第15話
この間は、とリヒャルトが口を開いた。
そう言われて心か当たりがあるのは最後に顔を合わせたあの日のことくらいで、コリンナは思わずドレスを握りしめて息を飲む。
「突然キスしてごめん。責任をとりたい」
(……責任、ね)
その言葉にコリンナは気持ちがすぶずぶと沈んでいくような心地がした。
この場で彼の言う『責任』とは、つまり結婚を申し込んでいるのと同義だと思っていい。だけどちっともうれしくない。素直に喜ぶこともできないし、ありがとうと笑うなんてもっての外だ。
(きっと、他の令嬢に比べて私なら相手をするのも慣れてきたしまぁいいかなって……そういう程度でしょうよ)
高嶺の花と呼ばれているコリンナも、リヒャルトにとってはその程度の評価しかないだろう。
他よりマシ。ただそれだけだ。
「……いえ、いいわ。犬に噛まれたとでも思って忘れるから」
あれは事故だ。お互い予測していなかった不幸な事故。
ならばなかったことにするのが正しい。あんなことで責任をとってもらわなくたって、コリンナの価値は下がったりしない。
コリンナはリヒャルトから目を逸らし、わざとらしすぎるほどにツンとした物言いで答えた。そんなコリンナを見てリヒャルトは腹を立てるような様子もなく、小さくくすりと笑った。
「はじめてのキスだったくせに」
しれっと落とされた爆弾発言にコリンナは顔を真っ赤にしてリヒャルトを睨みつけた。
「き、気づいていてもそういうことは黙っていたら!?」
(あえて言う必要はないでしょう!?)
デリカシーがないにもほどがある。このままコリンナに殴られても文句は言えないくらいだ。
もちろんはじめてのキスだし本当は犬に噛まれただなんて思って忘れることはできない。けどコリンナが水に流すと言っているのだからそこはリヒャルトだって受け入れるべきところなのに!
ぷんぷんと怒るコリンナを見てリヒャルトはため息を吐き出しながら「困ったな」と呟いた。「こうなる予定ではなかったんだけど」と。
(困っているのはこっちのほうなんだけど……!?)
思わぬ事故ではじめてのキスを奪われるし、こうして久々に会ったらリヒャルトは身綺麗になりすぎていて心臓が落ち着かないし、その上どうしてキスのことをなかったことにしようとしているコリンナがリヒャルトを困らせているみたいな雰囲気になっているのか。
「攻め方を変えよう。君には正攻法でいったほうがいいみたいだ」
ふぅ、と息を吐き出したあと、リヒャルトはコリンナの前で跪いた。青い瞳がまっすぐにこちらを見上げてきて、コリンナの心臓が途端に大きく跳ねる。
だって、これではまるで求婚されるみたいだ。
(そんなわけない)
責任とかそういうものを抜きにすれば、リヒャルトがコリンナに求婚する理由なんてないはずだ。彼にとって恋とか愛とか、きっと日常からとても遠いところにある。いつだってリヒャルトの情熱が傾けられるのは彼の研究だけだろう。
それでも夢を見てしまいそうになる。
結婚相手なんて誰でも良かったはずなのに。身分の釣り合いがとれていれば良くて、あるいは賢いとか何か一芸に秀でてくれていればそれでいいと、その程度のことのはずだったのに。
「僕の妻になってほしい」
この人にそう告げられることを、望んでしまうなんて。
「……責任ならとらなくていいって言ったわ」
絞り出した声は震えていて、コリンナはみっともなくて悔しくなる。どうしてこの人の前だといつも通りに出来ないんだろう。
理想のコリンナ・シュタルクはもっと優雅でうつくしく、余裕に満ちていたはずなのに。
「その話はもういいよ。終わったことだ。それを抜きにして僕は君に結婚を申し込んでる」
きっぱりと言い切られてコリンナは動揺した。
結婚を? 申し込まれている? 本当に? 本気で?
「な、なんで?」
「君が好きだからっていうこと以外に理由が必要かい?」
混乱しているコリンナに、リヒャルトは首を傾げながら問い返す。
(こ、この人もしかして私が好きって言ったの?)
跪いたまま見上げてくるリヒャルトの顔にコリンナはうっと言葉に詰まる。いつもなら長くて鬱陶しい前髪があるのに今日はリヒャルトの青い瞳がまっすぐに見つめてくるから全然慣れない。
なんだか無性に逃げ出したいのにリヒャルトがコリンナの手を握っているので逃げられもしない。
「だ、だってあなたあの時誰かと勘違いして私にキ、キスしたんでしょう!?」
「誰かと勘違いしたわけじゃないよ。まぁいい夢を見ていたら夢と現実がわからなくなっただけで」
「いい夢?」
一体どんな夢を見たら人に間違えてキスするというのか。コリンナは眉を寄せてリヒャルトを見下ろした。
リヒャルトはゆっくりと立ち上がり、コリンナの手を握ったまま笑う。
「夢の中では君と僕は夫婦になっていた」
「ふっ……」
(夫婦!?)
コリンナは思わず声をあげて、慌てて自分の口を塞いだ。忘れかけているがここはテラスだ。あまり大きな声を出したら誰かが来るかもしれない。リヒャルトが照れもせずにさらりと言うものだからこんなに動揺している自分がおかしいのかと思えてきた。
(じゃ、じゃあ何? あの時の甘い声とかはつまり……つまり全部、私に向けられていたものだっていうこと?)
いや正しくは夢の中のコリンナに、なのだが。
あのリヒャルト・グレーデンが、あんなにいとおしげに触れるのだ。夢の中では。……あるいは未来の、彼の妻となったコリンナには。
「……も、もしかしてあなた、けっこう私のことが好きなの?」
「……さっきからそう伝えているつもりなんだけど」
ぼそり、と告げたリヒャルトの顔は少し不本意そうで、でもその頬はいつもよりほんのり赤くなっていて、それが何より嘘ではない本音なのだと告げていた。
「だいたい、建国祭だってめんどうだから不参加でも良かったんだ。でも君が会いに来なくなったから仕方なくこうして来たんじゃないか」
「そのためにわざわざ髭をそって髪も整えたの?」
「……さすがに君に恥をかかせるわけにはいかないだろう」
僕自身はなんて言われようとどうだっていいんだけど、とリヒャルトは言う。
愛されている、と思った。
めんどくさがりで引きこもりで自分の容姿なんて欠片も気にしなかったこの男が、コリンナに会うためにわざわざここまでするなんて。愛以外に何があるっていうのか。
コリンナはリヒャルトの手を握り返して、こほん、とひとつ咳払いをした。
「結婚には条件があるわ。髭は必ず毎日剃って」
「……それが条件?」
なんで? と言いたげなリヒャルトに、コリンナは照れながらそっぽを向いた。
「……キスするとき邪魔なの」
コリンナの赤く染まった頬に手を添えてリヒャルトは微笑む。
「……それなら今は、キスしても?」
意地悪そうに笑うリヒャルトに、コリンナは負けじと背筋を伸ばし、その首に腕を回す。
「どうぞお好きに?」
どちらかがくすりと笑って、やがて二人の影が重なり合うまで時間はそうかからなかった。
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