fly me to the puddle

千羽はる

fly me to the puddle

玄関の扉を閉める。


鍵にまとわりつく金属の匂いが鼻を衝くのは、梅雨の季節独特の嫌な部分だ。


手についた臭いをジャケットで拭い、私は自分の体より不釣り合いに大きい蒼い傘を開く。


―――その音は、まるで破裂。


強いバネが、「雨を弾き飛ばす」わけでもないだろうに、と顔をしかめて、頭上へブンと振り上げる。


頭上に傘を移動させると、空よりも濃い青が伸し掛かってくるようで。


昔の傘は、きっともっと静かなのだろう。


しなやかな竹の骨、温もりを感じる紙が水を跳ねさせるなんて、一体どうやって思いついたのか――。


こういう時、いつも思うのだが、昔の人々が持つ知恵はもはや私達現代人を飛び越えている。


時間の流れ、喋り方、歩き方、ものの見方。


余談だが、昔の日本人と現代の日本人が扱う口語は完全に違うそうだ。


もし仮にタイムスリップが可能だったとして、私が古代の人々に出会ったとしても言葉を共有することは、決してできない。


国が異なれば、言葉が違うのは当然のこと。


しかし、同じ国であっても、時代で絶望的な隔たりがあると考えると、不思議と愉快で、頬が緩む。


きっと、現代人がタイムスリップしたら、あらゆるものが違って驚き怯み、壁の間に隠れるに違いない。


昔は好奇心の暴走で「タイムスリップしてみたい」と願ったこともあったが、そういう事情を知った今は遠慮しておこう。


そんなことを考えながら大股で歩いていたら、ブーツが水たまりに思いきり突っ込んだ。


いや、考えながらもちゃんと道を歩いていたから、わざと足を入れてしまった。悪い癖。


子供の頃から、水たまりに足を入れるのが好き。


靴は濡れるし、そのなかは大変なことになるしで、良いことは一つもないというのに、どうしても足を入れてしまう。なぜ。


微かに首をかしげて、あぁ、と思い出す。


この間の大雨で、道が冠水してしまった時、自分の中で「理性」というか「常識」というか、そういうものがぷつんと切れてしまったんだった。


社会人になって出社するようになり、そんな些細な癖なんて、もちろん忘れていた。


けれど、冠水している道を普通の靴で歩いている内、ざぶざぶと踊る水、背徳感溢れる足の感覚、ぐっしょりと濡れて、「どうにでもなりなさいな」と、何もかも諦めると―――とても楽しくなった。


何でもないアスファルトが、水のおかげで美しい鏡になっている。


ちょうどあと一歩先、もう一つの水たまりに、無邪気な気分でブーツごと再び足を入れ。


あれ?


薄い水たまりに、足が呑まれた。足が伝える感覚を正しく言えば、道を踏み外した。—――アスファルトの道の、ど真ん中で。


あれれれ?


膝が呑まれた。もう片方の足も呑まれた。腰も、胸も、顔も、蒼い傘も。


私は、いつも出勤している道路の歩道を、完璧に踏み外していた。




             ・ ・ ・




青い傘が、頭上に広がっている。


それどころか、頭の中も、周りも、うっすらと海中の青に彩られている。


どうやら水の中らしい。


ひんやりと気持ちのいい水が全身を覆っているが、不思議と呼吸は苦しくない。プールで一番嫌だった歪む視界も、空気中と同じように良好快調。


ただ、私は墜ちている。


傘のおかげで、メリーポピンズよろしく、ゆっくりゆっくりと下降中。


ぐるりと周囲を見渡せば、いつも通勤途中にある見慣れたビルが、普段より低い明度で厳かに立ち並んでいた。しかし、逆さである。


あぁ、あれは影なんだ。水たまりに映るビルの影は、確かに少しだけ色がくすんでいる。


どうやらここは、水たまりの中らしい。


そう考えると、色々納得がいく。


私が「空」に向かって落ちている理由も、水たまりがいつもきれいな理由も。


車の音がしない。雑踏の音がない。


あるのはどこからか零れてくる高く優しい音で、普段、心と精神をかき乱し、ストレスを積もらせる音がない。


とても心地よすぎたせいだろう。


「異常事態」に対する恐怖心が、欠片として現れなかった。


この世界はとても気持ちがいい。


遥か先にある水たまりの底は、頭上で私を支えてくれる青い傘の色に似ていて、地球の裏側まで続いてそうな深度を伺わせた。


ゆっくり、ゆっくりと下降する。


靴が濡れてどうしようもないなと諦めたあの日のように、全身が濡れていることも、落ちていくことさえ、「どうしようもないな」とため息ひとつで受け入れる。


―――あぁ、でも。


雨の音がしないのは、つまらないな。


有名なアニメ映画にもある、雨粒が傘に弾かれる音。


通勤途中は煩わしいとしか思わないけれど、ふと心穏やかな時に耳を傾けると、それは癒しの音になる。


そこまで考えて、ふと思いつく。


きっとそれは、コミュニケーションをとるのが難しい昔の日本人と同じ時間を共有できる貴重な音のはず。


—――もしも底まで落ちて、そこが『不思議の国のアリス』よろしく、古代の日本であったなら、まずは雨宿りの時間を共有して仲良くなろうと決意しておく。


しかし、この美しく揺らめく水たまりの世界には、その音がない。


ちょっと残念。そう、思っていると。


フォーーーーーーーーーーーーーーーーーンン


背後に、高く優しく、耳に直接叩き込むような大きな音。


先ほどまで遠くから響くようだった音に、突如背後を取られた。


ビックリして、慌てて唯一絶対の味方である傘の柄にしがみつきながら、後ろを向く。


すると――――


そこには、大きな鯨が。


口を開けていた。私も、ぽかんと口を開けてそれを見ていた。


自分が喰われる、その様を。


フォーーーーーーーーーーーーーーーーーンン


まぐっ。


青い傘と一人は、水たまりの底の主に相応しい水晶のように虹色の光を反射する半透明な鯨に、食べられた。


――――大きな鯨の口の中には、太陽の優しく暖かな光が広がっていた。




               ・ ・ ・




誰かが蹴飛ばした水たまりの冷たい水が、足を擽る。


ゆっくりと瞼を開けば、始業の時間に間に合うように道を急ぐ大人の群れがイワシのように同じ方向に足早に去っていく。


水晶鯨に食べられた私は、どうやらタイムスリップし損ね、現代へと帰って来たらしい。


—―いや、正しくは我に返った又は白昼夢から覚めたというべきなのかもしれないけれど、そんな洒落っ気も面白味もない無粋な言葉、口が裂けても言いたくない。


雨を降りしきらせていた曇は切れ、鯨の背中に似た青い切れ目から太陽の光を差し込ませていた。


どうやら、今日はもう、蒼い傘は必要ないようだ。


「あーぁ、残念だったなぁ」


いつもこんな風に、夢と現実を行ったり来たり、綱渡り。


まぁ、これも「しょうがないなぁ」


蒼い傘を下ろして纏めて、少しだけ湿ったブーツで一歩踏み出す。


次の一歩は水たまりから外れたけれど、4重の波紋が広がるその奥で、水晶鯨が意気揚々と底に降りていくのを、私は決して見逃さなかった。

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