第七話 魔女と少女

 その日、天気が良かったのだ。

 イルザは森の中、家から少し離れた場所で、小さな赤い実を集めていた。採っては手に持ったかごの中に入れていく。このあたりの木になる、甘酸っぱい実。

 思ったよりも多くの量が採れて、機嫌よくその場を後にした。何を作ろうかと考えつつ、家を目指して歩く。

 油断していたといえば、その通りだった。

 歩いていると、背後から突然ばきばきと音が聞こえたのだ。とっさに振り返るものの、誰もいない。しかし何かがいた。

「誰?」

 この森に立ち入る者は、あまりいない。すぐさま思いついたのは、近くの村の郵便配達役アルベルトだった。確かにここは村に近いし、アルベルトが家に来るとしたら近くを通るだろう。驚かそうと隠れているのだろうか。

 それとも、と嫌な予感がする――もしかして、魔女狩りか。

 花の模様の目を持つ魔女は、危険な存在。だから忌み嫌われ、地域によっては、殺される。

 このあたりにはまだ、魔女狩りやその風潮はやってきていない。しかし、もしかすると。

 けれども、やがてイルザの花の瞳に映ったのは、巨大な獣だった。のっそりと、茂みからこちらへと出てくる。

 それはあまりにも巨大な熊だった。目をぎらつかせ、こちらを見ている。身体を起こせば、木のように大きかった。涎が垂れる口では、牙が光っている。

 熊。こんな昼間に。

 わずかに悲鳴を上げてイルザはただ熊を見上げた。どうやら熊は、腹を空かせているように見える。

 足が竦んでしまって、イルザは動けなくなってしまった。

 目の前にいるのは、あまりにも大きく、獰猛な獣。そして。

 ――あの人を殺した存在でもあった。

 このとき、魔法を使おうなんて、思いつかなかった。

 それほどに目の前の獣は、この日常において異質で、恐ろしい存在だった。そして目の前にしてしまえば、自分がちっぽけであることを、思い知らされてしまう存在だった。

 逃げないと。しかしわかっていても、足が動かない。

 と、熊が低くうなる。一歩こちらへ出てくる。

 次の瞬間、イルザは我に返って走り出した。逃げないと。あれはこちらを食べようとしている。勢いにかごから赤い実が転がり出る。

 熊は走って追ってくる。その速度は、イルザよりもずっと速いものだった。捕まったら、殺される。それだけは確実だった。

 何でもできるはずの魔女であるものの、イルザが感じたのは、本能的な恐怖だけ。ただただ走る。と、目の前が不意に開ける。木々がない――地面もない。そこには、青空のみ。

 慌てて立ち止まった。飛び出したそこは崖の上だった。と、背後から熊が飛びかかってくる。

 イルザは思わず悲鳴をあげて、しかしとっさに横に避けた。しかしバランスを崩して、悲鳴を上げて転んでしまった。熊は崖ぎりぎりのところに着地し、まだこちらを睨んでいる。毛むくじゃらの巨大な図体が、こちらに近づいてくる。

 起きあがろうとしても、イルザは腰が抜けてしまって、立ち上がれなかった。

 熊の目に映っているのは、魔女ではなく、ただの少女だった。

 魔女といえども、イルザも少女にすぎないのだ。

「来ないで……」

 恐ろしさに声を絞り出した。そのとたん、熊がまるで見えない糸に絡まれたように、動きを止めた。 

 ――それでもイルザは、魔女だった。

 自分の身の回りを、思い通りにできてしまう、魔女――。

 刹那、その熊の足下が、剥がれるように崩れ始めた。

 そのあまりにも大きな身体のためだろうか。あっという間に熊の足下は崩れ、毛むくじゃらの巨体は崖の下へと滑るように落ちていってしまった。

 熊のいた場所だけ、綺麗に。目を疑い、イルザは瞬きをする。

 ふと思い出したのは――崩れゆく天井だった。

 落ちて小さくなっていく熊の身体を、見下ろす。見えなくなっても、見下ろす。

「私……」

 何だったのだろうか。いまのは――あれは。

 ――思い出す。燃えさかる屋敷を。

 それは、幼少期、保護施設に魔女狩りの集団が流れ込んできた時だった。火をつけられ燃えさかる屋敷から出ようと走っている時だった。

 一緒に逃げなくてはいけなかった。あの子と。でもあの子は走るのが遅くて。それが忌々しくて。

 否、最初から好きではなくて。何故なら彼女はあの人の妹だったから。自分ではなく、彼女があの人の妹だったから。

 私が妹になりたかった。家族がほしかった。

 ……天井が崩れた。あの子の真上だけ。あの子は下敷きになった。魔女の力を使う時間もなかった――。

 事故だったのだろうか。それとも。

 それとも、私が?

 と、背後で再び物音がして、イルザはびくりと震え上がった。我に返る。ぼうっとしている場合ではない。

「――イルザ!」

 しかしそれは熊ではなく、アルベルトだった。

「どうした! 何だ――」

 彼は座り込んでいるイルザを見て、ぎょっとする。

「……泣いてんのかお前」

 言われて目をこすれば、指に涙がついていた。


 * * *


 最近村の近くで、巨大な熊の姿が見られる。畑を荒らすだけではなく、人も襲った。その話を、アルベルトはイルザに教えるために、森の中を歩いている最中だったらしい。しかし道中でイルザの悲鳴が聞こえたものだから、慌てて走ってきたのだという。

「ごめん、昨日、俺が教えるの明日で間に合うだろうって思わなければ、襲われる前に注意できたのに」

 アルベルトはそう言いながら、イルザを家まで送った。

「でも運がよかったなぁ……いい感じに崖が崩れて……イルザも怪我してないようだし。本当に、よかったぁ」

 安堵に彼は笑っているものの、イルザは黙ったままだった。熊に怯えて泣いていたのを見られたからではなかった。

「……私がやったのかしら。事故だったのかしら」

 綺麗に熊のいた部分だけ崩れたのは、偶然か、必然か。

 ――あの時天井が崩れたのは、偶然か、必然か。

 どちらにしても――死んだのは、確かだろう。

 ――あの子がいなくなれば、と思ったことは、ある。

 そうしたら、あの子の姉を独り占めできるから。家族に成り代われると思ったから。

 ――わからない。

「それにしても、お前もああいうところあるんだな」

 不意にアルベルトがそう言うものだから、顔を上げる。

「いや、熊にびびるんだなって。お前も普通の女の子だよな、魔女だから熊ぐらいちゃちゃっとやっつけられるんじゃないかと思ったけど……怖いと無理だよな」

 そう言って、彼は思いだしたように気まずい顔をした。

「ああ……そうか、お前の姉さん……」

「それもあるけど、普通に怖かったわ。突然出てくるんだもの」

 何事もないように、言葉を返す。それでも、言う。自分に言い聞かせるように。

「それと……あの人、私の姉じゃないわよ。一緒にここに来たけれども」

 あの人は、姉ではないし、自分は妹になれないのだ。

 それ以上語ろうとしない様子に、アルベルトも何か察したのだろう、黙った。静かなまま、二人は森の中を歩いていった。

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