退廃的ライブハウス
心に穴が空いたとは、こういうことを言うのだと思う。僕の場合、その穴が広がりすぎて、もはや穴でない方の存在を認める方が容易かった。空虚と孤独はいつもセットだ。同時に襲ってくる。
夜に眠れなくなった。今日に満足していないのではなく、眠ってしまって無為な今日に決着をつけるのが怖いのだ。
眠れないときは深夜に出歩くようになった。両親が寝静まった頃を見計らって、音を立てぬよう玄関を発った。夜の空気は孤独を埋めてくれるような優しさと、逆により引きずり込まれてしまうような恐ろしさを併せ持っている。
夜にしか息が出来なくなった。入学したばかりの高校も、日に満ちた街路も、あれだけ見慣れていた商店街でさえ今は苦しくなってしまう。
僕は確実にどこかで選択肢を間違えて、今は間違った方の選択肢で間違いだらけの人生を歩んでいる。いや、もしかしたら、僕の人生には正解の選択肢など端から正解など存在しなかったのかもしれない。今まで正解と思えていたのは、せいぜい少しマシと言えるだけの不正解だったのだ。
そんなことを思いながら、澄んだ夜の空気を吸う。ある家には明かりが灯り、ある家は死んだように眠っていた。くだらない深夜番組の音が聞こえた。
ある意味、それは必然だったのかもしれない。人生と同じように僕は普段は通らない「不正解」の道を選び、案の定現在位置が分からなくなっていた。いわゆる、迷子というやつだ。家の近所とはいえ、もう歩いて30分になる。見知らぬ土地がそうさせるのか、それとも夜そのものがそうさせるのか判らないが、少しの不安と好奇心を咀嚼し、僕はもうちょっとだけ歩き進めることに決めた。
何かに導かれるように数分歩くと、明るい通りに出た。幼い頃、親に連れられてよく来た商店街だった。シャッターの閉まった並びには不釣り合いな店が一軒あった。微かに楽器の音が漏れ、暗めの明かりが点いたバーだった。
若干様子を窺ってから中に入る。扉を開けるとカラン、と一つ合図が鳴って、カウンターに座っていた3人が一斉にこちらを見た。一度に向けられた視線に一瞬動きが止まる。しかし、我関せずとすぐに各々が自分の世界に戻った。
漏れ出していた音の正体は、どうやらドラムらしかった。よく見ると、店の奥には簡易なステージが用意されていて、数人の客が地べたに座って演奏を眺めていた。そこはライブハウス兼バーらしかった。店の主人らしき初老の男はちらりとこちらを見て、また何事もなかったかのようにグラスを拭き始める。この場にいる自分を咎める気はないらしい。
なんとなく居場所が落ち着かず、壁にもたれて耳を傾けた。
下手くそな演奏だった。ギターはコード進行がめちゃくちゃだし、ドラムは度々テンポが変わる。聴けるのは長髪のベースくらいだった。
とはいえ、僕は彼らが心底羨ましい。糞みたいな歌詞で、塵みたいな演奏でも、自分の居場所があって、誰かに認められている。それだけでたまらなく妬ましく、憎ましい。孤独じゃない人間は、皆嫌いだ。そして、そんなしょうもない自分が、一番嫌いだ。分かってる。
自分に酔えるほど自分が好きになれない。かつてあれほどまでに生きることが、自分という存在が、愛せていたのはいったいなぜだったのだろうか。
その日以来、眠れない夜にはライブハウスに行くことが増えた。色褪せたポスターばかりの壁に背中をつき、腕を組みながら売れないバンドを眺める。たったそれだけのことで、たまらなく生きているという実感が湧き上がり、それと同時に死にたくなってくる。
ある意味、そんな歯痒さを抱えていた僕がギターを手に取ったのは必然だったのかもしれない。
珍しく父が自室に来るよう告げたので、大人しくついて行くと、渡されたのは匂いのきついギターケースだった。骨董品独特の匂いがするそれを、初めは厄介なものを渡されたという気持ちで触っていたが、少し弦を触る打ちにやがて手に馴染んでくる。
「父さんが大学時代に使ってたギターだ。弦は張り替えないといけないが、かなりの高級品だからまだまだ使えるぞ」
父は、僕が夜な夜な家出をしていることを知っているのかもしれない。たとえ知らなかったとしても、僕が内に秘めた何かを表現したい、歌いたい、書きたいという欲求を直感的に感じ取っていて、このタイミングでギターを手渡したのだろう。案外、自分も単純な人間なんだな、と思う。
次の日、近くの楽器店で最適な弦を見繕ってももらい、家でギターを弾き始めた。昨日までの乾麺みたいな音とは違い、直接心に響いてくるような、情動的な音色に、僕は一瞬で惚れ込んでしまった。
流れるように、感情が湧き出てくる。何かを表現したいから音を鳴らすというより、水のように流れる音に身を委ねて、自然と感情を乗せていく作業のような感覚があった。
はじめて弦を弾いたあの感覚を、今でも覚えている。
その日は、寝食も忘れて弦を弾き、歌を歌った。いつの間にか声が枯れていることに気づき、ふと時計を見るともう夕方になっていた。今までに経験したことのない高揚感があった。喉は限界状態でひりひりするくらいだったが、無性にライブハウスに行きたかった。誰かに、僕の歌を、声を、言葉を、聴いて欲しかった。
23時を過ぎると、一丁前にギターを担いで生ぬるい夜の街へと繰り出す。もう決して迷うことのない道を辿り、見慣れたステージの前に立った。今日は先客がいるらしく、見たことのないバンドが音響調節をしている最中だった。
はやく、自分も歌いたい。そんな気持ちをなんとか押さえつけ、ギターを置いて座り込んだ。ようやく、演奏が始まるらしかった。
「この世界が、早く終わればいいと思っています」
僕を含め3人しかいない客席に向かって、ボーカルの男が言った。髪は肩まで伸びており、毛先は赤く染まっている。
「この歌詞も、曲も、演奏も、ぜんぶ糞で、塵で、無意味なんです。人生は暇つぶしだなんて言うけれど、暇つぶしで死にたくなるなんてたまらない。生きる目的何なんかあっても、どうせ嫌になるに決まってる。だったらせめて、自分が救われるために音楽をやっていたいと思う。一秒でも早く、救われたい。僕が言いたいことはそれだけです」
前代未聞の前口上から始まったその曲に、僕は心を掴まれてしまった。はっきり言って、そのバンドの演奏は決して上手いとは言えないし、ボーカルもそこまで歌が上手なわけではない。
けれど、僕を絶望させるだけの力はあった。自分がギターを手に取っていい気になっていた、あの時間。まるでこの世の真理でも言い当てたように口ずさんでいた、あの言葉。それら全てが、いかに陳腐でくだらないものだったのか、まざまざと思い知らされたのだ。
自己嫌悪できるほどの自己がなかった。ただこの恨み辛み妬み嫉みを、虚空に向かって発散するだけだ。人とはかくも虚しくなれるのか、と驚く始末だった。
中学校で散々広げた心の穴が、完全に開ききった感覚があった。どうやら、ここらで終わりのようだ。
***********
入学以来、高校は休む事が多かった。完全に生活が昼夜逆転しているからというのもあるが、学校というのは、根本的に一度行かなくなるとどんどん通いづらくなる構造をしている。
二週間連続で休み続けて、ようやく担任から電話がかかってきた。とにかく教室に足を運べば来る気になるから、みんな君のことを心配しているからとのことだった。そもそも、入学以来数日しか合っていないクラスメイトを心配するほどのお人好しがそんなにいるわけがない。けれど、高校を辞める理由も勇気も僕にはない。時間割表がなかったので、適当な科目の教科書だけを鞄に詰めて、布団に入った。まったく眠気は来なかった。
あくる朝、まだ怠さの残る体を無理矢理起こし、自転車で高校に向かった。こんなに早い時間に活動すること自体が久々だったので、なんだか新鮮な気すらした。校門をくぐり、教室まで到達すると、全員が等身大の高校生を演じていて、謎の窮屈さを感じた。まるで、「高校生とはこうあるべき」といった暗黙の了解が共有されていて、僕だけが取り残されているような気分だった。
一番後ろにある席に座ると、隣の男子生徒が話しかけてきた。
「おう、沙加戸じゃん。なに、なんで休んでたの?」
この数秒でここまで不快感を醸し出せるのはある意味天才だと思う。はっきり言って、あまり関わりたいタイプの人間ではなかった。どこかチャラチャラしているし、周りにいる友達らしき男達も趣味が悪そうだった。それに、卑しい目線は完全にこちらを下に見ている。
「体調の方が、ちょっとね。久々の学校だから慣れないよ」
「ああ、そう。休んでる間のプリントとか、机の中にあるから」
ほとんど使っていない机の引き出しには書類が溢れていて、少し憂鬱になる。しばらくして朝のホームルームが始まり、何事もなく数学の授業が始まった。
当然のことながら内容は一切分からない。暇を持て余して窓の外を眺めていると、校庭ではどこかのクラスがサッカーをしていた。
5月の空は青いと言うより青白かった。窓から吹き込む風はカーテンを揺らし、僕の長い前髪にやや乱暴に触れる。そこそこの進学校なだけあって、授業の難易度はさることながら進度も早い。もうダメかな、と早々に諦めの気持ちが湧いてきた。
2限目の英語の授業は、ペアワークらしかった。毎回ランダムに席を移動し、誰かと共同で与えられた長文を訳していく。最悪だった。誰かとペアになるのも相当の負担なのに、協調性を求められると途端にダメになる。
皆は慣れた感じで教師の指定した席に移動し、仲の良さなど関係なくペアのクラスメイトと挨拶を交わす。僕が指定されたのはちょうど真ん中の席で、相手は小柄な女子生徒だった。
「よろしくね、沙加戸くん」
「僕の名前、知ってるんだな。学校来てないのに」
「あはは、逆に知ってるみたいなところはあるよね」
「そうか、皮肉なもんだよな。普通に通ってたらおそらく見向きもされず、名前も覚えられないのに」
嫌な予感はしていたが、どうにも自分を止められなかった。相手の子が困った顔をしているのが分かる。
周囲のざわめきが強まった気がした。誰かが笑った。誰かが相槌を打った。誰かが叫んだ。
僕を取り巻く全てがしゃべり出し、まるでそれらの言葉全てが脅迫的に僕に迫ってくるような感覚が合った。冷たい汗が流れた、朝食を口にしていないはずなのに、胃の中にあったものが喉までせり上がってきていた。
気付けば、教室から飛び出していた。世界の音量が数段階上がったような感覚があって、耐えられない。教室の騒がしさに、全身がむず痒くなる。ライブハウスであれだけの大音量を浴びているのに、この狭い教室で巻き起こるノイズを、鼓膜が受け付けなかった。
逆流する胃酸をどうにか抑え込んで、廊下を走った。教師が後ろから何か言っていたが、当然耳には入らない。階段を数段昇り、踊り場に座り込んだ。唐突に、涙が出てきた。口の中は酸っぱい味がして、足がよろける。僕は一体、何をしているのだろう。
いつの間にか喧噪は遠くなっていて、辛かったのも昔のことのように思えてきた。
あまりに初めての出来事に、僕自身もどうすべきか分からなかった。きっと、僕はもうダメなのだろう。それだけは分かりきっていた。
***********
まだ上に続く階段を昇りきると、見知らぬ扉があった。「生徒立入禁止」と書かれたプレートを無視してドアノブを回すと、なぜか鍵がかかっていなかった。
屋上に来たのは初めてだった。頭の中にあるフィクションの高校生活では、屋上は昼休みになると賑わい、誰かが昼食を食べている。しかし、現実の高校の屋上には僕一人しかいない。日陰に入って壁にもたれる。風は涼しかった。
空が高かった。いつの間にか到底届かないところに行ってしまった何かを僕はずっと求めていて、それが具体的に何なのかも分からず、気付けばただ求め、探すこと自体が目的となっていることに、僕は自覚的であるにも拘らず、ずっと気付かないふりをしていた。
遠くから、ピアノの音が聴こえた。知っている曲だった。名前は思い出せないけれど、優しい思い出が蘇ってきた。
一転、僕は救われたような気持ちになった。単純な人間だと責められても、それで良かった。僕はその音色に、過去を見た。思い出を投げた。
未知なる生物の足跡を辿るように、僕は階段を降りて、音の残滓を嗅ぎ回った。僕が見つけるまで演奏を止めないでくれと願うばかりだった。
音が大きくなったかと思えばまた遠のき、もと来た道を戻る。そんなことを繰り返していると。2階の突き当たりに行き着いた。考えてみれば至極当然だったが、僕はこの学校の構造を全く分かっていなかったので仕方がない。「音楽室」と掲げられた教室の扉を、静かに開いた。
温かな風が吹いて、窓から花びらが舞った。亜麻色の少女が、そこにいた。
入った瞬間、その空間の異質さを思いしらされた。
少女が一人、ピアノを弾いていた。
ピンと張った背筋。鍵盤に触れるしなやかな指先。風になびく長くて艶のよい髪。
諸々の所作があまりに自然すぎた。まるで彼女がそこにいることが当然で、常識で、真理のように思えた。そんな光景を、僕は見た。
扉が軋む音に気付いた少女は、おもむろに演奏を中断し、こちらを見据えた。
「ごめん。良い演奏だったから、どこから聴こえるのかと思って」
「良い演奏?」
不思議な表情で尋ねるその少女は、どこかまだ幼さが残っていて、それでいていかにも上品な出で立ちをしていた。大きくな紺色の眼鏡の奥にある瞳が、真っ直ぐに僕を捉えた。
「ああ、良い演奏だったよ。なんて曲?」
「『亜麻色の髪の乙女』だよ。分かんないや、ピアノを褒められたこと、今までなかったから」
俯きながら鍵盤を眺めるその表情には、照れと戸惑いが半分ずつ切り分けられていた。
「……なんというか、君にぴったりだね」
「私? そうかな、髪の毛は真っ黒だよ」
「いや、なんというか、この曲の中に君がいるのがとてもしっくりくるんだ。ごめん、変なこと言い出して」
「そうかぁ、なんだか嬉しいね」
ふふ、と静かに笑う彼女を見るだけで、救われたような気持ちになった。こんなに穏やかに人と話したのは、いつぶりだろうか。
「じゃあ、もう少し聴いていく? 椅子、そこにあるけど」
「そうさせてもらうよ」
安らかな空気の中、背もたれのない木製の椅子に腰掛けて、ピアノの音色に耳を傾けた。
演奏が、始まる。
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