二
先週の、金曜————。
「花織ちゃあん。まだあ?」
「うーん」
「花織ちゃあん」
「うーん」
「僕もうお腹空いたぁ」
「ちょっと待ってったら」
『ハンバーガー』『サイド』『ドリンク』でシンプルに分類されたメニュー。『トマト抜き』『ソース増し』などの細かなカスタマイズの他、待ち時間、空席の有無の確認等、すべてこの端末から行うことができる。
新たに入店してきた客が、花織の隣の端末の前に立ち、画面の上で指先を軽快に動かし始めた。その次に入店してきた客は、端末を素通りしてカウンターの方へ進み、予約していた商品を手早く受け取った。
AAバーガーの店内は赤と白でシンプルに整えられている。悠長で勝手気ままな時間をうながすミニマルテクノサウンドが、たった三歩をかけたり、回ったり、休息したり、ひらめいたりするように、軽妙で心地よいリズムを刻みながら流れている。
だが、簡素に整えられた店の内装も、音楽も、メニューも、システムも、花織にとっては五感を煽る喧騒のように感じられた。
新鮮だ。観ていたい。目に焼きつけたい。速さを、響きを、彩りを。間違いかもしれない。選べない。分からない。正しさが。
「氷多めがいい」
下方から唐突に、
ふわふわとカールした髪、長い睫毛、小さな鼻。子どもらしい無邪気さの漂う顔立ちだが、きりりとした瞳は、十五の花織より大人びて見える。
「え?」
会計まであと一歩のところで、花織の頭の中に再び、飛び散るように焦りがかけ巡った。
「氷多めがいい」まるで退屈しのぎのように、強い要望でもなさそうに、伊織は繰り返した。
「できるの?」
「できるよ」
伊織は姉を押しのけて前に出ると、花織には存在感の感じられないその板を、慣れた手つきで叩いた。表示されていた『ブルーハワイソーダ』が、『ブルーハワイソーダ(氷増)』へ切り替わった。
「なんで知ってるの?」驚いた顔で、花織は弟を見下ろした。
「だってそう書いてあるでしょ」
飽き飽きとしたようすで、伊織は言った。「もう、早くう。花織ちゃん遅い」
「今、終わるから」
花織はスマホを取り出した。電子決済の手順は、
『えー? 花織ちゃん、AA行ったことないのー?』
『あんなん、食べたいやつ適当に押して適当にピッてすればいーんだよ』
『なんで急に行く気になったの? 花織ちゃん、興味ないでしょ、ああいう————庶民的なとこ』
『伊織のせいでしょ』
『ああ』
『さすがに、伊織一人じゃ行かせられないもんね』
『それでいつものごとく、花織ちゃんが任命されたってわけね』
『花織ちゃんかわいそー』
新鮮に。砕きたい。芯まで焼き尽くしたい。速さも、響きも、彩りも。間違いかもしれない。選べない。分からない? 正しさが。
名残惜しそうに、撫でるように、花織は、細い指先で画面の確認ボタンを押した。
「え、くらさーさん長男なの?」
食べかけのAAバーガーを手に、大槻はあざとげな瞳を見開いて言った。
オニオンリングをちびちびとかじりながら、倉沢は頷いた。
「へー。なんか頼りない長男」
「長男だからしっかりしてなきゃだめみたいな制度やめにしてもらえませんか」
陰気だが淡々とした口調で、倉沢は返した。
「でも、普通は勝手に責任感の強い子に育つもんだよ」
「長男に生まれたってだけでそんな運命背負わされても困る。それに俺、長男っていっても一人っ子だし」
「だったらなおさら心配だよ倉沢家の将来」
「別にいいよどうなろうと。大した家柄じゃあるまいし」
AAバーガーの二階席では、大槻、倉沢、そして本村と池脇の四人が、悠長で勝手気ままな時間を過ごしていた。刺激と平静を塗り込めた赤と白、延々と続く小気味よいミニマルテクノに、耳目はすっかり取り込まれ、もはや抜け出し方も分からない。
テーブルの上にはオニオンリングのバスケットやドリンク、レモン色のワンピースを着た栗色の髪の着せ替え人形と、青みがかった黒髪の女を映し出す、小型のホログラフィックプロジェクターが置かれてあった。
レモン色のワンピースの着せ替え人形は、本村がメイリスと名付けた遊び道具であり、青髪のホログラムは倉沢の生きる糧ともいうべき愛妻、なでしこだった。
「お前、妹いるんだっけ」
池脇は本村にたずねた。
「うん。二つ下」
のんびりとAAバーガーをかじりながら、本村は言った。頂に、咲いた花のような寝癖頭、眠たげだが凛々しい瞳、振るわない逞しい肩、和音のようにこぼれる声音。強く、柔く、当然と。何かを託すには、不確実過ぎる風体を持っていた。
「じゃあ安心だな」
「え、どういう意味」
「妹が、どうにか家のこと守ってくれんだろ」
「なんでよ。僕が本村家守るよお兄ちゃん頑張るよ」
「お前なんかに任せたら先祖代々の墓石蛍光に塗って音楽と照明ガンガンにして夜は墓場で生配信とかしそうだろ」
「しないよ。そんなデジタルタトゥー上等みたいなこと」
呆れたようすで、本村は返した。それから、小さな声でつけたした。「どうせやるならリアルホラーゲーがいい」
「でもさ、実際にBGMとLEDピッカピカでおっしゃれーな霊園とか納骨堂とかあるわけでしょ?」
興味深げに、大槻が言った。「あれ見てたら、これからは、『お盆は家族みんなでリモート墓参り』とか普通になるかもって思うかも」
「いやもうバーチャルでいいでしょ」
やさぐれた風に、倉沢が言った。
「どういうこと?」
本村が聞いた。
「ネット上に仮想墓地があって、アクセスするだけで墓参り完了」
「お墓参りとは」大槻は言った。
「いろんな意味で雲の上だな」池脇は言った。
「お墓をガンガンにいじくる気はないけど、家はどうにかしたいかな」
考えながら、本村は言った。「こう、九十年代の田舎風にしてさ、CDとかレトロゲーム機とか置いて、タイムスリップ民泊とかで寝ながら稼げるシステム構築したい」
「妹が断固反対したら?」
大槻が言った。
「え? 親が両方とも死んだら、本村家って僕の天下になるんじゃないの?」
「甘過ぎ」
オニオンリングの穴から死んだ目で愛しい妻を覗き込みながら、倉沢は言った。「長子相続なんてとっくの昔の制度だし。本村家の財産は、本村と、妹とで、二分の一ずつ」
「二分の一ずつって? どういうこと? 僕の知るかぎりうちに莫大な財産があるとは思えないんだけど。遺されるとしたら今住んでる家くらいだよ? 妹が上の階に住んで、僕が下に住むってこと? うち風呂場一個しかないんだけど」
「あほか。家と土地を売って、その金を折半するってことだろ」
ハンバーガーの包みを丸めてテーブルに放り、池脇は言った。
「それか、片方が土地と建物を全部相続して、二分の一相当の金銭をもう片方に支払う、とか」
倉沢がつけくわえた。
「えー。身内とそんな生々しいやり取りしたくない。ただでさえ嫌われてるのに」
「だってしょうがないじゃん妹にももらう権利あるんだから」大槻が言った。「平等に分けた方が、後腐れなくて済むよ」
「平等にしたって揉めるときゃ揉めるよ」
倉沢は言った。「『法定相続分』っていうのは、あくまでも基準でしかないから。妹が、『体たらくな兄と同額なんて納得できない』って言い出したら、遺産分割協議や裁判が始まって、六割以上妹に持っていかれる場合もある」
「ガリガリシスター」
本村はおののいた。
「だから、今のうちに妹となかよくしておきなさいってことよ」大槻が言った。
「遺言で、『かわいい息子に全財産を譲る』とか書いてあったら?」あきらめ悪く、本村は聞いた。
「無理。『遺留分制度』があるから」
さらりと、倉沢は返した。「妹が請求してきたら、何割かは分けなくちゃならない」
「大揉め」
恐々とした顔で、大槻は言った。
「何それ長男に生まれ損じゃん。あとは生まれつきぼやっとまとわりつく責任感にさいなまれながら生きるしかないじゃん」
「割と自由に生きてるだろ、お前」池脇は言った。
「でも、法律なんて時代とともに変わっていくものだし」
好物のアイスコーヒーを仕方なしといった表情で飲みながら、倉沢は言った。「今は、法定相続人でない人でも、『生前めっちゃお世話しました』っていう理由で金銭請求できるからね。今後、『長子だからめっちゃ責任や面倒背負わされました請求権』とか認められたら、長子が得することになるかも」
「おお。いい。それ。僕、出馬しようかな」
眠たげな目を覚まして、本村は言った。
「お前に日本の未来任せられっか」池脇は言った。
「通信と服飾に予算全振りしそう」大槻も言った。
「お人形に人権を!」高らかに、本村は唱えた。
「ホログラムに選挙権を」倉沢はつぶやいた。
「それはちょっとあり得そうだから怖え」
苦々しい顔で、池脇はジンジャーエールを飲んだ。
「故人のデータを反映したAIホログラムが、いつまでもいつまでも現行の政治に干渉してくんの?」大槻は言った。
「は? 生きてる人間寄りなAIホログラム量産して立ち向かう」やはり陰気だが、攻撃的な口調で倉沢は言った。
「で最終的にホログラムを管理してる会社が儲かるんでしょ?」オニオンリングをつまみ上げ、呑気な口調で本村は言った。
「踊らされる人類」倉沢はつぶやいた。
「ねえなんの話だっけ?」大槻は聞いた。
「だから、来週また暑くなるって話」池脇が答えた。
「ああそれそれ」
震える両手でハンバーガーとドリンクののったトレイを持ちながら、花織は階段を上がった。
「人いっぱいだね」
二階のフロアを見渡しながら、きょとんとした表情で伊織は言った。
「うん」
花織も呆気にとられていた。内装のおかげでごみごみとした雰囲気はないが、用意された座席は、その多くが埋めつくされていた。
奥の方に目当ての席を見つけ、花織は小さな歩幅で恐るおそる進んでいった。伊織は姉の服をつかみ、しっかりとついて歩いた。
何も、間違えてはいないだろうか。自分は、私たちは、どんな風に映っている? これは正しい、きっと正しい————。
赤と白で、シンプルに整えられた店内。通路を阻むものなど何もなかった。
ただ、恐れと緊張があった。
花織の足は、そんな虚像につまずいて、服の布地は、伊織の指の間をすり抜け、前方に躍り出た。
トレイは大きく傾き、鮮やかな青色のソーダが、大量の氷ごと、一輪の寝ぼけた花の上に注がれた。
小気味よい、ミニマルテクノと噛み合うように、客たちは停止した。池脇と大槻も固まっていた。長い前髪の下で、倉沢は吹き出しそうな笑いをこらえていた。
雪白色のシャツが、肩から胸元にかけて、氷菓のように染められた。氷の粒が、すっかり潰れて収まりのよくなった頂から、滑り落ちてきた。
本村は唇を舐めた。
「甘過ぎ」
「もう半泣きな感じだったよね、あの時」
事の発端を思い返しながら、大槻は言った。
「弟の方、けろっとした顔で下におりていって、店員からタオル借りてきたんだよな」池脇も言った。
「そうそう。『ごめんなさぁい』って」大槻は思わず笑いをこぼした。
「あー。あいつ生意気だけど、恐いもの知らずっていうか、意外としっかりしてるからね」彗一は言った。「花織は自分が世話してるつもりでいるけど、実際伊織に振り回されてることの方が多いし。たまにどっちが上だか分かんなくなる」
「クリーニング代もさ、僕は大丈夫ですって言ったんだけど」本村は言った。「どうしてもって言うから連絡先交換して。そしたら、『自分は氷降グループの代表の孫です』『家族共々お詫びがしたいのでぜひ家にいらしてください』ってメッセージが届いてね。盛大な詐欺だなって思って氷降グループの公式に連絡したら、グループの代表って人から、超達筆な字で書かれた手紙をスキャンした画像が送られてきたの。『それはうちの孫です』『詐欺ではないのでぜひ遊びにいらしてください』って」
「グループの代表直々に?」大槻は言った。
「うん。僕、『拝啓、何々様』って手紙、生まれて初めてもらっちゃったよ」
「あはは。うちのばーちゃん、それ」
彗一はケタケタと笑った。「御年八十四歳。デジタルもアナログも使いこなすすげー人」
「僕、氷降グループのこといろいろ調べたんですけど、冷凍食品の『ウィリアムズ』って氷降グループの会社だったんですね」大槻が言った。
「うん。伯母さんが社長やってる」
「てっきり外資系の会社かと」
「なんでも英語にすればおしゃれだと思ってるんだよ。ほら、あれも」
彗一は、波の上に小鳥が羽ばたくイラストが描かれた看板を指差した。「『クリッシー・フラペティー』。俺の父さんが任されてる」
「あ、この前行きました」本村が言った。
「ビジュアルがかわいいから、みんなSNSに上げてますよね」大槻も言った。
「うちの先祖って、元々かき氷屋さんだったらしいんだよ。明治の初めに、製氷会社を立ち上げて成功して、昭和の後期には電子レンジが家庭に普及した流れで、ウィリアムズの商品がヤバい売れまくったって。で、かき氷屋の元祖が展開するフローズンドリンクチェーンってことで、今はクリッシーが軌道に乗ってるって聞いた」
「ああ、だからお店のロゴが、かき氷屋さんののぼりを西洋っぽくした感じなんですね」納得して、大槻は言った。
「そういうこと」
「自分ちの会社の話なのに、なんか彗一さん、他人事みたいな感じですね」運転席の後ろから、ぼんやりと観察でもするように、本村は言った。
「だって俺、経営のこととかよく知らないし」至って呑気に、彗一は続けた。「あ、たまに新作ドリンクの試食はさせてもらうけど」
「なんか自由ですね」本村につられるように、大槻もぼんやりと言った。
「よく言われる」
しばらくすると、外の景色が閑散としはじめた。背の高いビルやマンションは消え、こぢんまりとした民家や商店が、点々と置かれるだけになった。
さらに行くと、車は林に挟まれた一本道に入った。きちんと整備された道だが、すれ違う車は一台も見えなかった。
ようやくひらけた土地に差しかかったとき、彗一は車を止めた。彗一にうながされ、本村たちも車を降りた。途端に、機械風ではない、自然の涼しさと匂いが感じられた。
彗一は道路脇の林の方へ歩いていった。そこには、木々に埋もれるようにして、六角形が刻まれた小さな石造りの祠があった。
「道祖神ですか?」
かがんで見るようにして、大槻が聞いた。
「いや、天神様……だっけ? 詳しくは知らないけど————」
手を合わせながら、彗一は顔をしかめた。「昔からあるってことは、何か御利益あるんでしょ、きっと。ばかばかしいと思うかもしれないけど、ここ通るときは手ぇ合わせる習慣なんだよ。ごめんね付き合わせて」
「全然、ばかばかしいとかは」彗一に倣いながら、本村は言った。
「郷に入ってはです」当然のように言い、大槻も手を合わせた。
池脇も合掌した。心底ばかばかしいと思いながら、倉沢は手を合わせるポーズを取った。
清らかな空気と、沈黙が流れていた。
「お参りってこういうことだよな」
なぜかほっとした気持ちになり、思わず池脇は発した。
「え?」彗一は振り向いた。
「いや、なんでもないす」
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