第16話 清和天皇誕生
道康は、自分の妃の妊娠だけに良房に気を弛めてしまった。
この油断が、道康の命取りとなった。
嘉祥三年、明子は無事に出産した。良房の思いどおり元気な男の子であった。
惟仁親王、後の清和天皇である。良房の喜びはひとしおであった。
彼は、ついに権力の頂点に昇る算段がついたのだ。後は予定通り事を進めるのを待つだけとなった。道康も、ただ手をこまねいていただけではなかった。
左大臣源常や大納言源信など大臣ら高官に、庶民への善政の政策を提案するなど働きかけを続けていた。
古来より天皇は庶民の暮らしを重視し、何度も徳政を行い人々の生活を守ってきた。奈良の大仏や薬師寺を建立したのも国家安泰、国民の安息を願って建てられものだった。
曾祖父の桓武天皇は、死の直前にも藤原内麻呂に命じて藤原緒嗣と東宮学士菅野真道を面前に呼んで「天下徳政」を議論させ、緒嗣が「百姓の苦しむところは軍事と造作なり」と述べたことを激賞したという。
しかし今、の大臣ら政府高官はそんなことより自分たちの身分を守り、一族の繁栄させることだけを考えていた。嵯峨天皇が、子供達を源姓に臣籍降下させたのは天皇家を守ることを期待したからだが、彼らは天皇家意向よりも無難に事を済ます事なかれ主義となっていた。
道康の庶民に寄り添う政治は、源姓大臣にとって逆に煩わしい危険な思想と写った。源姓氏族にとって荘園は、当時貴重な副収入であった。
この政策によって国家の収入が減るのは一向にかまわないが、荘園からの収入が減るのを怖れた。良房は彼らに身分の低い小野小町が道康をそそのかし、よからぬ事を企ている怪しい女であるといいふらしていた。
小野小町は、惟喬親王の乳母である。惟喬親王も疑われる事態になった。
道康は、良房にはめられた事に初めて気づいた。
良房の狙いは、外孫の惟仁親王の皇太子立子であった。娘の明子が生んだ惟仁親王を天皇とし、外祖父として権力を握る野望に燃えていた。
道康は、はしごを降ろされ孤立無援となった。
惟仁親王が産まれた同じく嘉祥三年、体調不良であった仁明天皇が崩御した。劇薬服用の趣味がたたり四十一歳の若さだった。
道康皇太子は、即位して文徳天皇となった。文徳天皇は最愛の息子で第一皇子の惟喬親王を皇太子に立てようとさたが、結局は良房の娘が産んだ惟仁親王を立てざるをえなかった。
良房の策謀が、勝ったのである。
なにしろ少年であった惟喬に比べ、惟仁は生後八ヶ月の赤子にしかすぎなかった。
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