第3話 先輩の家
わからないと言いながら、本当は、わからないフリをしていたのかもしれない。
先輩はこの村では嫌われ者だということ、先輩自身もそれに気がついていること。先輩はとっくの昔に、自分自身を含めて、全てを見限っていること。
廊下で先輩の返事を聞いた後、僕はその場に崩れ落ち、逆に先輩が冷静になってしまうほど大泣きした。先輩はそんな僕を見て苦笑しながら、背中をさすってくれた。
教室に戻れる状態じゃない僕を見かねた先輩は「一緒に帰るか」と僕を誘い、僕はそれに従った。学校を出てから、僕らは一言も喋らなかった。
「あげる」
テレビも冷房もない、時代に取り残されたような古いアパートの一室に着くと、先輩は、冷蔵庫からペットボトルのジュースを取り出し、僕に手渡した。そのまま、建付けの悪そうなガラス窓を開け、部屋の熱気を追い出し、途中の商店でもらった(店主のおばちゃんがタダで持ってっていいよと言ってくれた)ゴミ袋へ、衣服を躊躇なく放り込んでいく……絶対に手伝うものかと思い、僕はその場で部屋を見渡した。
ふと目に留まったのは、箪笥の上に伏せられた写真立てだった。わざわざ確認しなくても、何の写真が入っているのかは、想像がついた。
「俺が14歳の時に失踪した母は、誰からも好かれていたよ」
僕が写真立ての存在に気がついたことを察したのか、先輩がおもむろに話し出した。
「元々は余所の地方に住んでいて、俺がお腹の中にいるときに父親から逃げてきたらしい。大変な境遇だったと思うけど、母は素敵な人だったし、この村の人はみんな優しかったから、母を助けてくれた」
衣服の処分を終えた先輩は、僕に背中を向けて本棚から本を抜いていく。
「俺が物心ついた時には、もうすでに、ヒステリーっぽくなっていたけど。母をそうしたのは、父親のせいじゃなくて、生まれた俺が普通じゃなかったから」
先輩は僕の相槌を待つわけでもなく、淡々と話した。
「俺は、他の子どもと同じものをどうしても食べられなかった。何を食べても、飲み込んでは戻した。原因は俺ですらよく分からない。子育てする母は、さぞかし辛かっただろうと思う。村の人は母に同情して応援してくれた。それでも真面目な母は、自分を責めたんだと思う。母が失踪したとき、俺は母の事を酷い人だとは思わなかったよ。当然のことだなって納得した。村の人もみんな、母がいなくなって、悲しんでいた」
先輩の片付けの手は少しも止まらないし、動揺も見られない。先輩の悲しいはずの話の内容と、迷いのない口調は、あまりにもちぐはぐだった。先輩の懺悔にも似た独り言は、今この場で先輩の口から出ているのではなく、他人が朗読して録音した音声を流しているのかと思うほど、躊躇いも感情も感じられなかった。
「喧嘩をするときも、手加減ができなかった。小学生の時、クラスメイトが上級生からいじめられて、腕を骨折したことがある。上級生には反省の色が見えなくて、クラスメイトの方はギブスで腕を固めて首から吊ってる状態だっていうのに、俺の前で、また同じことをしようとしていた。助けてって言われたから、懲らしめるなら上級生も腕を一本折るのが道理だと思って、折った。でもそれは違ったらしい。子どもの喧嘩ってことで大事にはならなかったけど、母にはたくさん頭を下げさせてしまった。後から聞いた話では、その上級生、少年野球のチームで期待のピッチャーだったらしい。彼は野球はできなくなった」
他にもたくさん恨まれるようなことしてきたよ。悪気があるわけじゃなかったけどね。ぽつりぽつりと言葉を落としながら、先輩は、床に積み上げた本の束を紐で括り始めた。
「俺が正しいと思う行動も、悪気なくする行動も、ことごとく正しくなかったらしい。だからできるだけ全部、俺以外のものの判断に身を委ねようと思った。まるでロボットだと揶揄されることもあったが、それで迷惑をかけずに済むなら良いんだ。今回も『俺が生贄になるのが最善』という判断に、身を委ねる」
僕の「逃げる」という判断には同意してくれないんですね――と、言いかけて、止めた。もうこの件には、決着がついているのは十分わかっている。僕にはもう、先輩を引き留めるだけの力はない。
先輩はまた違うところを片づけ始めた。視界がぼやけて、よく見えない。
「ユウスケ、もうそろそろ、いいんじゃないか。せっかくの男前が台無しだぞ」
先輩は、また僕が泣いていることに気が付いたらしい。少し困惑したような声色が、僕の顔を覗き込んでいた。
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