第三章「青春デッドロック」
今も終わらないあの夏に
きっかけは、二人の共通の友人だった。名前を、篠原という。
そもそも、僕と渚沙が話すようになったのはその子がきっかけだったし、他クラスである渚沙がウチのクラスに来る口実にはちょうどよかった。
今でも覚えている。夕日の差し込む教室で、テスト期間で部活がないのをいいことに僕らは三人で残っていた。
テスト勉強なんてのは形式だけでしかなく、ただ三人で集まって喋ってるだけだった。
僕と渚沙の関係は未だ誰にも漏らしておらず、それは今一緒にいる彼女も例外ではなかった。一度、渚沙から相談を受けたことがあった。一番の親友である彼女にだけは真実を伝えるべきでないかと、それとなく伝えられた。
けれど僕は直感的に面倒ごとを悟ったのか、或いは変化を恐れたのか、咄嗟に否定的な返事をしてしまった。その結果、僕らの関係は二年生になった今も知られていない。
告白されたのが一年生の夏だったから、もう一年ほど経つことになる。去年の夏にはあれほどまでにぎこちなかった渚沙の態度もいくらか落ち着いてきて、付き合いたての頃の雰囲気はだいぶ削がれていた。
「ね、これから駅前行かない? 美味しいクレープ屋さんがあって」
数学の教科書を広げたまま一向に進んでいない篠原が言った。
「そうはいってもなぁ。赤点取ったら監督に怒られるし」
「私は無理かな。弟を迎えに行かないと」
部活のない日には、パートで忙しい母親の代わりに渚沙が弟を送迎するようだ。初めて知ったときは感心したのを覚えている。
「じゃあ、チッヒーが私と行くことになるね。うひひ、デートだ」
チッヒーとは篠原が僕につけたあだ名だ。何度やめろと言ってもそう呼び続けるので、最近ではもう諦めている。
デートという単語に一瞬だけ背筋が伸びるような感じがして、ちらりと渚沙の方を見やったが、気にしているのは僕だけらしかった。
「そうだね、千尋が行ってあげてよ。シノも一人で列に並びたくないだろうし」
「ええ……いいのか?」
僕としてはいろいろな配慮を込めて言ったのだけれど、渚沙には伝わらなかったらしい。「なんで私に訊くの?」と言わんばかりに不思議そうな顔をしている。
「分かった、行くよ。ただし、勉強したいからすぐ帰るぞ」
「やった! そうと決まれば早速準備だ!」
誰より早く教科書とノートを閉じる篠原を見て、渚沙と二人で笑い合った。こんな時間が、ずっと続いて欲しかった。
***********
「チッヒー、それちょっとちょうだい」
篠原が僕のクレープにかじりつく。駅前広場には、金曜の夕方ということも手伝って、親子連れや学生で賑わっていた。
彼女は散々迷ったあげく「まるごとリンゴクレープ」を選んでいた。僕は拘りがなかったので適当にバナナクリームを頼んだ。
篠原のこういった大胆さには時折驚かされる。今だって、篠原が食べた部分をどうしようとか、間接キスになるんじゃないかとか、気にしているのはきっと僕だけだ。
「あのさぁ、どうせ食べるつもりなら言ってくれたらいいのに」
「えー。いいじゃん、減るもんじゃないし」
「いや、減るもんだろクレープは」
「違う違う、チッヒーの優しさがってことだよ」
「……またそういうこと言う。おだてたってもうあげないからな」
「えへへ、なんだかんだ言って優しいからなぁ、チッヒーは」
唐突に、渚沙に謝りたい気分になった。理由は上手く言えないけれど、今の自分がとても不適切な振る舞いをしていて、それを自覚していることがもっとも不適切であることに僕は気付いてしまっていた。
「チッヒーはさ、」
物思いに耽っていると、先程までとは少し落ち着いたトーンで篠原が口を開いた。
「ナギのこと、どう思ってるの?」
質問の切り口が妙だったから、思わず身構えてしまった。僕が口を滑らせてしまえば、関係がバレる可能性もある。
「どうって? 普通だけど」
「普通? 好きってこと? 嫌いってこと?」
「そりゃぁ、もちろん嫌いではないけどさ。かといって恋愛的に好きかって訊かれても色々と困る」
嘘をついた心が痛んだ。いや、本当は心の痛みが嘘のせいであると、信じたかった。
「ふーん。なんかよくわかんないけど、じゃあ大丈夫ってことなんだね」
「大丈夫? 何が?」
「ううん、なんでもないよ」
思えば、この時に気付けなかった時点で僕の失態だった。いや、気付いていても卑屈な僕は可能性を否定してしまうだろう。初めから負け戦だった。
***********
次の日、土曜日は渚沙と遊ぶ予定があった。正真正銘の「デート」というやつだ。知人に見られるのを防ぐため、やや遠いところにある水族館を指定した。
駅で水色のスカートを履いた渚沙と合流し、数分歩くとすぐに着いた。二人分のチケットを購入すると、チケットには「中学生」と刻印されていた。普段、学校で同い年とばかり生活していると忘れがちだが、そういえば、僕らはまだ中学生でしかないのだ。
クラス内で誰が子供っぽくて、誰が大人びているという印象ははっきりあるし、実際に当てはまるけれど、所詮、僕らは未成年だ。
ふと、この先の未来を想像した。そんなことをしても無意味だと知ってはいるけれど、頭では既に妄想が始まっていた。
特に何もなければ、テストで中間くらいの成績の僕はこのまま中堅くらいの高校に進学し、適当な大学に入学するだろう。そして順当にどこかの会社に就職して、定年になれば社会との接点を持たぬまま人知れず静かに死んでいくはずだ。
僕の未来に、渚沙はいなかった。それどころか、渚沙以外の人間も一人とて登場しなかった。未来の僕はずっと一人で、どこまでも孤独で、そしてその状況を何も疑わず、何の不満を抱いてはいなかった。
なるほど、それはある意味で幸せと呼べるかもしれない。けれど、僕の過去には確かに誰かの息づかいが残っていて、僕が独りでいると「大丈夫」と声をかけてくれる誰かがいたはずなのだ。
きっと僕はずいぶん前に、決定的に道を踏み外していた。それはなぜか、どうすればよいのかも分からず、気付かないふりをしたまま生きているような感覚があった。
「千尋?」
彼女の声で我に返った。目の前には、不安げに顔をのぞき込む渚沙がいた。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「そっか、テスト期間だし疲れてるんじゃない?」
テスト期間に遊びに行く罪悪感がないわけではないが、そうでもしないと二人の予定が合わないのだから仕方が無い。
水族館に来るのは久々だった。こうしてみると、人気デートスポットの首位に名を連ねるのもなんとなく分かる。館内は薄暗く、人々の目は青い水槽に釘付けだ。その中を悠々と泳ぐ魚たちを見ていると、時間がものすごくゆっくと感じられる。穏やかな状態で、素をさらけ出せるのかもしれない。
ちょうどクラゲの水槽の前に止まった時、異変を感じた。振り返ってみると、渚沙が遥か遠くの展示で足が止まっていた。僕が少し速いのもあるだろうが、それにしたって遅すぎる。
「渚沙、行くよ」
「う、うん」
カクレクマノミを延々と眺め続けていた彼女の横顔が、どこか遠く、寂しそうだった。
その後もいくつかの展示を回り、席に座ってイルカショーも観た。けれど、彼女はどこか上の空で、魂が心にないみたいだった。
決定的瞬間は、フードコートで訪れた。
「今日は、どうしたの? なんだかいつもと違う渚沙みたいだ」
ずっと尋ねたかった。ようやく尋ねられて良かったと思うと同時に、判決を待つような心持ちになった。
「私はどうもしないよ。むしろ、千尋の方だよ。おかしいの」
「え?」
思い当たる節がないわけではない。でも彼女がそれを知るはずはないし、なにせ僕の心の中だけの話だ。ここ数日で起こった出来事も、考えたことも、すべて僕の中で完結しているはずだ。
「昨日、シノから相談されたの。千尋に告白しようと思ってるって」
頭を殴られたような衝撃があった。少しして、その言葉をゆっくりと咀嚼し、ようやく理解した。
ああ、終わってしまったのだ。
「それで、なんて言ったの?」
「私はなにも言わなかったよ。頑張ってね、って」
「……なんで? だって僕ら、付き合ってるじゃないか」
「言えるわけないじゃない! 私たち、あの子にずっと隠してきたんだよ。目をキラキラさせながら千尋のこと考えてるあの子の前で、言えるわけ……」
渚沙が大きな声を出してしまったせいで、周りの注目を集めてしまった。視線に耐えかねた僕は手を引いて、トイレの裏まで彼女を誘導した。ぼろぼろと、大粒の涙ができていた。
「どうして、こうなっちゃったんだよ。僕はただ、ずっと三人で仲良くしたいだけなのに……」
「じゃあ訊くけど、三人でいるために私たちの関係を伝えようって言った時、なんで断ったの? 一回きりじゃない、三回も言った」
「伝えたら、変わっちゃうじゃないか」
「ああ、本当に嫌。そういうところが嫌いなのよ。キミは周りが変わることを恐れてるんじゃなくて、自分が変わることを恐れてるの。一度でも、私の目を見て好きって言ってくれたこと、あった?」
鼻の奥がツンとして、なぜか僕まで泣けてきた。
「キミはいつも遠くばっかり見てて、自分は関係ないって顔して、居場所はここにはないってフリして。そうやって何も選ばなかった結果、何も得られなかったのが今のキミなんだよ。せめて、私を選んでよ……!」
大切な何かが現在進行形で失われていることが分かりきっているのに、僕には手も足も出ない。きっと、彼女はそんな僕のところを含めて糾弾しているのだろう。
気付かなければならないことに蓋をして、僕はいつも逃げてきた。縋る過去に言い訳してばかりで、今なんてこれっぽちも見ていなかった。そんなこと、ずっと前から知ってるんだ。
そして、そんな自分が嫌いになれなくて、それに苦しめられてるのも、ぜんぶ知っている。
***********
二年間の間に、後生取っておきたいと思える思い出が一つ増えて、もう二度と味わいたくない苦い思い出も一つ増えた。こうして、僕の中学校生活は終わりを告げた。
昔は精を出していたサッカー部は、辞めてしまった。僕には続ける理由がなかった。
持て余した時間で受験勉強をした。皮肉なことに、最悪な出来事を契機に、僕の成績はぐんぐん伸びていった。大切な何かと引き換えに得られるものとしては塵みたいなものだったから、ちっとも嬉しくなんてなかった。
今でも、彼女のことを思い出すと胸が痛む。けれどこの痛みだってきっと、僕のための痛みなんだろう。そんなときは、そういうところが嫌いなんだよ、と彼女が言ったことを思い出す。そして、僕もそう思うよ、と俯きながら返事をする。
僕に出来るのは、これが精一杯だった。
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