第四章「また青い春が来る」
音楽なんて欺瞞だ
感動できる音楽なんて欺瞞だ。
もしも人が「音」に心動かされるというのなら、コンビニの入店音で感極まってなければならない。「音楽」だけが都合良く人の心に作用するなんてこと、あるはずがない。
僕が大学で軽音楽同好会に所属しているのは、一見すれば矛盾しているように見えるだろう。けれど、「僕を感動させられるような音楽があるのなら聴かせてみろ」という捻くれた入会動機で入ったのだから侮辱もいいところだ。
半年間かけて、僕の正しさは十分に立証されたように思う。僕は音楽が嫌いだった。同好会で初めて演奏したときも、文化祭でライブに出たときも、学生棟で練習しているときも、音楽が素晴らしいなんて思ったことは一度もなかった。
そういえば、と思う。数ヶ月前に比べて、こんなことを考えることも減ってしまった。斜に構えるのも、穿った見方をするのも、ある程度の体力を要する。半年以上経った今はそれすら億劫になりつつある。日々弾力を失う心を抱えて酒を飲むしかやることがない。音楽を嫌いになったのはいつからだろうか。
思えば、高校時代の僕はどうかしていた。生まれてからどうかしていなかった時期など存在しないのだけれど、それにしても特段どうかしていた。
入学して早々に行かなくなった高校だったが、それでもほんの数ヶ月だけ覚えている期間がある。あの頃の僕は心が廃れていたとはいえ、確かに救われていた。
ピアノが聴こえたのだ。
立ち入り禁止の屋上に登ったとき、偶然耳に入った『亜麻色の髪の乙女』。音楽室を訪れると、少女が一人、ピアノを弾いていた。
彼女の演奏はきまぐれだった。昼休みは音楽室が使えないので、どこかのタイミングで授業を抜け出して忍び込んでいるらしかった。教室に居場所のなかった僕にとって、そこは世界で唯一の安全地帯だった。まれに彼女の気分が向くと、演奏は放課後まで続き、部屋に夕日が差しはじめる。
後から知ったことだが、彼女の家系は両親がプロピアニストのサラブレッドで、様々な賞で金賞を獲る天才らしかった。教師も彼女が教室を抜け出して音楽室に行っていることは知っていたが、半ば黙認しているようだった。
そんな事情があるとはつゆ知らず、僕は彼女のピアノを聴くために学校に行くようになった。相変わらず授業にはろくに出ていなかったが、音楽室を覗くために通学するような日もあった。
運良く出会えた日は邪魔しないよう静かに音楽室に入り、丸椅子を寄せて凪のような音に身を任せる。時間が経つのはあっという間で、この瞬間に世界が滅んでもいいと本気で思っていた。そういう日に限って、夜はよく眠れた。
そしてそんな日々も、唐突に終わった。よく晴れた秋の日だったように思う。
夏の名残もすっかり失せ、いつもより空が高く、雲が遠かった。
その日、僕は昼過ぎになってようやく登校した。昇降口に着いたときには昼休みも後半に差し掛かっており、慌ただしく過ぎ去る人の群れは重役出勤など気にも留めていなかった。人通りが多かったのでボーッと流れていく高校生を眺めていた、その時だった。
少女が、そこにいた。
音楽室での姿しか知らない可憐な少女を、視界に認めた。そして次の瞬間、僕は音楽とか学校とか、世界とか人生とか、そういったすべてがどうでもいいように思えた。
男女数人のグループで楽しそうに笑う彼女を見て、大切な物が音を立てて壊れてしまった音がした。もしも音楽室で見たあの景色が夢だというのなら、僕は決して醒めなくていいとさえ思う。現実の少女はあまりにも「普通」だった。
けれど、だからなんだと言うのだろう。そんなこと分かっていたはずだ。誰しも信頼できる友人がいて、健全な交友のもとに人生を謳歌している。むしろそれができていない僕が少数派なんてこと、とうの昔に知っていたはずなのに。
心底自分が嫌いだった。必死に落とし穴から這い出ようとするくらいなら、落とし穴の中で幸せに暮らした方がよっぽどマシだ。それでも穴に一縷の光が差した途端、ひとりよがりに何倍にでも誇張して、希望的観測してしまうのをやめられない。
諦めたいのに諦めきれない。嫌いたいのに嫌いきれない。中途半端な絶望が最も堪える。
勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に自己嫌悪。こんなことをして、何になるというのだろう。この先に、何があるというのだろう。
それから一週間後、僕は高校を辞めた。
どうせ惰性で決めた進路だ。後悔はなかった。
あの後ギターを再び手に取り音楽を再開したのも、僕からすれば最高の皮肉だった。僕の音楽で感動してくれる人を見つけたかった。そして、ソイツを嘘吐きだと嘲笑ってやりたかった。披露する機会なんか、もちろんなかった。
高卒認定試験を受けて、皆より一年遅れて大学に入ったのも、音楽が退屈だったからだ。人生という茫漠な時間は、ギターで潰せるほど短くはなかった。結局暇を持て余した僕は勉強する羽目になり、世間的には「一浪」という形で大学に入学した。
長らく浮世離れした生活を送っていたため、本来は大学へ行くのも億劫だった。自分が周りよりも一歳だけ年を食っていると白状するのが怖くて、まだ見ぬ新生活に怯えていた。
案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、大学を見渡してみれば浪人していた人間は一定数おり、同学年なのに自分より年上の人間さえ存在した。
サークル勧誘の際、フラフラと着いていった先がたまたま軽音楽同好会で、断るのも面倒だった僕は妙な因果でギターを続けることとなった。音楽が楽しいと思ったことなど、一度もないのに。
****************
「先輩、聞いてます?」
「……うん? ごめん、ボーッとしてた」
「だから、今週の日曜ですよ。そろそろ『雨に唄えば』観に行きたいんですけど」
七海は不満げに口を尖らせた。昼休み、大変に繁盛している食堂に僕らはいた。
「日曜か。久々にバイトもないし、観ようか」
「やったぁ! 食材持って行きますね!」
露骨に感情表現をする七海は、その時の気分が面白いくらいに分かる。彼女が犬なら、今ごろ盛大に尻尾を振っていただろう。
尾上七海。僕の恋人の名前だ。
彼女は同じ軽音楽同好会に所属する一年生で、入会自体は僕と同期だ。けれどなぜか僕のことを「先輩」と呼ぶ。年は僕の方が一つ上だが、同学年に先輩呼ばわりされるのはかなり違和感があった。今ではもう諦めている。
七海は出会いも付き合うきっかけも、なにもかも今までと違っていた。気付けば同じサークルにいて、気付けば同じバンドで演奏していて、気付けば恋人になっていた。僕らの関係は明確な区切りがあって進展したわけではなく、淡いグラデーションを描くように、ごく自然にそうなっていた。
同好会でも、まるで本物の先輩・後輩のように接している。恋人関係なのに敬語が外れないのを他のメンバーに突っ込まれたりはしたが、僕は特に何も思わないので放っておいている。
そして、どうやら日曜は僕の家で映画鑑賞会が行われるらしかった。大学生になっていわゆる「名作」と呼ばれる映画を趣味で集めていたのだが、先日その話を七海にすると、所持している映画リストを暗唱させられた。その中でもいくつか知っているような反応を示し、『雨に唄えば』を観たいと急に言い出したのだ。
七海は僕の家に来たことがないので、もちろん方便かもしれない。でも、方便でも好きな映画に反応を示してくれたのが嬉しかった。
好きな作品を好きと言うこと。そして、それを共有すること。これより喜ばしいことなど、この世にはないのだから。
****************
週3回の塾講師バイトを終えると、街が冷たくなっていた。季節は11月。文化祭や夏休みなどのイベントを終え、大学生はテストに怯え始める時期だ。次の出勤時にはマフラーを巻こうと固く決心し、ノブを回した。
時刻は23時を回っていた。隣の部屋からは、微かにクラシックが聴こえる。隣人もまだ眠っていないようだった。
ベランダに出て煙草を吸った。向かいのアパートは、一部屋以外消灯しており、仲間外れを見ている気分だった。
「やあ、こんばんは」
聞き馴染みのある声がした。右に振り向くと、絵の具で汚れたTシャツを着た女性が小さく手を振っていた。フレームの細い丸渕メガネにボブカットのこの人を、僕は「美大生さん」と呼んでいる。名前は一度聞いたことがあったが、まったく覚えておらず、諦めてそう呼ぶことにした。
「こんばんは。お目覚めですか」
「いいんだよ、私は夜しか描けないんだ」
美大生さんも煙草を吸っていた。僕のパーラメントよりも苦い香りがした。
「最近、彼女とはどうだい?」
目線は変えず、どこか遠くを見つめたまま美大生さんは尋ねてくる。
「驚きました。そんなことに興味を持つと思わなかった」
「まさか。ただの雑談さ。なんなら、私はキミが早くフラれたらいいと思ってる」
「酷いこと言いますね。僕の人生において数少ない幸せな時間が今なんですよ」
「その割には、キミはちっとも満足そうな顔をしないよね。わざと?」
言っている意味が分からなかった。音楽に対する穿った考え方だって、最近は鳴りを潜めている。ただ恋人のことを想って眠りにつく僕の日々のどこに不満点があるというのだろう。
「それは美大生さんが拗らせすぎてるんですよ。やっぱ美大生だからですか?」
「ま、いいや。この話は忘れてくれ。ただ一つ言えるのは、私は不幸そうなキミの方が100倍魅力的に見えるってことだよ」
「覚えておきますよ。でも、どうせ不幸なヤツを見ると筆が進むってことでしょ?」
はは、と乾いた笑い方をして、美大生さんは煙を吐き出した。
「そうかもね。人生は芸術のためにあると思うからさ。モデルになってくれる気が起きたらいつでも言ってよ」
「考えときます」
やがて一本吸い終えた僕は寒さで手を擦り合わせながら部屋に戻った。
美大生さんと出会ったのは引っ越してすぐだった。いつも深夜になるとベランダの窓が開く音がすることには気付いていた。ある日勇気を出して同じように僕もベランダに出てみると、「ようやくだね」と言ってケラケラ笑った。第一印象からしてヤバい人だったが、1ヶ月もするとそれなりに話せるようになった。専らベランダでの短い会話だけだったけれど、数年前の僕が出会っていたらきっと意気投合していただろう。不思議な人だった。
その晩、薄暗い部屋を見渡して、改めて変な気分になった。自分が今ここにいること。大学生として生活していること。3日後に恋人が来ること。
片付けは明日にしよう。いつもより早く眠りについた。
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