翌日の朝食は、ガラスドールのある洋間に用意された。

 テーブルについたのは、本村たちと青山、柏谷夫妻の七人だけだった。

「ごめんね。簡単なものしか用意できなくて」

 コーヒーを注ぎながら、花織は言った。「今朝早くから、刑事さんたちが来てて。今、正枝伯母さんと砂織姉さんが、話を聞かれてるところで」

「正枝さんと砂織さんが?」トーストをかじりながら、本村は言った。

「なんでその二人?」大槻も聞いた。

「さあ。二人だけじゃなく、彗一兄さんや、三梅さんとも話してるみたい。お酒がどうとかって」

 本村と、池脇と、大槻の三人は顔を見合わせた。

「毒でも盛られてたりして」

 言って、倉沢は亀のように首を突きだしながらコーヒーを飲んだ。青山が、手にしていたカップをテーブルに戻した。

「またあの刑事か」

 不機嫌そうに、亭一は言った。

「はい……。昨日来た、佐野さんという方で……」花織は言った。

「ありゃだめだ。もっと上の人間でないと」

 善一郎はせかせかとベーコンを口へはこんだ。「田舎だからって使えないやつを寄越したんだろう。なんだ。警察っていうのは。いつからあんな怠慢な捜査をするようになったんだ」

 料理を見下ろして、久子はため息をついた。

「本当なら、今日は冷河さんにおいしいお蕎麦屋さんを案内していただけるはずだったのに。こんなことになると分かっていたら————」

 花織の姿を目に入れると、久子ははっとして口をつぐんだ。それから、善一郎に向かって言った。「ねえ、あなた、あとで気晴らしに散歩にでも行きましょうか」

「青山さん」

 本村が呼びかけた。

 青山はびくついて顔を上げた。食が進んでいないようだった。

「僕ら、午後から彗一さんと透織さんに蔵を見せてもらう予定なんですけど、一緒に行きませんか?」

「え?」

「昨日、彗一さんたちと話してましたよね? 村に祀られてる神様に関する書物があるかもしれないって。一緒に行きませんか?」

「ええ……じゃあ……」

 青山は、あまり乗り気しないようすで頷いた。

 本村は満足そうに微笑んで、スクランブルエッグを口にした。



「晶彦がボロを出した」

 縁側に腰かけ、佐野は言った。

「いい茶です」本村は湯呑みを差し出した。

「あどうも」

 佐野は緑茶をすすると、庭の景色に逃避した。「嗚呼」

「それで、ボロというのはどれくらいボロボロだったんですか」本村は正座で催促した。

「うーん。ちみっと擦り切れたくらい」

「なんだあ」大槻は言った。

「大したことねえな」池脇も言った。

「晶彦さんが、現場に入らなかったことについてですか?」本村は聞いた。

「いや、そこも怪しいは怪しいんだけど」佐野は湯呑みの中を見つめていた。「もっと怪しかったのは、遺言について聞いたときの反応だよ」

「何かを隠してるってことですか?」

「うーん。隠してるっていうよりは————」佐野は表情をゆがませた。「『は?』みたいな」

「は?」

 佐野は湯呑みを縁側に置き、しっかりと本村の方を見た。「いい? これは、完全に俺の推測でしかない話だよ?」

 本村は頷いた。

 佐野は言った。

「遺体のそばにあった二枚の白紙は、本当は、『遺言書』だったんじゃないかと思う」

「遺言書? 遺書ではなくて?」

「遺書と遺言書、両方だった可能性もある。ともかく、遺言書はすでに作成されていて、あの白い封筒に入れて冷湖が保管していることを、晶彦は知っていた。もしかすると、一族の中で晶彦だけが、冷湖から内密に遺言書の存在を知らされていたのかもしれない。晶彦は現場にかけつけたとき、冷湖の枕元にあの封筒があるのが目に入り、とっさに自殺と判断して、相続人によからぬ疑いがかからぬよう、一同に中へ入らないようにと言いつけた。警察は確実に、封筒の中身を確認するだろうとも思っていた。なのに、俺に遺言書の有無をたずねられたから————」

「封筒の中身が遺言書じゃなかったと知って、驚いた?」

「うん。推測ね。推測」

 佐野は再び茶を飲んだ。

「遺言書がなくなったら、誰が得することになるんですか?」

「得も何も。法定通りなら、遺産は冷湖さんの息子さんたちに均等に分配されるだけだよ」

「でも、花織ちゃんのお父さんはいませんよね? 詳しくは聞いてないですけど」

「ああ。病気で亡くなってるらしい。その人がもらうはずだった分は————」

「子どもが代襲相続することになる」

 倉沢が言った。

 本村たちが振り返ると、倉沢は畳に仰向けになり、胸の上にプロジェクターを置いて、なでしこと戯れていた。なでしこは山吹色の着物を着て、しとやかにポーズを取っている。倉沢は言った。「子どもが未成年の場合は、母親が代理人」

 倉沢は続けて、妻に向かって熱心に学習を試みようとしていた。「俺がぁ、『よいではないか』って言ったらぁ、なでしこさんはくるくる回って————」

「じゃあ、元の遺言書には、一族の特定の人物だけが得をするような内容、もしくは、一族以外の人間に遺産が渡るような内容が書かれていて、それを気に食わないと思った冷一さん、冷河さん、冷二さん、花織ちゃんたちきょうだい、それに、早苗さんの内の誰かが、法定通りに遺産が分配されるよう、遺言書を白紙にすり替えたってことですか?」

「その人たちだけとは限らないでしょ」大槻は言った。「法定相続人のパートナーや子どもだって遺産の恩恵を受けるわけだし。遺言書が見つからない以上、一族の人間全員が容疑者だよ」

「そう。それに、冷湖さんの胸の刺し傷のことなんだけど」佐野は言った。「心臓を一突きにされてた」

「おお」本村は僅かに身を引いた。

「もう、きっれーに、すっこーんと。見事に一突きだったって。リアリティ追求しすぎた刑事ドラマとか見てる人なら分かると思うんだけど、こう、『心臓を一突き』っていうのはさ、意外と難しいわけよ。背後からじゃなく、正面から襲われたなら尚のこと。被害者だって、抵抗するだろうしさ。でも、それができたってことは」

「犯人は、被害者と顔見知りの人物?」

「一族の人間が、ますます怪しくなってくる?」大槻は言った。

「でも」

 抹茶色の振袖を纏ったメイリスを胸に抱きながら、本村は澄んだ瞳を伏せた。「それだとアリバイが」

「そうなんですよねん」

 投げ出したように、佐野は茶請けにあったバターサンドを口にした。

「それから、昨日ちらっと話した強盗の線も、捨てきれなくなってきたよ」

 池脇と大槻の陰で、静かに茶を飲んでいた相原が言った。

「え、やっぱりなんか盗まれてたんですか?」本村は言った。

「うん。兵隊の人形が持ってた、槍のパーツが盗まれてたんだ。下段の隅の」

「でもねえ相原さん」大槻はタブレットを開いて見せた。「これ、俺が昨日、事件が起こる前に撮った写真なんですけど、その時にはもう、下段の隅の兵隊は、槍なんて持ってませんでしたよ」

「え、どういうこと?」

「だから、昨日話した、『冷湖さんがガラスドールを盗みにきた犯人と鉢合わせになって殺されたんじゃないか説』は、無しってことです」

「じゃあ槍はどこへ消えたの」不服そうに、相原はたずねた。

「誰かが田んぼでもかき混ぜてるんじゃないすか」池脇は言った。

「君たちが言い出したんでしょ。ガラスドールが事件と関係あるかもって」

「推測ですよ。推測」機嫌をとるように、本村はバターサンドを相原の前に差し出した。「冷湖さんと丹原さんの繋がりは、何か見つかったんですか?」

「ぜーんぜん」佐野が言った。「保険金の受取人に、『丹原三梅』の名前はなかったし、彼女を受取人に指定するような遺言書も見つかってない。遺体を他殺に見せかけることで、あのお手伝いさんが得をするような事実は、今のところ何一つ見つかってないね」

「じゃあ、やっぱり自殺の線も薄いですね」大槻は言った。

「丹原さんが運んだ寝酒のことで、何か分かったことはあったんですか?」本村は聞いた。

 佐野はごくりとバターサンドを呑み込んだ。「え、なんで知ってんの」

「これだけ人がいたら、どこで何聞かれてるか分かんないすよ」池脇は言った。

 佐野はじと目になって本村たちを見た。そして話した。

「冷湖さんが日課で飲んでいた寝酒は、『ブルー・キュラソー』っていうリキュールだったらしいんだ」

「はあ」ぼんやりと、本村は発した。

「あれだよ、ブルーハワイの」大槻が説明した。

「えっ。ブルーハワイってお酒だったの?」

「ちがうちがう。俺らがソーダとかかき氷で知ってるお子さま向けの『ブルーハワイ』は、元はカクテルなの。それに使われてるリキュールですよね?」

 佐野は頷いた。「そう。でも、現場に残っていた液体を調べてみたら、ウォッシャー液とよく似た成分が検出されたんだ」

「ウォッシャー液って、車に入れるやつっすよね」池脇は言った。

「それって飲んだら死んじゃうんですか?」本村は聞いた。

「まあ、ショットグラス一杯で即死することはないだろうけど……」佐野は進まぬようすで答えた。「体にいいものではないよね」

「それで?」

「それで————」


「持っていったお酒?」

 きょとんとした顔を浮かべながら、丹原三梅は台所に立ち尽くした。「だから、『ブルー・キュラソー』っていう————」

「昨晩持っていったときと同じように、用意してみてください」淡々と、佐野は言った。

 三梅はいぶかしげな顔を浮かべながら、背後の棚の、中段の戸を開き、色とりどりのボトルが並んだ中から、青い液体が入ったペットボトルを取り出した。

「それ……」

 ささやくように、正枝が言った。「ウォッシャー液じゃ……」

「うぉっしゃあ?」間の抜けたようすで、三梅は言った。

「見覚えのあるものですか?」佐野は正枝にたずねた。

「ええ。私が、彗一さんに頼んだんです。うちでは車のウォッシャー液を、掃除にも使うもので。彗一さんは、いつもそのボトルで持ってきてくれます」

「これを持ってくるよう頼んだのは、いつのことですか?」

「昨日の夕方、彗一さんがお客様を連れて戻ったあとです。いつもは、頼めばすぐに持ってきてくれるんですが、台所へ戻っても見当たらなかったので、てっきり忘れているのかと……。どうしてこんなところに」

「それにそこ、お酒の棚じゃないです」

 鋭い口調で、砂織が言った。「私が指示したのは、その上の————」

 砂織は歩み出てくると、三梅が開いた棚の、上段の戸を開けた。それから、色とりどりのボトルが並んだ中から、青い液体が入ったガラスボトルを取り出した。「これです」

 三梅の表情が、みるみるうちにひきつった。

「う、うううう嘘です! 私には、『そこの棚に入っているから』って、ただそれだけで————! 〝上の棚に入ってる〟なんて一言も————」

「いいえ。私言いました。上段が酒棚。中段はシロップの棚です」

「聞いてないです! 扉を開けたら、これがあったから、私、てっきり『ブルー・キュラソー』だと思って————」

「間違えて手に取ったとしても、ラベルを読めばちがうと分かるはずですよね。第一、子どもの手の届くところにお酒なんて置いておくわけが————」

「わ、私知りません! 私は、言われたとおりにお酒を運ぼうとしただけで————」


「それで、彗一さんにも話を聞いた」


「ウォッシャー液? はあ。持っていきましたよ。正枝伯母さんに頼まれたんで。え、俺なんか悪いことしました?」

「持ってきて、どこに置きましたか?」

「どこって、そこの」彗一は指差した。「作業台の上に」

「棚にしまった覚えは?」

「棚に? いいえ。ここは正枝伯母さんと砂織の管轄なんで、余計なことはしないようにしてるんです。頼まれたものは、作業台の上に置いておくように言われてて。だから昨日もそうしましたけど。え? 俺なんか悪いこと————」


「でも、冷湖さんは心臓を刺されて殺されたんですよね?」本村は言った。「致死量に満たない洗剤を飲ませたところで、なんか意味あるんですか?」

「死には至らなくても、中毒を引き起こさせることはできるよ」佐野は言った。「犯人の目的はそっちかもしれない」

「でもでも、丹原さんが冷湖さんの部屋にウォッシャー液を運ぶよう細工するなら、ウォッシャー液は、シロップの棚じゃなく、お酒の棚の、ブルー・キュラソーのボトルの中に仕込んでおきません?」大槻は言った。「丹原さんがシロップの棚を開けて、そこにあった謎のペットボトルの中身を確認もせずに出しちゃったのは、ほとんど偶然ですよね? そんな望み薄な状態で置いておく意味が分からないです」

「それに、丹原さんがウォッシャー液を運んだときには、冷湖さんはもう殺されてたんですよね?」本村は言った。「飲ませることは不可能じゃないですか?」

「じゃああのウォッシャー液は、事件とは無関係ってこと?」佐野は言った。

「少なくとも、『冷湖さんに飲ませる』という意図は読み取れないです」本村は言った。「誰かが意図的に、シロップの棚にウォッシャー液のボトルを置いたとしたら、それを誤飲する可能性のある人物は————」

 大槻ははっとした。「伊織君?」

「あの、小さい子?」佐野は言った。

 本村は頷いた。「もしかすると、伊織君は誰かに命を狙われていた可能性があります」

「伊織君が? どうして?」大槻は言った。

「うーん。これは完全に、僕の推測でしかない話だけど」考えながら、本村は言った。「元の遺言書には、冷湖さんの遺産のほとんどを、伊織君が相続するような内容が書かれてたんじゃないかな」

「だとしたら、冷湖さんの息子たちや、他の孫たちは面白くありませんね」相原が言った。

「それで、子どもの誤飲に見せかけて伊織君を殺害するために、シロップの棚にウォッシャー液のボトルを置いた?」恐々とした面持ちで、大槻は言った。

 佐野はゆらゆらと頷いていた。「対象が子どもなら、少量の毒物でも、死に至る可能性はある」

「でもでもでも、遺言書は見つかってないんだよ?」大槻は言った。「犯人が冷湖さんを殺して遺言書をすり替えることを計画していたなら、わざわざ伊織君まで殺そうとする意味が————」

「おそらく、冷湖さんを殺害して遺言書をすり替えた人物と、伊織君にウォッシャー液を飲ませようとした人物は、別の人間なんじゃないかな」本村は言った。

 佐野は真剣な表情で考えていた。「どちらの件も、動機が遺産目的だとしたら、怪しいのは一族の人間————」

「思うんすけど」

 険しい顔で、池脇が発した。「あの二枚の紙が遺言書だったとして、なんで白紙だったんすか」

「だからてつみち、今までの話聞いてた?」呆れたように、大槻は言った。「元の遺言書の内容が気に食わなかった人物が————」

「だーから。特定の誰かを相続人にしたかったわけじゃなく、遺言書自体を、なかったことにしたかったわけだろ。だったら捨てりゃいいだろ。ご丁寧に白紙なんか残さなくても」

「あ、確かに……」

 大槻は小兎のようにバターサンドをかじった。

「じゃあやっぱり、白紙自体になんらかのメッセージが?」相原は言った。

「どんな」少し腹を立てたように、佐野は言った。

「んー」

 本村は冷えたバターサンドをかじった。

「ふりだしにもどる」

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