り出したまま、後ろに腕を突き、妻とともに花織を見上げていた。

 その貧弱そうな体は、連日、白いシャツ、鉄色のネクタイ、深緑のチェックのスラックスで堅く守られていた。花織は続けた。「なんなら、寝間着のままだって誰も何も言わないから————」

「俺は常にこれなんで」

 だらりとした体勢で、堂々と、倉沢は言った。

「そうなの? 学校、うるさいの?」

「や、別に」

「倉沢君、郷葉大附属だよね? 郷葉って、制服だけじゃなく、鞄も指定なんでしょ?」

 花織は、部屋の隅に置かれた灰緑のスクールバッグをちらりと見やった。「生徒を服や髪型で縛りつけるなんて、時代遅れだよね。ちゃんと勉強して、周りに迷惑かけないなら、私は、ファッションくらい自由でいいんじゃないかって思うんだけど……。ほんと、校則が厳しいと大変だよね————」

「別に大変じゃないですけど」

 倉沢は言い放った。花織は、ひやりとして口をつぐんだ。

「郷葉ってなぜか勝手に校則厳しいと思われがちですけど、どっちかっていうと自由ですよ。制服と鞄は指定ですけど。三年に銀髪のeスポーツ部部長がいますけど何も言われませんし、休みの日まで制服着ろなんてシデリアン校則もありませんし」

「え、じゃあ、どうして……」

 戸惑いながら、花織はたずねた。

「見下せるじゃないですか。他校の連中のこと」

 倉沢は言った。「校則って、秩序や抑圧のためだけにあるわけじゃないですよ。ブランドなんです。俺らからしたら。郷葉生にしか与えられない、特別な制服や鞄に付加価値がある。それを身につけることで、周囲よりも優位に立つことができるんですよ。自由な場所はたくさんありますよ。自由な連中もたくさんいますよ。でも、そこに力がないなら『不自由』と一緒じゃないですか。大衆の集まる原っぱに好きな色のサンダルで行くことの、何が楽しいんですかね。それって結局は、そういう選択しか選べなくなってるだけじゃないですか。丘の上の会員制ロッジに非売品のバッジ付けて入る方が、よっぽど気分いいですよ。大体、上にいる人間ってのは、生まれた瞬間からいくつも自家製ブランドを手にしてるもんですよ。そこからブランドつきの学校へ行って、ブランドつきの仲間を作って、ブランドつきの仕事に就いて。たくさんブランドを獲得して、そして、『自由』を得るんです」

 また、二人は固まった。一方は足を向け、一方は見下ろしていた。

 花織は不服そうな、切ない表情を浮かべていた。思いやりに満ちた口調が、力強いものに変わった。

「じゃあ、倉沢君は、理不尽に誰かを縛りつけるようなルールでも、必要だって思うの?」

「まあ。結果的に利益になるなら」

「そのルールのせいで、傷つく人がいても?」

「傷つくと思うならサンダル履いて原っぱ行けばいいですよ。その代わり————」

 倉沢は、なじるような目つきで花織を見た。「ロッジでの暮らしは、捨てることになりますけど」

「そっか……。そうだよね」

 花織は唇をきゅっと結んで、微笑んだ。「原っぱは自由で楽しそうだけど、生きていくには、大変かもね」

 倉沢は返事をしなかった。黙って、花織を見上げていた。

 花織は視線を伏せながら背を向けると、静かに部屋を出ていった。

 倉沢は腕を突いたまま、隣にいる妻にささやいた。

「ムツノハナテルヒメ」

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