十二
「良好、といえば、良好だったんでしょう」
うつむきながら、氷降早苗は話した。「笑顔が絶えないだとか、仲睦まじい家庭だと言えば、嘘になりますが。少なくとも、大きなトラブルや、いざこざはありませんでした。尤も————」
早苗の体はか細く、顔は青白かった。だが、佐野の目には、早苗が痩せこけた体に、大きな憤懣を湛えているような気がした。
「誰も本当のところは分かりません。義母は、家族に対して日常的に小言を言っていて、皆それを〝いつものこと〟と聞き流していましたが、今となっては、あれは、本当に、義母の心からの不満や苛立ちだったのかもしれません。他の者にしても同じことです。皆、何事もないように振る舞っていますが、実際は、家族の誰かしらを毛嫌いしていたかもしれません。共同生活というものは、多少なりとも、妥協や我慢を強いられるものでしょう。そういった、表には出ない不満というのは、我が家にもあったのかもしれません」
「あなた自身は、共同生活から離れようと思ったことは?」
「私が?」
早苗は驚いたように顔を上げた。「なぜです?」
「妥協や我慢が、ゼロだったと言い切れますか?」
「私は、この家が好きなんです!」
うったえかけるように、早苗は言った。「元々、体力がない上に、要領も悪くて……。進んで何かをやろうとしても、逆に仕事を増やして、周りに迷惑をかけるばかりで……。実の親にさえ、呆れられていた始末で……。そんな私を、夫も、この家の人たちも、『それでいい』と受け入れてくれたんです。特に義母は、『人それぞれ、〝できる〟の限度がちがうのだから』と言ってくれて……。夫が亡くなったあとも、家族の、私に対する態度は変わりませんでした。『好きなだけこの家にいなさい』『家族なのだから』と……。ですから私は、この家を離れるつもりはないんです。夫が愛した、この素晴らしい田舎で、子どもたちと、何不自由ない暮らしを送ることができるなら、こんな幸せなことはありません。ですがそれも、こんなことになってしまっては————」
早苗の表情が、一段とやつれたものになった。
「妥協や我慢なら、私は持つより、持たれる側の人間でしょう。一族の方たちの、言葉も、態度も、今となってはどこまで信用してよいものかどうか————。所詮、私は外の人間ですからね。『出てゆけ』と言われれば、その時は、なんとしてでも子どもたちを残して、私一人で氷降家を去るつもりです」
佐野は頷きもせずに、しおらしい早苗の姿を疑り深く見つめていた。「青山さんについて、お伺いしたいのですが」
「青山さん? 彼が何か?」
「先週の火曜に、一度こちらにいらしたそうですね」
「ええ。私が、出先で体調をくずしまして、偶然、通りかかった青山さんが、心配して送り届けてくださったんです。日も暮れていたので、義母が気を遣って、『泊まっていかれては』と————」
「青山さんは、冷湖さんと何か言葉を交わしたりは?」
「いいえ。あいさつ以外、これといった会話はなかったように思います。義母は、その日用事があるとかで、青山さんを出迎えたあとで、すぐに家を出ていったので、顔を合わせる機会もなかったかと————」
「今日、ここに来てからの、青山さんのようすは————」
「彼を疑っているんですか?」
半分笑って、早苗は言った。「彼は神話に夢中なだけの、至って真面目な大学生です。『人殺し』なんて、フィクションでさえ目をそむけてしまうような、心の優しい子ですよ。たった一度、あいさつを交わしただけの義母のことを、殺す動機もありませんし、第一、彼にはアリバイがあります。私たち一族、全員が証人です」
早苗は落ち着きはらって話していたが、佐野には、それが余計に、必死なようすに思えた。
「末のお子さんのことですが」
「伊織、ですか?」
思いがけないようすで、早苗は答えた。
「近頃何か、変わったことはありませんでしたか?」
「ええ、それは————子どもですから。先週好きだと言っていたものを、今週になって突然嫌いになったり、一度欲しくないと言ったものを、次の時には欲しいと言ってみたり……。特にあの子は気分屋で、少々、わがままなところがあるので……」
「もっと、外的な部分はどうですか? 遊んでいて怪我をしたとか、食べ物にあたったとか」
「いいえ。遊ぶときは、常に花織が見ていてくれますし、食材の管理は、正枝さんや砂織が、徹底しておこなってくれていますので」
「伊織君の面倒は、主に花織さんが?」
「ええ。昔から、あの子は面倒見がよくて。元々、友だちも少なくて、村から出たがらない子だったんですが、最近は、伊織のわがままに付き合わされて、ちょくちょく岩月市に遊びに行っているようで、親としては、少しほっとしているんです。慣れないハンバーガーショップへ行って、トレイをひっくり返してしまったらしくて————あの、高校生の方には、大変申し訳ないことをしましたが……」
佐野は慰めるように頷いてみせながら、二枚の白紙をテーブルの上へ並べた。
「これを見て、何か思い当たることはありませんか」
途端に、早苗の表情が戦慄した。
「……ありません」
「といった具合で、昨日義母と顔を合わせたのは、夕食の席が初めてだったんです」
のんびりと、氷降公伸は語った。「といっても、私にとって夕食は、朝食みたいなものなんですが。今日も刑事さんとのお話のために、朝早く起きられるかどうか、もうどきどきでした。いやぁ、日の光なんて、久しぶりに浴びましたよ。たった三文の徳でも、やっぱり早起きはいいもんですね。それだけでなんだか、成功者のような気分になれるんですね」
「はぁ……」
呑気な調子の公伸に、佐野はいささか呆れていた。「失礼ですが、あなたは会社に籍を置いていないようですが」
「ええ。私は、会社のことに関しては一切タッチしていないんです」穏やかに、公伸は話した。「妻からも、仕事の話をされることはありません」
「なぜです? あなたが希望すれば、冷湖さんや冷河さんの口利きで、それなりのポジションに就くことも可能では?」
「実を言うと————」
参ったように、公伸は頭を垂れた。「あまり話したくはないことですが、私も、それなりに名の知れた、とある同族会社の跡取りだったんです。幼い頃から何となく、ゆくゆくは、自分が社長になるのだということは分かっていましたが、自分には荷が重いだろうということも、分かっていました。三十代になり、いやいや出席したパーティーで、冷河と出会って……。冷河は、自分のパートナーに、家柄も肩書きも求めないと言いました。それどころか、相手が望むなら、結婚後は働かずに家にいてくれていい。ただ、自分の家族に————氷降家に婿入りしてくれるなら、それでいいと————。私は、その頃には、自分は社長業どころか、会社勤めというものに向いていないと感じていましたし、冷河だけではなく、一族のみなさんが、甲斐性のない私のことを温かく受け入れてくれたので、親の反対を押し切って、すぐに冷河と結婚することにしたんです。それから、ここで共同生活が始まって……。私は、外へ働きに出ない代わりに、せめて正枝さんのように家事を頑張ろう、立派な専業主夫になろうと、勇んでいたんですが……」
「が?」
「私、家事にも向いていなかったんですよ」
「は?」
「それで、意気消沈していたら、義母が、『あなたの好きなように生きたらいいですよ』って。冷河も、『あなたが働かなくたって、家の中の誰一人困らないでしょう』って言うんです。私がなんにもできない人間だってこと、結婚前から見抜いていたらしくて。いやぁ、さすが、会社を経営する人っていうのは、先見の明がありますね。そういうわけで、私は会社に属さず家事も手伝わず、堂々とすねかじり生活を満喫しているわけです」
いいなあ。
遠い目をして、佐野は思った。相原がそれを小突いた。
「あ、で、最近、身の回りで何か変わったことはありませんでしたか?」我に返り、佐野は続けた。
「変わったことですか……」
公伸は難しい顔で考え始めた。「私の、気のせいかもしれませんが」
「遠慮なくおっしゃってください」
「……先週、晶彦君に用があったので、彼の寝室へ訪ねに行こうと思ったんです」
「用というと?」
「大したことではないですよ。書類に不備がないか、確認をしてもらいに。仕事をしていなくても、書類を書くことってあるんですよ、刑事さん」
「それで?」
「寝室へ向かう途中で、晶彦君の書斎の方に、明かりが点いているのが見えて。まだ仕事をしているのだと思って、書斎の前まで行くと、中から物音がしたんです。当然、晶彦君がいるのだと思って、一声かけて、戸を開けました。そしたら、中には誰もいなくて」
「部屋には、他に出口は?」
「庭へ出る障子戸があります。けど、どうですかね。私の空耳だったのかもしれません」
「それは、先週のいつのことですか?」
「火曜です。火曜の、夜遅い時刻でした。翌日出さなければいけない書類だったことに気づいて、慌てて訪ねに行ったんです」
佐野は二枚の白紙を取り出した。
「これを見て、何か思い当たることはありませんか」
「あぁ……」
口をぽかんと開けて、公伸は答えた。
「なんなんでしょう……」
「警察はいったい何をしているんですか!」
氷降冷河はわめいた。「どうして母があんな目にあわなくてはならないんです! 私たちが何をしたっていうんです! 指紋は? 一つ残らず調べたんですか? 早く犯人を捕まえてください!」
佐野は冷河のわめき声から逃げるように、僅かに顔をそむけていた。
夜通し泣き続けていたのか、冷河の目は赤く腫れあがっていた。髪はボサボサで、肉付きのいい顔すら、やつれたように見える。
「冷河さん、落ち着いてください」相原がなだめた。
「落ち着いてなんていられますか!」
さらにヒステリックに、冷河は叫んだ。それから一瞬、ぷつりと糸が切れたように静まったかと思うと、今度は体をふるわせながら、涙を流しはじめた。「ふっ……ふっふっふっ……こんなこと……こんなことって…………これから、私たち、いったいどうやって生きていけば……。もう、恐ろしくて、恐ろしくて……。誰も信用なんてできやしない……!」
「『恐ろしくて』、というのは————」
佐野はたずねた。「あなた方一家は、以前から誰かに命を狙われていたという————」
「ありませんよ! そんなこと!」
ぴしゃりと、冷河は言い放った。「あったらとっくに、警察に相談していますよ!」
「そ……そ……」
そうですよねごめんなさい。
佐野は口をつぐんで、そっと身を引いた。
「『信用なんてできない』というのは」
毅然として、相原がたずねた。「誰かに、約束を反故にされた?」
冷河は黙りこくった。
「冷河さん、知っていることがあれば、すべて話してください」
冷河は瞬きもせずに黙り続けていた。相原は言った。
「我々が、お母様を殺害した犯人を、必ず捕まえてみせます」
ふるえる声で、冷河は言った。
「私が……喋ったと?」
「他言はしません」
相原が即答した。佐野も首を振った。一呼吸置いて、静かに、冷河は言った。
「犯人は、うちの家の人間です」
「なぜそうだと?」相原は聞いた。
冷河は両手で顔を覆い、観念したように大きくため息を吐いて、話し始めた。
「先週、母が、家族の前で、事業承継に関わる大事な話をしたんです」
「それは、先週のいつのことですか」佐野が聞いた。
「火曜です」
「事業承継に関わる話ということは、つまり、遺言の内容を発表したということですか?」相原が聞いた。
「いいえ。自分は、もうじき引退をする……というようなことでした」
「後継者の指名などは?」佐野は聞いた。
「ありません。ですが、近々発表になるだろうということでした」
佐野はあごに手を添え、考えていた。「冷湖さんが引退し、グループトップの座が別の誰かに渡る前に、一族の何者かが冷湖さんを殺害した……?」
「そこが分からないんです」
険しく目を閉じ、冷河は言った。「こんなことを言っても、しょせん体裁だけと思われるでしょうが、私たちは、一族全員で会社を守っていますし、一族全員で、共同生活を営んでいます。母の株式がどう分けられようと、会社の経営権が誰に渡ろうと、私たちには利益も不利益もないんです。現に、私も、兄も弟も、母がトップの座を誰に譲るとしても、不満はありませんでした。誰がトップになろうと、それを支えるつもりでいたんです」
「しかしそれが、皆さんの本音だったと言い切れますか?」佐野は言った。
「どういうことですか?」冷河は口をあんぐりとさせた。
「本心では、グループトップの座に就いて、会社を動かしたいという気持ちがあったとしたら? 冷湖さんの意思を事前に知って、自分が後継者でないと分かれば、卑劣な手段に出たかもしれません」
「それに、冷湖さんが一族以外の人間を後継者に指名するつもりだった可能性もあります」相原は言った。
「まさか! 母がそんなことをするはずが!」
「分かりません。あなたがおっしゃるように、氷降家の人間は、一族の誰が後継者となっても不満はなかった、ということが事実なら、他に考えられる殺害の動機は、〝一族以外の人間〟が後継者に選ばれた、ということです」
「そんな……お母さん…………」
冷河は愕然としてうなだれた。
重要な証言を得られる気がして、佐野は二枚の白紙を、自信を持ってテーブルの上に置いた。
「これを見て、何か思い当————」
「知りません! こんな紙切れ!」
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