グッバイ・ウチュウ

紫鳥コウ

Ⅰ グッバイ

 1


 海の上の月と、それを輪郭づける宇宙を見つめながら、姉ちゃんは、「ねえ、吹雪」と、ぼくの名前を呼んで、「いいね、宇宙って」と言った。その声の調子から、泣いているのだと分かった。

 

 水着の柄は夜のとばりに隠されている。お腹のでかい傷跡と一緒に。


 この砂浜には、ぼくたちのほかに誰もいない。昼の喧噪は海の底へでも消えてしまった。とこしえの静寂が、ぼくたちが生みだす、どんなに小さな音にさえ、意味を与えてくれている。


「こうして、地球から見上げるから、宇宙って、綺麗に見えるのかな。こころをゆすぶってくれるのかな」


 ぼくは、足首まで海水にひたしてたたずむ姉ちゃんの背中に、「そうかもね」と、あいまいな返しをした。


「うん、きっとそうね」


 姉ちゃんは、くるりとぼくの方に向きなおって、「決めた」と、つぶやいた。

「わたしね、死んだら、みんなと一緒のお墓に入ろうと思う」


 それは、不思議な言葉だった。


 しかしそれよりも、〈死〉という言葉を、こんな夜の海で聞くのは、縁起が悪いように思えた。だから、「死んだあとの話とかしないでよ」と、少し強い調子で言い返した。


 すると姉ちゃんは、「ごめんね」と、さみしさをにじませた声で謝った。ぼくは、そこまでキツい声をだしていたのだろうか。月のたもとでは、声量の調節がうまくいかない。


 姉ちゃん。いま、どんな顔をしているんだろう。冷ややかな月光を背にしているせいで、ぜんぜん見えない。


「波の音、聞こえないね」



 2


 ぼくたち家族は、泣くことを止められなかった。誰が一番泣き続けられるかを競っているかのように。


 雪国。一年は積雪から始まり、雪解けとともに終わる。他の季節はすべて、本題に入るまでのエピローグにすぎない。


 姉ちゃんは、そんなエピローグに死んでしまった。それは、二重の比喩だった。人生の大きな始まりの前に死んでしまった。来年は新社会人になり、夢だった教師の道を進んでいくはずだった。


 仏間に寝かされた姉ちゃんの遺体は、明日には火葬されて骨だけになり、四十九日経てば、先祖とともに墓の下に埋められる。


 ぼくは最後に、姉ちゃんのお腹にできた大きな傷を見たいと思った。



 3


 あれは、ぼくが十二歳のとき、だから、姉ちゃんは高校受験を間近にひかえていたときのこと。


 あの日、ぼくは父さんと喧嘩をしていた。夏休みだというのに、どこにも連れて行ってもらえないことに、腹を立てていたのだ。毎日のようにダダをこねていた。


 姉ちゃんが、県で一番、偏差値が高い学校を目指す大事な年だったから、それは当然のことなのに、当時のぼくには納得することができなかった。


「わたしはいいから、吹雪をどこかに連れて行ってあげてよ」


 そう姉ちゃんが言うものだから、ぼくもそれに便乗して、なお一層ダダをこねて、こねて、こねまくった。


 その態度が、ついに父さんの堪忍袋の緒が引きちぎってしまい、首から上が飛んでしまったのではないかと思うほどのビンタを受けてしまった。


 それにあきたらず、父さんはぼくにつかみかかろうとしてきた。母さんも、ばあちゃんもいなかったから、父さんを止められるのは、その場にいた姉ちゃんだけだった。


「お父さん! やめてよ!」

「うるさい! 死ぬ寸前まで殴ってやらないと気がすまない!」


 そのとき、父さんはお酒を飲んで酔っていた。だから、なにをしでかすか分からなかった。姉ちゃんは、父さんに抱きつく形で、泣きわめくぼくに迫ってくるのを止めてくれていた。


 ぼくは、ほとんどパニックになっていた。いろいろな感情が、こころのなかで渦巻いていた。その中でも、〈悔しい〉と〈恥ずかしい〉という気持ちが、せめぎあいながら、ときには共犯しながら、ぼくの心身を操りはじめていた。


 ぼくは、食卓の上から、まだ少しお酒が入った瓶の、飲み口の方を手に取って、まったく後先を考えることなく、父さんに向けてそれを思いっきり投げつけた。


 するとその瓶は、姉ちゃんの腹にあたって砕け散った。うずくまる姉ちゃんを見たときに押し寄せてきた感情は、たったひとつだった。


 夢であってくれれば。



 4


 ぼくは、止まらない涙で顔をぐちょぐちょにしながら、仏間の方へと身体を運んでいった。立つことができなかったから、ほとんど這うようにして、姉ちゃんの遺体に近づいていった。


「吹雪くん、へんなことしたらあかんで」


 おじさんは、そう注意して、ぼくの右腕をつかんで、行かせまいとした。ぼくは、その手を振り払おうとしたが、もう身体に力が入るほどの気力は、残っていなかった。ぼくはその場で萎れてしまった。



 5


 かんたんに、いままで通りの日常が戻るはずはない。というより、姉ちゃんがいなくなったからには、「いままで通り」ということはありえない。


 残されたぼくたち家族は、新しい、自分たちが落ちついていられる日常を探さなければならない。


 でもそれは、洞窟を迷っていたら、たまたま光ある地上にたどりついたというように、なりゆきにまかせなければならない。



 6


 しゃがみこんでしまいたいという気持ちがあっても、学校を休むわけにはいかない。


 しかしすることといえば、黒板にぎっしりと文字が書かれては、左側が消されてスペースが作られ、そこがいっぱいになれば、次に右側が拭かれていくという光景を、ぼんやりと見ているだけだった。


 ぼくがノートをとらなくても先生は怒らないし、問題に答えるように言ってこない。だけどこうした配慮は、ぼくが落ちついた日常を取り戻すより先に、有効期限が切れてしまうに違いない。



 7


「吹雪、大丈夫?」


 休み時間になり、両腕に顔をうずめて伏せていると、左肩がぽんと叩かれて、ほがらかな春に弓矢がシュッと走るような声が聞こえてきた。


「次、音楽室だよ」


 ぼくがなにも答えずにいると、真琴はため息をついて、「じゃあ、保健室に行く?」ときいてきた。ぼくはそれに対しても、なんの反応もしなかった。


 すると真琴は、ぼくの前の席の椅子をひいた。


「雫さんが死んじゃったって聞いたとき、一番最初に思ったのは、吹雪は大丈夫かなってこと。そしたら案の定、こんな感じになっちゃってさ」


 数学の授業が終わってから、何分が経ったのだろう。もうこの教室からは、真琴の存在しか感じられなくなっていた。


「いつまで、こうしてるの?」

 ぼくは、「いつまでだって」と答えた。

「天国にいる雫さん、こんな吹雪を見てどう思うかな?」


 真琴のその言葉に、ぼくはドキッとした。とても大事なことを思いだしたのだ。なぜいままで、気にもとめなかったのだろうか。


 姉ちゃんの遺骨のことを。


「吹雪?」


 突然、顔をあげたぼくに、真琴は少し驚いたようだった。ぼくの脳裏に、あの日の姉ちゃんの言葉がよみがえった。


〈わたしね、死んだら、みんなと一緒のお墓に入ろうと思う〉


 じゃあ、元々は、違うところに骨をうずめるつもりだったのか?


 あのときは、この言葉を深く考えていなかったけれど、いまは、不穏と不安が入り交じり、あの夜の海で姉ちゃんが発した一音一音が、耳の奥底で解体されていくのを感じていた。

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