砂織は長い回廊を進んでいった。

 発せられる言葉はなかった。本村は、砂織の背筋に沿って垂れた長い髪を見つめていた。

 大槻が口を開いた。

「僕らの他にも、お客さんがいるみたいですね」

「ええ。こんな山の中ですし、普段は、なかなか気軽にお客様を呼べないもので」

 振り返らず、事務的な口調で砂織は述べた。「定期的に、お世話になった方々を一度にお招きすることにしているんです」

「え、じゃあ、会社関係の人たちとかも?」

「邪魔じゃないですか? 僕ら」本村は言った。

「いえ、今回は完全なプライベートの集まりですので。お泊まりいただく部屋もそれぞれ独立していますし、お客様同士気を遣うこともないかと————」

 砂織は足をとめた。前方の開き戸から、年配の男女が出てくるところだった。

「柏谷さん、どうかなさいました?」砂織は言った。

「いやあ、お手洗いを探している間に迷ってしまって」

 丸い頰を輝かせながら、男は言った。

「本当に広いお宅ですわねえ」

 着物を着た小柄な女が、上品に微笑みながら言った。

「お手洗いでしたら、お部屋を出てすぐのところにお客様用のものがあると、先程ご案内したかと」砂織はきびきびと言った。

「ああ、そうだったかな」男はとぼけ顔で視線をそらした。

「聞きそびれてしまったのねえ」困り顔で女は言った。

 何せ庭の景色が素晴らしくて、と、二人は邸宅を褒めそやし、自らの状況を嘲るように高らかに笑った。

 猶予を与えるように、砂織はその和やかなやり取りを暫し見つめたあと、揺らぐことのない淡々とした口調で述べた。

「そちらを曲がってすぐのところにお手洗いがありますので、どうぞお使いください」

「悪いねえ」

「本当に広いお宅ねえ」

 二人は腰を低くして廊下を曲がった。砂織は冷めた視線でそれを見送った。

「さっき彗一さんが話してるのを聞いたんですけど、あの柏谷さんって人たち、結子さんと結太郎さんのお知り合いなんですか?」大槻が聞いた。

 ふっと息をつき、砂織は歩き出した。「あの子たち、出先で財布を落としたらしいんです。それを拾ってくださったのが、柏谷さんご夫妻で」

 砂織は回廊から枝分かれして延びる渡り廊下を進んでいった。さらに枝分かれした廊下を進むと、母屋と同様、しっかりとした和風造りの離れに突き当たった。

「失礼します」

 砂織は声をかけた。障子を開けると、畳敷きにしつらえられた洋風のソファに、黒いドレスを着た細身の女と、若い男が座っていた。

「お母さん、本村さんたちが」

「あら、いらっしゃいませ」

 黒いドレスの女は立ち上がり、戸口の方へ歩み出た。「花織の母の氷降こおりおり早苗さなえと申します。先日は娘が大変なご迷惑をおかけしました。なんにもないところですけど、寛げるお部屋とおいしいお料理を用意いたしましたので、どうぞゆっくりしていってくださいね」

 早苗は健気にそう言ったが、見かけはか細く、病弱そうだった。まとめ髪から垂れた後れ毛が、より一層疲れきった雰囲気を醸し出していた。

 ソファに座る男も弱々しげだった。早苗が本村たちと挨拶を交わしているあいだ、肩身を狭くし、どぎまぎとしたようすでうつむいていた。

 砂織に連れられ、本村たちは廊下を戻った。

「あのお兄さんもお客さんなんですか?」大槻が聞いた。

「青山さんです。大学生だそうですけど」砂織は言った。「母が出先で体調をくずしたとき、介抱して、こんな田舎まで送り届けてくださって。お若いのに奇特な方です」

 自分といくつも年の変わらないであろう青山に対し、砂織はまるで年配の淑女のように、感心して述べた。

 青山同様、本村たちも、母屋と似通った造りの離れに案内された。

 中は落ち着いた雰囲気の和室だった。戸口のそばに運び込まれた荷物が置かれ、床の間には、『火上結氷』と書された掛け軸が飾られている。

「お風呂場とお手洗いは廊下を出てすぐのところにございます。エアコンのスイッチはそちらに」

 部屋に一歩も足を踏み入れず、戸口の外から淡々と砂織は説明した。

「エアコン? こんなに快適なのに?」本村は言った。

「朝晩は冷えますから」

「電源借りてもいいですか?」バックパックからタブレットを取り出して、大槻がたずねた。

「充電でしたら、そちらに」

 砂織は部屋の隅に置かれた、扉付きの小さな木箱を手で指した。

「なんですかこれ」

 大槻はそっと扉を開けた。

「充電ボックスです。和室に馴染むように、彗一さんが作ってくれたんです」

「ああ、DIYするって、彗一さん言ってましたね」本村は言った。

「すげー。タブレットもちゃんと入るー」

 大槻は感動していた。倉沢も木箱を覗きに行った。

「夕食は七時です。広間までは迷われるでしょうから、その頃に、家の者が迎えに上がりますので」

 砂織は一礼し、廊下を戻った。

 その後ろ姿を、本村は最後まで、姿が見えなくなるその一瞬まで目で追った。

 静かだった。強かった。堅かった。だが本村は、そこに冷たさを感じなかった。

 建物の外には、松や竹で彩られた美しい庭園が広がっていた。

「池脇んちの庭とちげー」

 本村の背後から、倉沢がぬっと顔を出した。

「悪かったなしょぼくれた庭でよ」

 畳に大の字になった池脇は、庭先にも倉沢にも目をやらずに言った。

「いいんだよ。てつみちの家はあれで」

 大槻も、タブレットから目をそらさずに言った。

「あれ、ないね」

 庭先を見つめて、本村は言った。

「あれ?」大槻は顔を上げた。

「あれ、ほら、石のやつ」

 本村は両手でくうをかたどった。

「灯籠のこと?」

「ああ、それそれ」

「別に義務ってわけでもねえしな」ごろりと、庭先に体を向け、頰杖を突いて池脇は言った。

「でもご立派な家のご立派な庭には灯籠ってイメージじゃない?」本村は言った。

「いやあ、意外とお金持ちってシンプルイズベストな感じよ」大槻は言った。

「灯籠ってなんのために置くの?」

「なんでだっけ?」

「知らね」

「あれ何?」

 倉沢が目を細めて言った。

 池脇と大槻もようやく腰を上げ、庭を覗き込んだ。母屋の方から連なる飛び石の先、小さな竹林で囲まれた一角に、一・五メートル程の細長い石の置物が立っている。

「あれ……灯、籠……?」目を凝らして、大槻は言った。

「なんかイメージしてたのとちがう」急に冷めた目つきになって、本村は言った。

「もうやめとけ。無知なのバレんだろ」池脇は言った。

「本村さん!」

 渡り廊下を、花織と伊織がかけてきた。

「嬉しい、ほんとに来てくれたんですね!」

 花織は涙があふれそうなほどの、感極まった笑顔で言った。それから、深く礼をした。「他のみなさんも、来てくださって本当にありがとうございます」

「花織ちゃん、敬語、いいよ」やんわりと、本村は言った。

「そうそ。俺たちタメなんだし」大槻が気楽に言った。

 花織は心許ないようすで両手をからめながら、照れくさそうに小さく笑った。

「人形は?」

 花織の脇から、唐突に伊織が言った。

 小さな体とふんわりと愛らしい髪型が、見せかけのようだった。堂々とした佇まいときりりとした瞳、つんとした鼻先が、君主のような威厳を見せている。

 一同がきょとんとしていると、もう一度伊織は言った。「あの人形、ないの?」

「あるよ。遊ぶ? 服もいっぱい持ってきたんだよ」

 本村は部屋に戻ると、古びた学生鞄からメイリスを取り出した。ストロベリー色の、たっぷりとフリルがついたグラデーションのドレス。髪は二つに結んであった。

 本村はメイリスを伊織に手渡すと、持ってきた小さなトランクケースを開いた。中から、大量の洋服とともに、折りたたみ式のハンガーラックやドールスタンド、姿見が引っ張り出され、トランクはたちまちドレスルームに早変わりした。

 伊織は黙々と洋服を選びはじめた。

「伊織もね、お人形が好きなの」

 花織は言った。「自分でお洋服作ったりもするんだよ」

「へえ、すごい」本村は感心して言った。「僕はそういうのしないから」

「僕、デザイナーになるの」

 メイリスに洋服を合わせながら、伊織は言った。「冷河れいか伯母さんがね、『伊織ちゃん、自分のブランド持てばいいじゃない』って。だから僕デザイナーになるの」

「持てばいいじゃないって……」大槻は苦笑いだった。

「簡単に言うよな」庭へ向けて、池脇はぼやいた。

「……青はないの?」

 トランクの中身を不思議そうに覗き込みながら、伊織は言った。そこには、赤や黄色の色とりどりの衣装が入っているが、青色の洋服は一着もなかった。

「あ、ほんとだ」本村もトランクを覗き込んだ。「入ってないね、青い服」

「ブルーハワイが嫌いになったから?」

 顔を上げ、本村の顔をしっかりと見て、伊織は聞いた。

「いや……嫌いとかじゃないけど……」

 冷たく、ベタついた感覚を思い出し、本村は、今日はまっさらになったワイシャツの胸を撫でた。

「やめてよ伊織、本村君、困ってるでしょ」

 とっさに花織が言った。それから、何かひらめいたようすで本村たちを見た。「そうだ。うちにもね、素敵なお人形があるの。よかったら見に行かない?」

 本村たちは母屋へ戻った。通されたのは、大きなダイニングテーブルが置かれた洋風の部屋だった。

 花織は壁際のアンティーク調のガラスケースの方へ向かった。ケースは、真鍮のフレームが付いた巨大なドールハウスのようになっていて、中にはドレスを着た貴婦人や、兵士や道化、椅子やテーブルを模した色付きのガラス細工が、ずらりと並んでいた。

「綺麗でしょ? 『タチシェフ』っていうメーカーの、クリスタルガラスのものらしいの」花織は言った。

「これ、もしかして一体うん十万みたいなやつ?」ひきつった表情で、大槻は聞いた。

「それは……ちょっとよく分からないけど……」

「こんなとこによく置いておけるよな。歩くのも恐えよ」池脇は言った。

「簡単に倒れないようにはしてあると思うけど……多分」自信なげに、花織は言った。

「クリスタルって言っちゃえば聞こえはいいけど、要はただのガラスだからね、ガラス」

 いつの間にか、そばに置かれたカウチに腰かけていた倉沢が水を差した。

「きれい」

 本村は澄んだ瞳で人形を見つめた。

 倉沢の小言も虚しく、ガラスは本物の水晶のように透きとおって美しいが、何より、ところどころに施された金属の細工や、人形が身につけている扇や王冠、花束などの緻密な造形が素晴らしかった。

「僕はメイリスの方が好きだよ」

 練乳色のタイトなワンピースと、つば広ハットに着替えたメイリスを胸に抱きながら、伊織は本村を見上げた。

「あ、ありがと」

「このガラスドール、写真撮ってもいい?」大槻が花織に聞いた。

「どうぞ」

「ねえ、つまんない」

 伊織は言った。それから、本村のシャツをつかんで揺さぶった。「僕のお人形見よう。メイリスと遊ばせようよ」

 花織はまた、弱々しく伊織をたしなめた。本村は花織をなだめ、伊織の遊びに付き合うと言った。大槻は写真を撮り続けていた。

 ふと、部屋の扉のガラス細工に人影を見た気がして、池脇は振り向いた。

 豪華なカウチに貧弱な体を横たえた倉沢を横切って戸口へ向かうと、池脇は静かに扉を押した。

 廊下には、誰もいなかった。

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