氷降家の一族
@pkls
一
まだ五月だというのに、夏は本腰を入れはじめていた。ここ数日、
「はあ? なんでエアコンついてねんだよなんで運転手いねーんだよ」
誰からともなく、生徒たちはすがるように停止しているバスの窓を開けだした。心地よい風は望めなかった。生徒たちは熱された座席に沈んでネクタイを緩め、ワイシャツの胸でささやかな風を起こした。
「いってら」
窓の外から、一人の男子生徒がいかにも軽い調子で呼びかけた。
「がんばれや」
その連れ合いも、熱のない、呑気な調子で言った。
「向こう着く前に融解するわ、これ」
後方の座席にいた生徒が、溶けかけたように窓から顔を出した。「俺もういないかもしんね。月曜にはスライム人間になってるかもしんね」
「ちょっと気持ちよさそう」
外の生徒は冗談めかして返した。車中の生徒は暑さのあまり、おふざけの会話を続けることさえ断念してしまうと、前方の席に座っている生徒に向けて鈍重気味に叫んだ。「おい、誰か、早くエアコン入れてくれって頼んでこいよ」
「だああああ待っとけ」
額に冷却シートを貼った生徒が、ボロボロのうちわで顔をあおぎながら、ヤケクソな動きでバスを降りていった。気楽な激励をした二人の生徒は、いささか申し訳ない気持ちと、憐れみの思いにおそわれた。「いや、ほんと、頑張ってきてください」
二人は校門に向かって歩き始めた。
「大変だよな、こんなときに遠征って」
「月曜は涼しかったのにな」
「俺の友だちの高校さ、制服移行期が六月だとかで、昨日今日とブレザー着て登校してるんだって」
「は? この暑さの中?」
「さすがに学校の外にいるときは脱いでたらしいんだけど、そしたらバレて指導入ったって」
「なんだその化石校」
「カンブリアハイスコー」
「爆発しそう」
校門を出ると、一人の生徒が校舎に背を向け立っていた。
「あれ、
呼び声に、
白のワイシャツに鉄色のネクタイ、深緑のチェックのスラックス、背に負った指定のスクールバッグと、足元に置かれた、大ぶりのボストンバッグ。装いは、バスの中でくらみ苦しむ生徒たちと同じだが、その身柄は華奢で、頰にかかる前髪は野暮ったく、逞しさのかけらも見受けられなかった。唯一、履いているブルーブラックのスニーカーだけが、クレバーだが挑発的な、ギラギラとした主張を放っていた。ギター・ギャン、
「誰か待ってんの?」
「うん」
「倉沢も遠征?」
「うん」
「へー。倉沢が運動部だったなんて意外」
「うん」
「バス、あっちだけど?」
「…………嘘」
ぽそりと、倉沢は言った。
「え?」
「嘘。運動部じゃない」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「じゃ、じゃあな……」
「じゃあ」
二人の生徒は校門を後にした。
倉沢は顔を向けずに、その後ろ姿を、前髪の隙間から目で追った。二人は何やらひそひそとささやき合い、そして、唐突に脚をもつれさせながら笑いだした。
倉沢は天を見上げ、また、ぽそりとつぶやいた。
「ヒエラルキー……」
その時、大きな黒のラングフォードが、倉沢の前で停車した。
倉沢は唾を呑んだ。スラックスのポケットにしまった、四角い、小さなプロジェクターの縁を指でさすった。
運転席から男が降りてきた。重厚で高級感あるラングフォードに似つかわしくない、くたびれたシャツに破けたジーンズという格好をした、若い男だった。中分けの前髪が長く垂れているが、塞いだ倉沢とちがい、こなれた雰囲気を見せている。
「どうも、君が倉沢君?」
軽い口調で、男はたずねた。
「はあ」
少々警戒しながら、倉沢は答えた。
「俺、
男は清々しく微笑んだ。「この度は、うちの花織がとんだ粗相をしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
彗一は腰を折って深々と頭を下げた。倉沢は身じろいだ。
「いや、あの、粗相されたの、俺じゃないんで」
「え、そうなの?」
彗一は前かがみのまま、けろりとした面を向け仰いだ。それからすっくと体を起こした。「まあ、ついでってことで」
彗一はラングフォードの後部座席のドアを開けた。
「どうぞ」
かしこまった風もなく、訳ないように、彗一はにっこりと微笑んだ。煩さのない、からりとした陽気が、彗一にはあった。
無理。
倉沢は思った。
「それにしてもあっついねー」
運転席に戻ると、シートベルトを締めながら彗一は言った。車の中には、適度な冷房が効いていた。
「すね」
「俺、暑いの嫌いじゃないけど」
「はあ」
「ていうか郷葉の子だったんだ? 郷葉って頭いいんでしょ? 勉強大変じゃない?」
「まあ」
「規格がちがうんだろうなー。俺、勉強は小二でやめたから」
「すか」
倉沢は神経を使いながらも、あえて簡素な相槌を選び続けた。
馴れ合うつもりはない。どこで攻撃を受けるか分からない。だのに、かけられた言葉に聴き入り、反射的に思推しようとしてしまう、自身の過敏な脳みそには、常々苛立ちを覚えていた。
スモークガラスの向こうに、先に見送った男子生徒たちの姿が見えた。
「止めてもらえますか?」
とっさに、倉沢は言った。
「え?」
不思議がりながら、彗一は車を止めた。
倉沢は窓を開けた。突如黒塗りのラングフォードに横付けされ、二人の男子生徒は不審がったようすで身構えていた。
「じゃ」
それだけ言うと、倉沢は返事も待たずに窓を閉めた。車は緩やかに発進した。
馴れ合うつもりはない。どこで攻撃を受けるか分からない。
だのに、高い位置を見つければ、瞬発的に披露しようとしてしまう、自身の軽率な口には、羞恥すら抱いていた。
しばらくして、黒のラングフォードは
何にも抑圧されていない、色彩自由、多種多様な出で立ちをした生徒たちが、ファッションビルのような洒落た外観をした校舎から、ぞくぞくと流れ出てくる。
彗一は車を降りていった。一階のカフェから、一人の男が軽い足取りでやって来て、彗一と二言三言話すと、早足で車に乗り込んできた。
「うぉい、くらさーさん、ごきげんよう」
彗一を楽々と飛び越える煩い陽気で、その男、
ごがつばえ。
そう思ったと同時に、助かった、と、倉沢は己が機能を停止した。
「あっついねー。もう無理。最悪。蒸発しちゃう。で雨になってまた生まれる。お母さん」
ぱたぱたとTシャツの首で顔をあおぎながら、大槻は車が発進するよりも先に快速で口を動かし始めた。
無地のスモーキーピンクのTシャツに、ストレートのライトブルーデニム、腕には白のスマートウォッチ。どれもシンプルな選択だが、足元にはアソートメントピンクのスニーカーが、愛らしく、あざとげに光っていた。ギター・ギャン、90sバブルガムボーイシリーズ、ダイアモンド×ベリーベリー。
「まさか学校まで迎えに来てくれると思ってませんでした」
彗一が車に戻ると、大槻はいとも親しげに話し始めた。倉沢は冷気に浸っていた。
「たまには外に出ないとね」
車を発進させながら、彗一は言った。
「インドアなんですか?」
「うん。だいぶ」
「すごいアクティブな人に見えますけど」
「アクティブはアクティブだけど。やることっていったら家でDIYしたりバイクいじったりだし。バイク乗るにしても走るだけ走ってどこも寄らずに戻ってくるだけだから、こういう————」
彗一は道路沿いに並ぶ、商業施設や飲食店にちらりと目をやった。「ソーシャルな場所とは、縁がないんだよね」
「ああ、アクティブインドア」
「そういうこと」
次に、ラングフォードは
校門の前には二人の生徒が立っていた。彗一はまた、車を降りていった。
「あちぃんだよこら」
車に乗り込むなり、
無造作な短髪に、白のワイシャツ、無地のグレーのスラックス。うだうだと苛ついたその機嫌とは裏腹に、ライムグリーンのスニーカーは、爽やかに、刹那のように光っていた。ギター・ギャン、90sバブルガムボーイシリーズ、ディスコティック×シトラス。
「気温の上昇は太陽のせいだけじゃないよ」
薄い体を背もたれに張りつけ、あごをつんと上げながら、だらしなく高慢な態度で倉沢は言った。「温室効果ガスはもちろん、ヒートアイランド現象、フェーン現象、様々な要因が重なることによって————」
「うるせ黙れルーフ張りつけんぞ」
ゆったりとした座席のスペースを大幅に陣取って、池脇は車に乗り込んだ。
「あ。涼しい」
外で彗一と話を終え、ようやく乗り込んできた男、
池脇と同じ、白のワイシャツに無地のグレーのスラックス。暑さを際立たせるような、生ぬるい広がりの寝癖頭と、古びた手提げの学生鞄。散らかった装いにさらに追い討ちをかけるように、ゴールドとパープルのスニーカーが、妖しげに、虎視眈々と光っている。ギター・ギャン、90sバブルガムボーイシリーズ、シャンパン×ブルーベリー。
「
運転席に戻り車を発進させると、彗一は話し出した。
「そうですね。全員初めてです」
温帯に落ち着くように、やわらかな口調で本村は答えた。
「うち、
大槻が言った。
「そうそう。なんにもないけど、いいとこだよ。静かだし、水も空気もきれいだし」
しみじみと、彗一は語った。「小さな村って、閉鎖的だとか排他的だとか思うかもしれないけど、住んでる人はみんな親切だし、気ままだし。伯父さんたちも張り切って準備してるしさ、君たちも、週末くらいは刺激の強い遊びは抜きにして、田舎暮らしを満喫したら?」
「そのつもりで来ました」
晴れやかに、大槻は言った。
「丁度いいんでネット断ちしたいっす」
意気揚々とした気持ちとはチグハグな険しい表情で、池脇は言った。
「虫は出ますか?」
倉沢は言った。
「花織ちゃんは、よく岩月に遊びに来るんですか?」
本村はたずねた。
「いいや、あいつ世話焼きだから。学校から帰ったら、ずーっと家で弟の面倒見てる。あ、知ってるよね?
「はい。あの時、一緒にいた子」
「エンジェルヘアの」大槻も言った。
「そう、その子。だからあの日もさ————」
弱ったような顔をして、彗一は言った。
「慣れない場所に行って、相当緊張してたんだと思うんだ」
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