五
「みなさんお揃いのようね」
ラップトップのキーボードを叩きながら、
「分かるんですか」
言って、晶彦はそっと引き出しを閉めた。
「分かりますよ。ばあちゃんの耳はね、まだ腐っちゃいませんよ」
しっかりとした声遣いで、冷湖は言った。「一台目は彗一、二台目は結子と結太郎。あの二人はまた、車庫に車を入れるのを彗一に押しつけたでしょう」
「ええ、多分」
「花織のお客さんは、彗一が乗せてきたんですか」
「そうです。四人組の、高校生だそうです」
「わくわくするわね」
少女のようなきらきらとしたまなざしを、冷湖は晶彦に向けた。「今時の学生さんに会う機会なんて、滅多にないことだものね」
「花織と同い年ですよ」
「あの子は、見ていたって面白みがないじゃありませんか。したいように振る舞うわけでも、何か物を言うわけでもなく。自分の家にいるっていうのに、身の置き場のなさそうに。ばあちゃんはね、何も、結子たちのように勝手気ままをしなさいだとか、彗一のように手が塞がるほど趣味を持てと言ってるんじゃあないですよ。うちの孫たちには、のほほんと平和ぼけした透織も、陰気で妄想屋の
冷湖は真剣な顔つきでラップトップの画面に向かっていた。
晶彦は使い込まれた立派なデスクのそばへゆき、冷湖の方を向いたまま、命を待つように静まった。
その年代の女性にしては、がっちりとした逞しい体つき。昔から、祖母の姿は、手を貸したくなるようなひ弱な老人ではなく、敬意を持って避けなければならないような、貫禄ある巨人のように見えていた。
美しい白髪、大ぶりのイヤリング、牡丹色の口紅。
着物より洋服が好き。特に、セットアップのスーツ。外へ出るときは、必ずヒールのある靴を選ぶ。
足腰も丈夫で、背筋はぴんと伸びている。今も、暇さえあれば町へ赴き、プールで体を鍛えている。村の畑仕事を手伝うこともある。おしゃれな日除けの帽子と、長靴を履いて。
昔に比べて食は細くなったが、それでも、そのこだわりは失せていない。酒の、方も。
やまぬ好奇心。向上心。
この人は、自分というものを持ち、そして、何かをしていなくてはいられない。
「晶彦」
冷湖は言った。
「はい」
晶彦は注意した。
「あなたは本当によくできた子ですよ」
冷湖はキーボードを叩く手を止め、濁りのない瞳で、晶彦の顔をしっかりと見た。それから、続けて言った。
「あの子のこと、よろしく頼みますよ」
冷湖の部屋を出ると、晶彦は廊下の少し先にある開き戸をノックした。
威厳に満ちた声がして、晶彦は扉を開けた。
「会議中でしたか」
「いいや、今終わったよ」
あまり明かりの入らない、こぢんまりとした部屋だった。長丁場の会議、積もりゆく書類————冷一の嫌厭するものを押し込めた、物置のような場所だった。大らかな冷一だが、好かぬものに時間と敷地を割いてやるほどの情け深さはない。週に何度か、冷一はこの部屋にこもり、気を煩わせる作業をまとめて片付けてしまう。
「母さんのようすは?」冷一はたずねた。
「いつもと変わりなく」晶彦は答えた。
元気過ぎるほど、元気で————。
「正枝は何か言ってたか?」
「いえ、夕食の準備も一通り済んだそうで。ああ、彗一のこと、探してましたね。用件は聞きませんでしたけど。父さん、見てませんか?」
「さあな。ずっとここにいたからな」
「そうですか。あと、お手伝いの————
晶彦が言うと、冷一は豪快に笑いをあげた。
「迷ってるんじゃないのか。回り廊下をぐるぐるしていたりしてな」
「探してみます」
「客らは?」
「全員着いたそうです」
「そうか」
冷一は視線を落とし、ふっと疲れた表情を見せて、思案しはじめた。
晶彦はデスクの前に直立し、冷一の方を向いたまま、命を待つように静まった。
逞しい体、美しい白髪、凛々しい顔立ち。どれも祖母から受け継いだものだろう。
腰を据え、腕を組み、鷹揚とした父。漂う色気も、時折見せる豪快さも、祖母と似通った部分がある。
ここに、〝遺されている〟————。
「晶彦」
冷一は言った。
「はい」
晶彦は注意した。
冷一は顔を上げ、濁りのない瞳で、晶彦の顔をしっかりと見た。それから、言った。
「しっかりやれよ」
結子と結太郎は冷たいグラスと紙袋を手に戸を開けた。
「あれえ。パパまだ寝てるの?」結子は言った。
「そうよ。あなたたち起こしてきてちょうだいよ」
「いいけど」結太郎は言った。
「ママぁ」結子は化粧台に歩み寄った。
「なあに」
「産んでくれてありがとう」結太郎は冷河の背後に歩み寄り、ネックレスの留め具をつまんだ。
「なんなの? 突然」冷河は眉をひそめた。
「べっつにぃ」横から鏡を覗き込みながら、結子は言った。
「とりあえず俺たち幸せだから」ネックレスを留め終えて、結太郎は言った。
「そう、よかったわね」
二人は楽しそうに隣の部屋へ入っていった。冷河は首をかしげて、化粧台に向き直った。
「パパぁ」結太郎は言った。
「もう夕方だよぉ?」結子は言った。
「えっ」
「来てるっぽい」結太郎は言った。
「外で育ちの悪そうな高校生見た」結子は言った。
「そういうこと言うもんじゃないよ」まだ開ききらない瞳に眼鏡を当てながら、公伸は優しくたしなめた。
「パパぁ」結太郎は言った。
「うん?」
「産んでくれてありがとう」結子は言った。
「えっ? 何? 家を出るの?」
公伸は、やっと澄んだ視界で子どもたちを見た。
「出ないよ」結太郎は言った。
「ずっと家にいる」結子は言った。
「なんだぁ、そっかぁ、よかったぁ」公伸は胸をなでおろすと、目を細めて微笑んだ。「パパも、結子と結太郎がうちに生まれてきてくれたこと、とっても感謝しているよ」
「でしょ?」結太郎は言った。
「私たち幸せだね」結子は言った。
二人は自室の扉を開けた。
床に散乱した衣服や、菓子袋や、長財布を蹴り飛ばしながらベッドへ向かうと、サイドテーブルに冷えたカピルスを置き、持ってきた紙袋の中身を開封した。
二人は互いの手に指輪をはめた。それから、会話のように微笑みあった。
ベッドに並んで仰向けた。左手を天井にかざした。
「普通の人は、『結婚』しなくちゃいけないんだって」
「一生懸命なんだね。家族になるために」
「私たちは、生まれたときから家族だもんね」
「ママのお腹にいるときからね」
「顔も、髪も、生まれた場所も、誕生日も一緒だもんね」
「遺伝子も一緒だもんね」
「外の家に生まれてたら、私たち、恋人同士じゃいられないんだって」
「ばかだね」
「ばかだよ」
「うちに生まれて、本当によかったな」
「神様が、味方してくれたんだよ。私たち、愛し合っていいんだって」
「結子大好き」
「結子も、結太郎のこと大好き」
「ずっと一緒でいようね」
彗一は台所を後にした。
廊下を回り、渡り廊下の先の我が家へ向かう。
「あら、おかえり、彗一」
「まーた訳分かんねえ買い物して」飽き飽きとした顔で、彗一は言った。
「訳分かんなくないわよう。彗一も、自分のお母さんがお箏の弾ける和風美人だったら嬉しいでしょ?」
「何が和風美人だよ。書道も茶道も、着物の着付けすら三日坊主だったくせに」
言いながら、彗一は箏のそばに座り込み、傍らにあった教則本をめくり始めた。
「ほんっと彗一ったら姑みたいにうるさいんだから。見て見て。
鳴代ははしゃぎながら、向日葵文様の小箱から、二股に分かれた小さな用具を取り出した。彗一は冷めた目でそれを見やった。
「あれだって? 菊田のじいさんから、年代物のバイク、もらったんだって?」
ソファの方から、
「うん、そう。昨日ようやくバラし終わったとこ」
「ほんと昔から工作好きよね。バイクが欲しいなら新しいの買えばいいのに」琴柱を箱にしまいながら、鳴代は言った。
「分かってねえなぁレストアのロマンをよ————って」
彗一は、父が手にしている分厚いカタログに目をやった。「まさかまたなんか買う気?」
「あ? ああ……。あれだ。子どもたち」
悪びれるようすもなく、冷二は返した。
「またあのガラス?」
彗一は顔をしかめた。
「ただのガラスじゃないわよクリスタルガラス」鳴代は強く言った。
「あれって全部集まんの?」
「さぁ……」カタログに目を向けながら、冷二は生返事で言った。
「ミニチュアのティーセットとか、トランプもあるらしいのよ」鳴代は言った。「家具や小物まで揃えようと思ったら————そうねえ、ゆくゆくは、あなたに託すことになるかも」
「あ、無理です俺収集癖とかないんで」
「収集とか、そういうことじゃないんだなぁ、彗一」
しみじみと、冷二は語った。「タチシェフのガラスドールはな、我が家の財産であり、夢であり、ロマンなんだよ」
「そうそう。要はバイクと一緒なの」茶目っ気を出して、鳴代は言った。
「ぜんっぜんちげえよ」
言い切って、彗一は立ち上がった。
「どこ行くの? お母さんこれからお箏弾くのに」鳴代は言った。
彗一は振り向きもしなかった。
「菊田のじーさんとこ」
「砂織ちゃん」
砂織は、二畳ほどの狭い板間を入念に拭き込んでいた。
「何してるの?」
「見れば分かるでしょ」
「分かるよ。なんでここ掃除してるの?」
「柏谷さんよ」
「結子ちゃんたちが呼んだ人?」
「そう。家の中うろうろして、部屋の扉を勝手に開けて、ほんと非常識な人」
雑巾をつかむ砂織の手に、さらに力が込もった。
思織は廊下の壁に背をつけ、膝を抱えて座り込んだ。
「丹原さんは?」思織は言った。
「知らないわ。どこかでサボってるのよ、きっと」砂織は言った。「あの人、正枝伯母さんが手配したらしいけど、ほんと使えない。返事もろくにできないし、仕事の説明してるのに上の空だし、伊織の相手でもしてるみたい」
「砂織ちゃん、怒ってる?」
「怒ってない。呆れてる」
「惜しかったね」
怪しげに微笑んで、思織は言った。
砂織の手が、ぴたりと止まった。思織は続けた。「砂織ちゃん、きれいなのに」
砂織の手が、何事もなかったかのように動き出した。
「青山さんに会った?」思織は言った。
「会った。少しだけね。お母さんが案内したから」
「似てるよね」
「誰に」
「お父さん」
「似てない」
「顔じゃないよ。雰囲気が」
「お父さんは、あんななよなよしてなかったでしょ」
「なよなよはしてないけど、ガツガツもしてなかったじゃない」
思織は、ぼんやりと考えながら話しはじめた。
「仕事向きの人じゃなかったと思うわ。かといって芸術を生み出すタイプの人でもなくて————ただ————生きてるような人————?」
「何それ」
「お散歩しながらね、言うのよ。『思織、花を〝醜い〟と言う人は、きっとどんなときも自分を見失わない人だね』『誰が最初に
砂織は廊下に出て、今度は黙々と開き戸の縁を拭き始めた。思織は相槌を求めずに話し続けた。
「昼間、お散歩に行ったの。そしたら、祠の前に薄汚れた軽自動車が停まっていて。すぐに分かったの。青山さんの車だって。あの人、スケッチブックを持って車に戻ると、そのままに村に入ってきて。私、お散歩をやめて追いかけたの。全然大変じゃなかった。あの人、少し走ると車を停めて、やっぱりスケッチブックを持って降りてきてね。しゃがんで、花を観察するの。珍しい花じゃないのよ。どこにでも咲いてるような、雑草みたいな花。それからまた車を走らせて、今度は田んぼを観察したり、その次は川の方へ行って、ちょっと手を濡らしてみたりね。走っては停まってを繰り返して、家に着くまで、ずいぶん長いこと村を散策してた。あの人のことを見ているはずなのに、私、なぜかお父さんのことを考えていたの。子どもの頃は、お父さんのこと、漠然と『優しい人』だって思ってた。けど、その時気がついたの。お父さんって、『かわいい人』だったんだって」
「あなた、何が言いたいの?」
砂織はようやく妹を見て言った。思織も、いじらしく膝を引き寄せ姉を見た。
「あたし知ってるの」
思織はまた、怪しげに微笑んだ。
「青山さんのこと」
「もー。やっと出たあ。ごめんじゃないよお。もぉお。えぇえ? 知らないよお、そんなことお。それより聞いてよお。氷降家ヤバすぎ。なんか、間取りが巨大な蜘蛛の巣みたいなのー。十七人だよ? お客さん入れたら二十四人。お手伝いさん私一人って絶対足りなくない? 足りてないよね? 今あ? ううん、休憩じゃないけどぉ。大丈夫だってえ。広いからバレないよ。家の人? なんか、台所のボスみたいなババアと、小姑みたいな大学生。三梅より年下の子が、エラソーに指図してくんの。『丹原さん、話聞いてますか?』って。全っ然笑わないし、仕事の指示も『それくらい言わなくても分かるでしょ』みたいな感じで細かく教えてくれないし、ほんとサイボーグみたいなのお。三梅、朝から何したと思う? 畳のお掃除だよ? 畳超きれいなのに、わざわざ箒で掃けって言うの。なんでお掃除ロボとかないの? あるよね? 畳用のロボット掃除機。氷降家の財力なら各部屋に一台設置できるよね? 脚痛い腰痛いかーえーりーたーいー。うん……。うん……。それは……そーだけどぉ……。うん。うん。分かってるう。大丈夫だってば。三梅、今度こそ上手くやるから」
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