「祖母は聡明な人でした」

 うつむきながら、氷降花織は言った。「うちの中の誰よりも、博識で、バイタリティがあって……。要領がいいばっかりに、いろいろと目につくこともあったんだと思います。呆れた風に、小言を言ったりして。でも、それって普通のことですよね? 『最近の若い人は』って……。年配の方たちは、いつの時代も言ってます。祖母はぶつぶつ言いながらも、結局は、いつも見守ってくれるんです。それぞれのやり方を、尊重してくれるんです。だから、祖母を疎ましく思う人なんて、誰もいませんでした。私たちには、祖母をあんな風にする理由がありません」

「村の人たちとは、どうでした?」

 あえて淡々と、佐野は話した。

「良好だったと思います。祖母は、村の行事にも積極的に参加していましたし。とても仲がよかったように見えました」

「村の中で、特に親しかった人は?」

「……菊田さん……ですかね。祖母と同い年くらいの、おじいさんなんですけど。でも、祖母が特別菊田さんと親しかったというよりは……菊田さんはおしゃべり好きなので、いろんな人と話したがるんです」

「おばあさん、最近何か変わったようすはありませんでした?」

「いいえ。何も変わりありません」

「家や近所はどうですか? 見知らぬ人が訪ねてきたり、村をうろついていたりとか」

「いいえ。何も変わりありません」

 佐野はビニール袋に入った白紙を二枚、テーブルの上に並べた。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか」

「いいえ」

 花織は答えた。

「何もありません」



「祖母はどうして死んだんですか?」

 佐野の質問をさえぎって、氷降思織は言った。

「……胸を、刺されていました」一瞬、躊躇して、佐野は答えた。

「心臓を一突き?」たわいもないことのように、思織はたずねた。

「一突きかどうかは、よく調べてみないと」

「凶器はなんだったんですか?」

「現在捜索中です」

「捜索中ということは、祖母の部屋から凶器らしき物は何も見つからなかったということですか?」

「現段階では詳しいことは言えませんが、何か————」

 ここか? 佐野は、なるべく自然に、巻き返しを図りたいと思っていた。「思い当たることでも?」

 思織は表情をぴくりともさせずに押し黙った。それから、言った。

「犯人は丹原さんです」

「どうしてそう思うんですか」

 佐野は、なんだか楽しくなってきた。

「だってそうじゃないですか。私たち、全員広間にいたんです。祖母の部屋に入ったのは、あの人だけです」

「でも、死亡推定時刻の八時から八時十五分の間には、丹原さんはみなさんと一緒に広間にいたらしいじゃないですか」

「それが誤りなんじゃないですか」

 急に、誇らしげな表情になって、思織は言った。「死亡推定時刻って、激しい運動をさせたり、部屋の温度を調節したりして、ずらすことができるんですよね」

「よくご存知ですね」余裕を持って、佐野は微笑んでみせた。

「私、推理小説を読むんです。バーナビー・キングの『ターンドワイの悲劇』、メアリ・イーストマコットの『よじれた家』、とか」

「では、物語から得たその知識をぜひ拝借したいんですが」

 佐野は二枚の白紙を取り出した。「どういう意味だと思いますか」

 思織は白紙を見て、少し考えると、言った。

「忌中」



「黙秘します」

 うつむいて、氷降結子は言った。

「おばあさん、最近何か変わったようすは————」

「黙秘します」

 結子はうつむいていた。

 佐野は二枚の白紙を取り出した。

「これに心当たりは?」

 結子はテーブルの上をちらりと見た。

「黙秘します」

 佐野もソファの背にもたれ、沈黙した。

「ご結婚されてるんですか?」

 横から、相原がたずねた。結子の左手薬指に、指輪が光っていた。

 黙秘します。佐野は早々と頭の中で再生していた。

 結子は相原の方をきっとにらみつけると、言った。

「してません」



「黙秘します」

 うつむいて、氷降結太郎は言った。

「最近村で、何か変わったことは————」

「黙秘します」

 結太郎はうつむいていた。

 佐野は二枚の白紙を取り出した。

「これに心当たりは?」

 結太郎はテーブルの上をちらりと見た。

「黙秘します」

 再放送ですか。佐野もまた、ソファの背にもたれた。

 相原は、結太郎の左手薬指に光る指輪を見ていた。



「いつも、伯母さんの手伝いを?」

「『手伝い』?」

 氷降砂織は、ほんの僅かに眉をひそめた。「ずいぶん子ども扱いなさるんですね。私、もうすぐ十九になるんですよ」

「……失礼しました」佐野は身を引き締めた。「家のことは、主に伯母の正枝さんと、あなたが?」

「ええ。共用部分だけですが」

「冷湖さんの身の回りの世話も?」

「ええ。でも、祖母はとても元気でしたし、自分のことは自分でしてしまうので、世話といっても、介護のようなものではありません。私たちがするのは、部屋の掃除と、洗濯と、食事を運ぶことくらいで。着替えや入浴などは、祖母が一人でしていました」

「冷湖さんの貴重品の管理は、孫の晶彦さんという方がしていたそうですが」

「ええ」

「なぜその方が?」

「晶彦兄さんは、我が家では秘書的な役割を担っているんです。会社のことだけでなく、家庭内の事務的なことも、ほとんど晶彦兄さんが管理していました。祖母の貴重品の管理は、その延長みたいなものです」

「事務的なことというと、遺言書の作成の手伝いなんかも?」

「さあ。そこまでは」

「冷湖さんと晶彦さんとの間で、何かトラブルがあったことは?」

「一切ありません」

「家事をしていて、何か気づいたことはありませんか? 物の配置が変わっていたとか、誰かが、普段とちがう行動を取っていたとか」

「特にありません」

「冷湖さんと、正枝さんとの関係は良好でしたか?」

「ええ」

「あなたから見て、冷湖さんの、正枝さんに対する言動は————」

「嫁姑問題を期待なさっているなら徒労だと思いますけど」

 目を瞑り、呆れた風に、砂織は鼻で息をついた。「ずいぶんと時代遅れな発想ですね。祖母は、嫁いびりをするほど心の狭い人間ではありませんし、暇人でもありません。伯母のやり方に、口を出したこともありません。伯母のことを、氷降家に嫁いできた邪魔者や召使いではなく、『対等な家族』として接していました。伯母も、活動的で気骨ある祖母のことを尊敬していましたし、家庭がうまく回るように、祖母が過ごしやすい環境が整うように、一生懸命でした。私は長年二人を見てきましたが、刑事さんが望んでいるような不和が生じたことなど、一度だってありません」

「……念のため、聞いただけですから」

 平静を装って、佐野は微笑んだ。

「こんなことをしている場合ですか」

 苛立ったようすで、砂織は言った。佐野は真顔に戻った。

「さっさと丹原さんを逮捕すればいいんじゃありませんか」

「でも、彼女にはアリバイが————」

「それを崩すのが刑事さんの仕事なんじゃありませんか」

 佐野はくじけそうだった。砂織は続けた。

「八時半に広間を出ていってから、祖母の部屋へ行くまで、ずいぶん時間がかかったようですけど。たかだかお酒を運ぶだけなのに、いったいどこで何をしていたんでしょうね」

「この家は広いですからね。迷ったとしても、不思議では————」

「そうでしょうか」

 砂織は瞳を伏せていた。「その割には、悲鳴を上げてから、ものの数十秒で広間まで戻ってこられたようですけど」

 佐野は気をまぎらわすように唇を噛んだ。相原は冷静に、砂織の証言をメモした。

 批評でも頂戴するように、佐野はおじおじと二枚の白紙をテーブルに並べた。「これを見て、何か思い当たることはございませんでしょうか」

 砂織は涼しげに、テーブルの上へ視線を向けた。

「ありません」



「学生の方だったんですね」

「あ、はい……」

 少し緊張したようすで、氷降透織は言った。

「大学に通いながら、会社の方も?」

「はい、一応……。でも、まだ仕事をしているという自覚はなくて……。いろいろと、勉強させてもらっているつもりで……」

「勉強をしている中で、何か感じたことや、気づいたことは?」

「重役というのは————」

 思いを込めたようすで、透織は語った。

「けして偉い存在ではないのだと感じました。会社には上下関係がありますが、それはあくまで、組織を運営する上での、形式的なもので————。トップの人間だから偉いとか、下にいるから偉くないとか、そういうことではないと————。僕は、氷降製氷の工場にも、氷降食品の自社農場にも、氷降製菓の販売店舗にも行ったんです。現場の人の知識や経験には、敵わないのだと思い知らされました。それぞれが、それぞれの分野での、エキスパートなんです。この先、僕がどんな役職に就いても、敵うことはないのだと思いました」

 俺の聞き方が悪かった。子どもの作文に拍手を送るように頷きながら、佐野は言葉を変えた。

「会社のやり方に、疑問を抱いたことは?」

「あります! たくさんあります!」

 透織はぱっと顔を上げた。「そういうときは、晶彦兄さんに聞くようにしています。晶彦兄さんは、今は、僕の教育係みたいなことをしてくれていて……。分からないことは、なんでも教えてくれます」

 そういうことではなくて。佐野は次の表現を選び始めた。しびれを切らして、相原が言った。

「氷降グループは、他社から恨みを買うような仕事をしていましたか?」

「それは————」

 至極難しい顔をして、透織は話した。「『恨みを買うようなこと』、の定義が、難しいと思います。人は、普通に生活しているだけでも、価値観のちがう人間から恨まれることがありますし。特に、僕らのような大会社の人間は、一般の方から、妬まれたりするもので————」

 あきらめよう。佐野は、冷えきって固まった相原の方を見て、しみじみと頷いた。それから、二枚の紙を取り出した。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか」

 透織は暫しの間、呆然とそれを見つめていた。それから、言った。

「白紙です」



「道端で、うずくまっていたんです」

 一所懸命に、青山涼馬は話した。「僕は、病院へ行った方がいいと言ったんですが、早苗さんは、大したことないからと言って……。それで、せめて家まで送らせてくださいと言ったんです」

「じゃあ、この家に来たのは初めてじゃないんですね?」佐野は、鋭い視線を青山へ向けた。

「まあ……そういうことになります」急に、身を細くして、青山はうつむいた。

「それはいつのことですか?」

「先週の、火曜です」

「その時から、冷湖さんと面識はあったんですか?」

「あ……ありました……一応。でも、あいさつ程度で」

「あいさつ程度に、どんなことを?」

「『もう遅いんですから、泊まっていかれたら』って……。それだけ言って、冷湖さんはどこかへ行ってしまいました」

「で、泊まったんですか?」

「はい……。今日と同じ離れの部屋を、用意していただいて……。でも、今日みたいな宴会はありませんでしたし、僕は次の日の早朝にはお暇したので、本当に、冷湖さんとも、他のご家族の方とも、大した交流はしていないんです」

「今日、ここへ来てからは、どんな風に過ごされました?」

「ほとんど離れにいました。とても静かなので、勉強がはかどって……。七時に、夕食に呼ばれるまで、僕は自分の離れから出ていません」

「夕食のときの、みなさんのようすはどうでした?」

「さあ……。僕は、彗一さんや透織さんとばかり喋っていたので」

「どういったことを?」

「僕が大学で神道を専攻していると知って、驚いたらしくて。といっても、僕は神主を目指しているわけではなく、民間信仰されている神々について学んでいるだけなんですが……。その話をしたら、明日、この家にある貴重な書物を見せてくれると言っていました」

「書物?」

「こ、この村には、太陽の神が祀られているんですよ!」

 急にいきいきとした表情になって、青山は話し出した。「この土地は山に囲まれていて、なかなか日の光が入らないですからね。作物を作るのも大変だったでしょうに、そういう理由から、村人たちの間で自然的に太陽崇拝の気持ちが生まれたのではないかと思われます。こういうことはよくあるんです。その土地土地で祀られている神を見れば、昔その場所でどんなことが起こったのか、どういった環境であったのかがよく分かります。『神』というのは、いわば『歴史』を表しているんです。ビルやアスファルトで埋め固められた都会の真ん中にも、ぽつんと小さな神社や祠が祀られていることがありますが、あれは人々が神にすがりながら、戒められながら、発展を遂げてきたという何よりの証拠です。道徳心、信仰心がなければ、その土地は堕落していたか、自然の脅威にさらされ、現在に至る発展はなかったかもしれません。だから、神の存在というのは、自分の日常に直接的な働きかけが感じられなくても、なおざりにしてはいけないんです。神の存在というのは、超能力のようなあっと驚くものではなく、歴史のもっと深いところから、我々の生活に結びついている、静かな叡智のようなものです。この村の入り口の祠には六角形の印が刻まれていますが、あれは、僕が思うに————」



「私やってません!」

 勢いよく、丹原三梅はうったえた。「私が部屋に入ったときには、あのおばあちゃん、もう死んでたんです!」

「順を追って、説明してもらえますか」

 眉間を撫でながら、佐野は言った。三梅から滲み出る幼さが、辛かった。

「だからあ、部屋に行ったらあ、あのおばあちゃんが————」

「ここで働くことになった経緯から」

「けーい? 経緯って……。『この日出れますか?』って、連絡があったから……」

「誰から?」

「会社から。家事手伝い専門の、派遣会社なんですけど」

「この家に派遣されたのは、初めて?」

「初めてです。ほんとは家から近いところがよかったんですけど。私————」

 三梅は一瞬、言葉を詰まらせた。「……私、前の派遣先でやらかしちゃって……。全然、大したことじゃないんですけど。家主の人と、話がうまく通じてなかったっていうか……。それで、会社をクビになるすれすれのところにいて、仕事選んでる場合じゃなくて……。山奥に泊りがけだけど、食事も交通費もちゃんと出るって言うし……。それで引き受けたんです。今朝、ここに着いたら、正枝さんが、『遠くからわざわざありがとうございました』って、チップくれて————あ、これ、ほんとは会社の規定でもらっちゃだめなんですけど————」

 他言しないという風に、佐野は頷いた。三梅は続けた。

「ラッキーって思って。今度こそ、ミスしないで頑張ろうって。なのに————」

「なのに?」

「砂織さんて人が、仕事教えてくれるんですけど……。なんか————すっごく不親切で」

「ああ……」

 水と油だろうな。先の事情聴取を思い返しながら、佐野は思った。

「結局、いっつもそうなんですよ。私は、言われたことやってるだけなのに、あとから文句言われて、そんなの聞いてないしみたいな。それで、全部私が悪いみたいになって————。なんか一気にやる気なくしちゃって。サボって彼氏と電話してたら、砂織さんに見つかって怒られました。でも、そのあとはふつーに仕事してました」

「冷湖さんとは話した?」

「話してないです。他の家族の人とも、すれ違ったりはしたかもしれないですけど、夕食までほとんど会ってないです。お客さんの対応も、『私たちがやりますから』って、正枝さんが。私はずっと、客間とか、広間のお掃除とかしてて————あ、花織ちゃんて子が、話しかけてくれました。『分からないことがあったらなんでも聞いてください』って。あの子天使でした」

「それから?」

「それから、七時に夕食が始まって。お料理運んだり、お酒を持っていったりして————。冷一さんと、冷二さんと、お客さんの————柏谷さん?って人が、すごく飲むんです。冷河さんって人と、その子どもの、双子の子たちも、あれ持ってこいこれ持ってこいってうるさくて。広間と台所を何度も何度も往復させられて、『一回で頼めよ』って、思いました」

「夕食のときに、何か印象に残ったことや、気になったことは?」

「うーん。ああ————お客さんの中に、変な子たちがいました。ずっと湯葉食べてる子と、ずっと怒ってる子と、ずっとタブレットいじってる子と、めんどくさい髪型の子。氷降家のお客さんにしては、意外だなって思いました」

「それから?」

「あのおばあちゃんが、まだ八時なのに、部屋に戻るって言い出して。まあ、お年寄りだからしょうがないのかなって。それから、八時半に寝酒を持っていって」

「それは、誰からの指示で?」

「砂織さんです。八時半になったら、『ブルー・キュラソー』っていうお酒を、おばあちゃんの部屋に持っていくようにって。私、すっかり忘れてたんですけど、正枝さんに言われて思い出して」

「それで?」

「ふつーに持っていきました」

「冷湖さんの部屋までは、迷わずに行けた?」

「はい。意外と行けました。離れに向かうまでの渡り廊下を間違えなければ、あとは一直線だし、おばあちゃんの部屋にだけ、明かりがついていたので」

「その割には、広間を出ていってから遺体を発見するまでに、ずいぶん時間がかかっていたそうだけど」

「そうですかあ?」のんびりと、三梅は言った。

「部屋に行くまでの間に、何か物音を聞いたり、人影を見たりは?」

「ないですう」

「部屋についたあと、どうした?」

「ふつーに、障子を開けてえ————」

「待って。障子は閉まってたの?」

「閉まってました。こぼしたら怒られると思って、お盆を床に置いてから開けたんで、覚えてます」

 佐野は、ゆっくりと体を起こして腕を組んだ。「それから?」

「それから……」

 三梅は、怯えたようすでうつむいた。「最初は、分からなかったんです。もう寝ちゃったんだと思って。起こすのもあれだし、お酒は、枕元のテーブルに置いておけばいいと思って。それで、近づいたら————」

「たら?」

「し、死んでました」

「死んでるって、どうして分かったの?」

「え?」

 三梅は、潤んだ瞳を上げた。

「何をもって、『死んでる』って判断した?」

「え……だって……。血が、出てたし……」

「どこから?」

「服から」

「服のどこから?」

「心臓の、とこ」

「具体的に、冷湖さんはどういう状態だった?」

「どういう?」

 三梅は、泣きそうな顔になっていた。

「見たことを、正確に話して」

 三梅は、そわそわしたようすで話し始めた。「ベ、ベッドの上に、仰向けになってました。布団もかけずに、そのまま。夕食のときと同じ、白いワンピースで、胸のところが、赤くなってて……。目ぇつぶって、お腹のところで、手を握って、お祈りしてるみたいでした」

「周りには、何があった?」

「何が? 別に何も。ていうかそこまで見てないです」

「持っていったお酒、遺体の上にこぼしてるよね?」

 三梅は恐々と頷いた。「なんか、びっくりしちゃって……」

「その時、遺体に触れたりしなかった?」

「してないです。ていうか怖くて触れないです」

「部屋の物を動かしたりは?」

「ないです。すぐに広間に戻りました」

 佐野は鼻で大きく息をつき、考え込んだ。

「あの」

 恐るおそる、三梅はたずねた。

「これってお給料出るんですか?」



「灯籠の準備しに行っただけですよ。つっても火ぃつけるだけなんですけど。八時に、いつもばあちゃんが寝る準備を始めるって分かってたんで、その前に用意しなきゃと思ってて。でも、思いのほかライター探すのに手間取ったのと、火がなかなか点かないのとで、ぎりぎりの時間になっちゃって。あ、でも、ばあちゃんちゃんと灯籠見てから部屋に戻りましたよ。あの時は、俺に小言言えるくらいぴんぴんしてました。え、これ、俺が疑われてるんですか?」

 やけに軽い調子で、氷降彗一は話した。

「状況を確認してるだけですから」さらりと、佐野は返した。「あの氷の灯籠は、あなたが造ったんですか?」

「そうですけど」事もなげに、彗一は答えた。

「……すごいですね」素直に、佐野は思った。

「いえ、全然。すごくはないですよ。氷像彫るのとはちがうんで」

「あれに火を点けにいくのは、最初からあなたの役目だったんですか?」

「役目というか……」彗一は苦笑いを浮かべながら、耳の裏を掻いた。「ああいう、物作ったり、修理したりは、うちじゃ大体俺の仕事なんですよ。無理矢理やらされてるわけじゃないですけど。なんか昔からそうなんです。だから、灯籠のことも、俺が造って、俺が準備してって、そういうもんだと思ってるっていうか。他の家族も、そう思ってたと思いますよ」

「家事については正枝さんと砂織さんが、事務的なことについては晶彦さんが管理していると伺いましたが」

「ああ……そうですね」

「それも、〝そういうもの〟だから?」

「うん……なんか……そういう性分なんじゃないですか。家の仕事と、自分の気質が、うまいことハマってるっていうか。砂織なんて結構小さいときから、自分の母親じゃなく、伯母について回ってましたよ。こう家族が多いと、いろんな性格や得意分野を持った人間がいてくれるから、便利ですよね」

「はあ……」

 ひょうひょうと話し続ける彗一に、佐野は不安感を抱いていた。

「このテーブルも、俺が作ったんですよ」彗一は楽しそうに指差した。

「ええっ。てっきり高級家具なのかと」

 元気だな。テーブルの木目にしなびた瞳を落としながら、佐野は思った。「すごい器用なんですね」

「何かしらいじってると落ち着くんですよ。俺、家のことだけじゃなく、村の便利屋みたいなこともやってて。呼ばれていって、壊れたもの直したり、ネット環境整えてあげたりとか」

「菊田さんとは、交流は?」

「菊田さん? なんで菊田さん?」

 きょとんとした顔になって、彗一はたずね返した。

「冷湖さんと親しくしていたと伺ったもので」

 佐野が言うと、彗一は息をついて笑った。

「あのじいさんなら、『村中全員ダチだ』って言い張りますよ。あ、貶してるわけじゃないですよ。ただあの人、大昔の武勇伝を語るのが大好きで。時々話が長くて面倒くさいこともありますけど、でも、気さくでいい人です。事件とは無関係ですよ。俺が保証します」

「これを見て、何か思い当たることはありませんか?」佐野は二枚の白紙を取り出した。

「なんですかこれ」

「さあ。それを調べているところで」

「手に取って見ても?」

「どうぞ」

 彗一はビニール袋を取り上げてまじまじと見つめた。

「和紙ですね」

「そうみたいです」

「ふうん」

 彗一は和らいだ笑みを浮かべた。

「ちょっとよく分かんないです」



「夕方、話をしたときには、祖母はとても元気でした。お客さんの————特に、高校生の方たちと会えるのを、すごく楽しみにしていて」

 冷静に、氷降晶彦は述べた。「翌日のスケジュールを確認してから、私は祖母の部屋を出ました。祖母は、夕方には仕事を切り上げてしまいますし、朝一に仕事の話をするのを嫌うので、私が、夕方に祖母の部屋を訪ねに行って、一日の最終チェックと、翌日の打ち合わせをするのは、毎日のルーティンだったんです。祖母のようすは、普段と変わりなかったように見えました。ただ————」

「ただ?」

「いえ。祖母は、深遠というか、含蓄があるというか————。見かけや言葉以上に、我々が想像し得ないことを平気な顔で考えている人なんです。普段と変わりないといっても、真意のほどは分かりません」

「まあ、人というのはそういうものですよね」

 分からない。本当に。自分の心理さえ、疑ってしまう————。「最近、冷湖さんの身の回りで何か変わったことはありませんでしたか? 会社のことでも、プライベートなことでも構いません」

「些細なことでしたら、数え切れないほどあります。取材を受けた雑誌の編集者の方と意気投合したとか、新しい宝石を購入したとか、村の誰だかにお孫さんができたとか————。そういう些細な出来事を、祖母は新鮮に受け取って、感慨するんです。冷静ですが、退屈が嫌いな人でした。ただ、それらは〝祖母にとって〟の楽しい変化であるだけで、我々から見ればいつものことでした。事件と関係するような大きな出来事は、なかったように思います」

「構いません。どんな小さなことでもいいので、リストアップしていただけますか?」

「分かりました。あぁ、お役に立てるか分かりませんが————」

 晶彦は、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。「よければ使ってください。祖母の、今年に入ってからの細かなスケジュールや、身の回りのことが書かれています」

「助かります。なるべく早めに————」

「返却は急ぎません。母艦は他に置いてありますので」

「……そうですか」

 晶彦の抜かりなさになかば畏縮しながら、佐野は受け取った手帳を相原に手渡した。「冷湖さんの貴重品の管理は、あなたがしていたそうですね」

「ええ。祖母の部屋から、何も盗まれたものはありませんでした。先程お話しした、購入したばかりの宝石も、ケースの中に入ったままでした」

「冷湖さん、遺言書は作成していましたか?」

「え?」

 突然、晶彦は不可思議そうな顔を浮かべた。

「遺言書です。同族会社の代表の方なら、用意していてもおかしくはないかと」

 速やかな回答が途切れた。晶彦は、戸惑ったようすで答えた。

「話をしたことは、あると思います。ただ、実際に作成したか、どうかは……」

「あなたにも、分からない?」

「ええ……」

「話というのは、具体的にはどういったことを?」

「いえ、ただ————」晶彦は考えていた。「どうしようかというだけで、断定的なことは、何一つ……」

「お話を聞くかぎり、冷湖さんの性格なら、早いうちから遺言書を作成して、その事実をあなたに伝えていてもおかしくはないと思うのですが」

「そう————いえ、どうでしょう。会社の将来を考えすぎるあまり、結論が出せず、先送りになっていたのかもしれません。それに私は、祖母の身の回りのことを何もかも管理していたわけではありません。仮に遺言書が作成されていたとして、祖母が私に知らせなかった可能性は、十分にあります」

「遺体が発見されたときのことですが、丹原さんが悲鳴を上げて、広間へ戻ってから、みなさんは全員で冷湖さんの部屋へかけつけた?」

「はい」

「その時、誰も部屋に入らなかった?」

「ええ、誰も入りませんでした」しっかりとした面持ちで、晶彦は答えた。「警察への連絡は他の者に任せて————母か、砂織が走っていったと思います。その間、誰も中に入らないように、私が見ていました」

「あなた自身も部屋に入らなかった?」

「え? はい……」

「なぜですか?」

「な……なぜ?」

「そばへ行って、おばあさんのようすを確かめようとは思わなかった?」

「それは————」

「手遅れだと分かっていた?」

「それは……」

 うつむき、狼狽したようすで、晶彦は答えた。「丹原さんが、『死んだ』と言ったので……」

「間違いだと思わなかった?」

「僕は、ただ————!」

 晶彦は悲痛の浮かんだ顔を上げた。それから、またすぐにうつむいた。「警察が来るまで、誰も部屋に入れるべきではないと……そればかりが先行して……」

 佐野は少し間を置いてから、続けた。

「透織さんの仕事ぶりはどうですか?」

「透織? ええ。よくやっていると思います。私は————評価を下す立場にありませんが……」

「冷湖さんの、透織さんに対する評価はどうでしたか?」

「特にありません————ああ、悪いという意味ではないです。祖母は、逐一人を褒めるようなことをしないので」

 佐野は二枚の白紙を取り出した。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか?」

「ありません」

「そうですか」

 佐野は手早く白紙を回収した。「今日はもう結構ですよ。ご協力ありがとうございました」

 晶彦はソファに固まったままだった。

 佐野は辛抱強くそれを見守った。

「あの……」

 晶彦は口を開いた。

「あの時、部屋に入って、何かしらの処置を施していたら、祖母は助かったんでしょうか……」



「そうです! ついさっき、思い出したんですけど!」

 氷降鳴代はうったえた。

「もう少し、詳細にお願いします」冷静に、佐野は言った。

「あ、はい。うちは、五世帯で同居してますけど、それぞれの家庭ごとに、割り当てられた離れがあるんです。母屋とは別に、そちらの方にも、キッチンやバスルームがあって、それぞれの生活スペースは、基本的にはその離れの方になるんです。ただ、みんな自由ですし、家族仲もいいもんですから、母屋の方で一日中過ごすこともしばしばで。その日も、お義姉さんや早苗さんたちと、母屋で寛いでいたんです。夜になって、自宅の離れの方に戻ろうとしたら、渡り廊下を歩いている最中に、誰かが、私の部屋から出てくるのが見えて。その人は、私に気づいたのか、渡り廊下の方へは来ずに、庭に飛び出して、走っていってしまいました。暗かったですし、私もぼうっとしていたので、外見についてはよく覚えていません」

「それは、いつのことですか?」

「先週の、土曜です」

「何か盗まれた物は?」

「いいえ、ありませんでした」

「警察に相談はしましたか?」

「その前に、夫に話したんです。そうしたら、あの人、『何か盗られていたとしたら、恵んでやったと思えばいいだろう』って。息子にも相談したんですけど、『キツネかタヌキと見間違えたんだろう』って。夫と息子は、いつもそうなんです。危機感がないというか、なんというか。自分の非すら、いつも笑って済ませて。まあ、確かに、我が家には金目のものなんてありませんけど」

「高価なガラスの人形があると、お伺いしましたが」

「ああ。あれは母屋の方にあるんです。一族の共有財産みたいなもので、夫が管理しています。まあ、管理といっても、あの人の仕事はカタログをめくることくらいで、届いたガラスドールをショーケースに並べるのは、息子の仕事なんですけど。ショーケース自体も、息子が作ったんですよ」

「ああ、このテーブルも」佐野は指差した。「息子さんが作ったと伺いました」

「そうです。なんでもするんです、あの子」

 ほうっと、息を吐きながら、鳴代は言った。

「その人形の存在を、知っている人は?」

「お客様がいらしたときに、お見せすることはあったと思います。まあ、来客なんてめったにありませんけど」

「人形の価値を、話したことは?」

「そんな下品なことはしませんよ。素敵でしょうって、お見せするだけです」

 佐野は二枚の白紙を取り出した。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか?」

 鳴代は、テーブルに並んだそれらをじっと見つめた。

「ありません」



 氷降冷二は赤ら顔で天井を見上げていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ……ああ……」冷二はゆっくりと顔を戻した。「母や兄とちがって、私は酒が得意じゃないんですよ」

 相原が静かに部屋を出ていった。佐野は話し始めた。

「洋間にあるガラスドールを管理していたのは、あなただそうですね」

「ええ。管理といっても、オークションへは人をやりますし、ショーケースに並べるのは息子がやってくれますからね。私の仕事は大してありません」

「ショーケース自体も、息子さんが作られたそうですね」

「ええ。あいつは私より器用なんですよ」冷二は赤ら顔をこすった。「いやほんと、誰に似たんだか」

「ガラスドールは、今も全体揃っていますか?」

「ええ、さっき別の刑事さんに言われて、見に行きましたがね」

 冷二は佐野の方を見て、ふやけた顔で言った。「パーツが一つ、なくなっていました」

「パーツ?」

「あれは、ただの人形じゃないんですよ」

「ええ、聞きました。とても高価なものだと————」

「いえ、そういう意味ではなくて」

 相原が水を手に戻った。冷二はそれを受け取り、勢いよく飲むと、息をついて、言った。

「あれは、置物というより、『着せ替え人形』なんですよ。人形の衣装や、小物が、うまい具合に着脱できるようになっていて————。あれです、要は、昔の金持ちの子どもたちの、贅沢な遊び道具だったんですよ。子どものおもちゃなんぞ、いくら壊されても支障ないという見栄の張り合いのために、親たちがこぞって買い与えたんです。ですから、紛失したり、破損したりで、すべてのパーツがきれいな状態で揃っているものは稀少なんです。それが何十体————いえ、家具や小道具を入れれば数百種類にもなる。それが、我々のようなコレクターにうけているんですよ」

「そんな大事な品のパーツがなくなったというのに、ずいぶん呑気ですね」

「ハハハ……」瞼を落としながら、冷二は笑っていた。「妻や息子にもよく言われます。なんですか。私には、平静を装う癖があるらしくて。いえ、内心、すごく動揺していますよ。でも、自分でもびっくりするんですけどね、『また探せばいい』なんて、楽観的なことを思っていたりもするんです。いや、ほんとに、驚いていますよ」

「具体的に、なくなったのはどのパーツですか?」

「槍です。下段の隅の、兵隊が持っていたパーツでした」

「どこかのコレクターが、パーツだけを盗みに来るという可能性は」

「十分にあるでしょうね。その犯人さん————または雇い主が、『槍』を持っていない兵隊を所持していたとしたら、そのパーツだけを盗みに来た可能性は、十分にあります。ただ————」

 冷二は顔を伏せた。顔は赤いが、目つきは真剣だった。「そんなことのために母を殺される方は、たまったもんじゃありませんけどね」

「お察しします」

 心から、佐野は思っていた。だが、職務を全うしなければならなかった。

「不躾なことを聞きますが、お宅では、その人形以外に、高価な品を置いていたりは?」

「うちは成金じゃないんですよ、刑事さん」冷二は口元だけで笑っていた。「まあ、一般の方からすれば高価に見えるものもあるんでしょうが。盗まれて困るようなものはほとんど預けてありますし、いくら防犯意識の薄い我が家でも、蔵には厳重に鍵をかけてあります。高価なもので家を飾り立てるような趣味もありませんしね。至って質素な暮らしぶりですよ」

「念のため、蔵の方も確認していただけますか?」

「ええ、もちろん」冷二は力なく頷いた。

「最後に一つだけ」

 佐野は二枚の白紙を取り出した。「これに心当たりは?」

 冷二はかがんで、虚ろな瞳でそれを見下ろした。それから、口元を押さえた。

 佐野は白紙を取り上げた。

「どうぞ休んでください。お手間を取らせました」



兎渡瓦うどがわらの料亭で、妻と食事していたんです」

 柏谷亭一は話した。「祖父の代から贔屓にしている店でしてね。あそこは本当にいいところなんですよ。完全個室で、料理がうまいのはもちろん、食器の趣味もいい。久々に顔を出しましたが、代替わりしたばかりの若主人が、部屋までわざわざ挨拶に来てくれましてね————」

「それで?」

 佐野は先を急がせた。

「廊下で、若い男女とすれ違ったんです。いや、最初は子どもかと思ったくらいなんですが。こんな格式ある料亭に、こんな若いカップルが来るのかと驚いたもので、よく覚えていたんです。食事を終えて店を出ると、少し歩いたところで、財布が落ちているのを見つけましてね。ブランド物の、そりゃ分厚い財布でしたよ。おそらくは、店を出た客が帰りがけに落としたんだろうと思いまして、すぐに戻って届けたんです。そしたら、その日のうちに、店の主人から電話がありました。落とし主の方が、ぜひともお礼がしたいと言っていると。聞けば落とし主は、氷降グループのお孫さんだっていうじゃありませんか。これも何かの縁だと思って、招待を受けたんです。今日、ここへ到着して、離れで寛いでいたら、夕食の少し前に、冷河さんに連れられて、お孫さんが挨拶に来られて。それがあの時のカップルだったものですから、これまたびっくりで。いや、ただのご姉弟だったんですね、あのお二人。いろいろと合点がいきましたよ。氷降グループのお孫さんなら、あの料亭で食事をしていても、なんの疑問もありません」

「財布を拾ったのは、いつのことですか?」

「先週の————水曜だったかと」

「今日の夕方は、どちらにいらっしゃいました?」

「夕方? 離れの方にいたと思いますが」

「客の高校生が、廊下であなたたちご夫婦に会ったと証言していますが」

「ああ、あれのことですか。トイレを探していただけですよ」

「本当にそれだけですか?」

「ええ」

「正確におっしゃってください。トイレを探している間、どこか別の部屋に立ち入ったりは?」

「……それも、高校生が証言してくれたんですか?」

 急に、億劫そうに、亭一は話し出した。「入りました。障子ばかりの中で、木の開き戸が目に入ったもので、てっきりトイレだと思って」

「それでどうしました?」

「どう? 別にどうもしませんよ。間違いだと分かって、出てきました」

「どうしてわざわざ中に入ったんですか?」

「……どうして、とは?」

 亭一は苛立ち始めていた。

「扉を開いて、トイレではないと分かったんですよね? わざわざ中に入らずとも、扉を閉めれて立ち去ればいいだけの話ではありませんか? 何か、その部屋に入らなければならない事情があった、もしくは発生したのではありませんか?」

「あなたねえ。私が人様の家を物色していたとでも言いたいんですか?」

「いいえ。ただ、そうではないのなら、その部屋に入った明確な理由をおっしゃってくださいと言っているだけです」

 亭一は大袈裟にため息を吐いた。

「いいですか。私は老舗の和菓子屋の跡継ぎになるはずだった男ですよ。名家に招待されたからといって盗みをはたらくような卑しさも、そんなことをしなければならない金銭的問題もありません。どちらかといえば、私はこの家の人間と同じ、社会的地位のある人間です。上流階級の人間が、上流階級の人間の家で、なぜこそ泥のようなまねをしなければならないんです。第一、あの部屋には————」



「何もなかったんですのよ」

 あっけらかんと、柏谷久子は言った。「部屋の中は空だったんです。本当に。電球一つありませんでした」

「それで?」

「『いい部屋ね』って、言ったんです」

「その、何もない部屋を?」

「ええ。うちの主人は趣味が多くって。釣りだの、ゴルフだの、オーディオだの。この間なんかは、『山に登る』って言っていたかしら。そういうものって、いろいろとお道具が必要でしょう。それがかさばってかさばって。でもね刑事さん、わたくし、どこぞの鬼嫁みたいに、せいせい処分しろだなんて、言いたくはありませんのよ。ただ、どうしたものかとここしばらく考えあぐねていて。そうしましたら、偶然、あの部屋に行き当たったんですの。二畳くらいの、ほんの小さな部屋でしたけれど。まあ、こういう広いお宅には、お部屋が有り余っているんでしょう。『これくらいの小部屋でもあれば、うちも多少はすっきりするわねえ』なんて、話しながら、見ていたんです。うちには子どもがいませんけれど、主人の持ち物は、そう悪いものじゃありませんし。わたくしたちがあの世へ行っても、うちの実家や、主人の実家の誰かに————あらやだ。こんな時にこんな話、不謹慎でしたわね」



「先週は、本当に、立て続けにいろいろなことがありました」

 悲しげな表情で、氷降正枝は話した。「火曜に、早苗さんが朝早く出かけていったと思ったら、体調を崩したとかで、見ず知らずの大学生の車で帰っていらして。水曜には、結子ちゃんと結太郎君が、帰ってくるなり『財布を落とした』と大騒ぎして。金曜には花織ちゃんが、どこだかのレストランで他のお客様に粗相をしたと。それで、義母が突然、『お世話になった方たちをお招きする』と言い出したんです。いくらか包めば済む話と思われるでしょうが、義母は、時折豪快なところがありまして。こまごまとお礼やお詫びをするよりも、その方が気持ちよいと思ったのでしょう。私はすぐに家事手伝いの派遣会社へ連絡したのですが、条件に合う方が一人しかいないと言われて。考えるまでもなく、その方にお願いすることにいたしました。それが、丹原さんでした」

「お手伝いさんを雇うことは、よくあるんですか?」

「ごくたまに。お客様がいらしたときに。今回は、義母の方から、『頼んではどうか』と提案されました」

「その派遣会社というのは、以前にも利用したことが?」

「ええ。何度か。数えるほどですが」

「丹原さんがこちらに派遣されたのは、初めてですか?」

「ええ。初めてです」

「これ以前に、彼女と面識は?」

「ありません。まったく知らない方です」

「冷湖さんは、いつも八時には自室へ?」

「ええ。八時から寝る仕度を始めて、八時半に寝酒を飲むのが日課でした」

「寝酒を運ぶのは、普段はどなたが?」

「私か、姪の砂織ちゃんが」

「それを、今日は丹原さんに任せた?」

「ええ。大した仕事ではありませんでしたので」

「青山さんと、柏谷さんについてですが、お世話をしていて、何かおかしいと思ったことや、気になったことはありませんか?」

「いえ、特には。青山さんが————少し、緊張してらっしゃるように見えたくらいで。でも、そういう性格なんでしょう、きっと」

「青山さんは、早苗さんを送り届けた日にも、こちらに泊まったそうですね」

「ええ。夜も遅かったので、そのまま泊まっていただきました」

「その時、青山さんは、冷湖さんと接する機会はありましたか?」

「ありました。といっても、玄関であいさつをした程度で。義母はその日、夜から泊りがけの用事がありましたので、青山さんと顔を合わせたのはそれきりだったと思います」

 佐野は二枚の白紙を取り出した。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか?」

 正枝は静かに答えた。

「ありません」



「母は立派な人でしたよ」

 深々と、氷降冷一は語った。「私が物心ついたときには、会社を受け継いで、若社長としてバリバリ働いていました。それも、四人の子を育てながらですよ。儲けたい、業界トップに立ちたいというより、先祖代々受け継がれてきた自社ブランドを、守りたいという気持ちが強かったように思います。それは我々も同じです。信用というものは、たった一度の過ちでパーになってしまうものですからね。特に『老舗ブランド』というものは、どんなに頭を下げようと、喧伝しようと、一朝一夕で得られるものではないんです。母はそれをよく心得ていました。ですから、人から尊敬されることはあっても、恨みを買うようなことは何一つしませんでしたよ。我々にだって、他社を陥れるような強引な取引や汚い仕事は一切やらせませんでした。グループ会社の人間、重役から末端の社員、アルバイトの学生まで、調べてもらって構いません」

「冷湖さんの後継者について、話し合われたことは?」

「まあ、ないわけではありませんが……」

 冷一は腕組みをした。「細かいことは、これからまた話し合うことになるでしょう。刑事さん、これは会社の株に関わる問題ですよ。現時点で、私からお話しできることはありません」

 佐野は一旦、身を引くことにした。

「失礼ですが、早苗さんのご主人は?」

「六年前に亡くなりました。急性の心臓死で。酒も煙草もやらない、医者にもほとんどかかったことのないやつだったんですがね。突然のことでした」

「健康そうに見える人でも、突然起こるらしいですからね、そういうものは」冷静に、佐野は答えた。

「ええ。そうらしいです」冷一は穏やかに頷いた。

 佐野はおもむろに、二枚の白紙を取り出した。

「これを見て、何か思い当たることはありませんか?」

 冷一はテーブルの上を見やり、泰然としていた顔をしかめた。

「なんですかこれは」

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