第三章

第5話 逃亡

 後輩は何かがおかしい気がすると、青年はずっと思っていた。

 その感覚は、根拠のあるものではなく、いわゆる第六感で感じたものだと思う。意識してからは、後輩の、すれ違った誰もが振り向くような美貌や、この閉鎖的な田舎町に突然来たにも関わらず受け入れられる様子も、何もかも怪しく見えていた。

 と言っても、青年は根拠のないものはあまり信じたくない性質だったので、頭の片隅では疑念を抱きながらも、ごくありふれた仲の良い先輩後輩の立場で接していた。

 何が良かったのか、孤立気味の青年に後輩はよく懐いていた。最後まで儀式に行くな、と本気で止めてくれたのも、彼だった。

 彼と会った最後の日、青年の目の前で彼が人目も憚らず怒り、泣いたのを見たとき、青年は動揺した。自分の境遇に怒り泣いてくれる人間は、今まで青年の周りには一人もいなかったからだ。

 それに気がついてしまってから、ザワザワと、心が、決意が、揺るぐ音が止まない。

 村人たちの言うことと、後輩の言うことと、自分はどちらを選ぶべきなのだろうか。自分は何をすれば、誰の人生も邪魔せずにいられるだろうか。後輩は、自分が村から逃げた先に見た未来に、何を見たのだろうか。

 そんな青年の迷いとは関係なく、時間は無情にも過ぎていった。

 儀式の準備をするために広い場所が必要だからと、地域間の人の往来がなくなって以来、廃業状態になっている旅館へ呼び出された。最低限の荷物を持って着いた時には、村人たちの準備はすっかり済んでいるのが感じられ、それが青年を更に焦らせた。

 旅館に入ってからの記憶は、あまりない。

 上の空のまま、それこそ人形のように、青年は全ての指示に従った。あまりの素直さに、周囲はかえって不気味がるほどだったのだが、青年はそれに気が付かないほどに、自分の揺らぐ決心をなだめるのに必死だった。

 儀式は概ね順調だったが、ただ一つ、生贄が食べなければならないとされている食事だけは、どうしても喉を通らなかった。

 食事を飲み込んでみてはトイレへ駆け込む、ということを繰り返す。それなりに体力がある青年も、三日目の夜になると流石に限界が近くなっていた。

 頭が重く感じ、便器に顔を伏せて目を瞑る。視界を塞いだことで、耳から聞こえる情報に自然と意識が向かった。

 個室のドアを閉める余裕もなくトイレに駆け込んだので、ドアは開け放したままだ。その外、おそらく少し離れた場所で青年の背中を見ながら、村人たちが3人ほど固まって話をしていた。

「全部食べさせるのは諦めたほうがいいな」「せめて一口くらいは……」「何度挑戦したって、これの繰り返しだろ。それとも、こんなげろ臭いまま連れて行くのか?」「全く……最後の最後まで、役に立たないな」

 会話を聞き流しながら、昔から俺の評価なんてそんなもんだよな、と思う。

 こういうとき、昔見た映画では、誰かしらが、苦しむ人の背中を擦って看病していたのを思い出す。そういえば、数日前、後輩が泣き崩れたときも、自分は同じことをしたっけ。今ここで、誰かに背中を擦ってほしかったわけではないが、そんな思考が頭をもたげる。

 ――きっと、あの子がここにいたなら、自分を心配して、寄り添ってくれたのだろう。

 顔を伏せたまま、誰にもバレないように、笑った。今更、あの子に甘えたいと思ったって、虫が良すぎる話だ。彼の手を振り払ったのは、他の誰でもない、自分自身なのに。こんな場所で後悔して泣いたところで、もう手遅れなのに。

 くらくらする頭を持ち上げて、上の方を仰ぎ見ると、このトイレに窓があることに初めて気がついた。

 窓は、全開の状態になっている。青年が食事の度にトイレに駆け込むのを見越して、誰かが予め換気のために開けていたのだろう。

 外は、夕暮れと夜の隙間のような薄暗さで、ちらほらと星も見えている。山から吹き下ろしてくる、夏の終わりを匂わせるひんやりした風が、青年の頬を撫でた。

 ぼんやりと外の星空を眺めながら、ある発見が青年の脳裏を掠めた。

 ――あ、このサイズの窓なら、通り抜けられる。

 その時青年は、背筋が凍る心地がした。

 今の状況どころか、人生にさえ選択肢を持つことを諦めていた――いや、臆病になっていた青年の前に、また一つ、期限付きで、誰にも委ねられない、場合によっては人生の最後になり得る最悪の選択肢が現れてしまった。

 気がついてしまった以上、これを無かったことにはできないと、青年は瞬時に悟った。無かったことにしてやり過ごせば「逃げないという選択をした」ことを意味する。それは永遠に――この先死んで、自分自身の存在というものさえ無くなった後にも、何処かにつきまとい続けるのではないか――という、恐怖感のようなものを感じてしまった。

 高校受験を控えていたときや、進路希望の用紙を出したときにも、こんなに焦ったことはない。

 人生をよく小説に例える事があるが――自分のそのタイトルが、ここで最終決定してしまうような気がした。

 青年は身体をよじり、後ろを振り返る。

 村人たちは、相変わらず青年の処遇について揉めているらしい。その中の一人が青年の視線に気がつき「どうした」と訊く。

 何を意識したわけでもなく、咄嗟に、口から言葉が滑り落ちた。

「すみません。お腹痛いので、少し閉めます」

 青年の衰弱した様子と、今まで素直に従ってきた態度を見てきての判断だろう、村人たちは目だけで承諾の意を告げてきた。

 個室のドアを閉めると、完全な密室となる。

 鍵を静かに回し閉め、便器の吐瀉物を洗い流した。

 逃げるなら今しかないと、直感が囁いた。

 直感で動くことを何より恐れていたのに、何故だろうか、青年の決意は固まっていた。ここで逃げることは、村人たちや、存在するかもしれない神様や、何もかもを裏切る行為だということを、十分理解した上で。

 青年を動かす理由は、一つだけだった。

 信じるなら、あの子がいい。あの子が自分に期待したものを、確かめてみたい。

 すでに青年の頭の中では、この後の行動のシミュレーションを始めていた。

 青年の持つ全財産は、儀式を執り行なっている部屋にある。家に帰っても、小銭もないし、スマホもそもそも持っていない。寄り道せず、歩いて行ける隣町へ逃げて、警察に駆け込むのが無難だろう。生贄の話を信じてくれるかは定かではないが、第三者がいれば、状況は何かしら変わるはずだ。隣町へは国道を行くのが最短距離で安全ではあるが、車で追いつかれるかもしれない。今は電車がほとんど通らない、廃線同然の線路沿いを歩こう。

 後輩へ連絡する手段は……あまり良い案はない。かろうじて、後輩の居候先の固定電話の番号は覚えているが、本人以外が出る可能性の方が高い。学校に忍び込めるなら、彼の下駄箱に置き手紙を残せるだろうが、村の中を無駄に彷徨うのは、やはりリスクがある。

 結局、後輩に関しては、わざわざ連絡を取る必要はないと青年は結論付けた。

 何もしなくたって青年が逃げたことは噂で伝わるだろうし、黙って出て行っても、彼は許してくれそうな気がした。

 窓枠に掴まり、外の世界を見て、初めて今日が満月だということに気がつく。

 流水音を聞きながら、音を立てないように細心の注意を払い、青年は窓枠へ足を掛けた。

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雲を恋う 梶原 @shun-ka

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