第3話

 ――そうして、とりあえず侯爵と会う日が決まったものの。


「……私が侯爵家にわざわざ会いに行かないといけないなんてありえないわ」

 女性に足を運ばせるなんて、とコリンナはため息を吐き出す。


 グレーデン侯爵家に到着するなり、家令が慌てて出迎えてくれたものの、グレーデン侯爵本人は未だに姿を見せていない。

 応接間に通されて、お茶が出され、既に一杯目が飲み終わろうとしているというのに。

(どれだけ人を待たせるつもりなのかしら? まさか会う約束をしていたのに忘れているの?)

 最初こそ愛想よくしていたものの、コリンナはもう不機嫌を隠すつもりはなかった。さっさと顔を合わせて帰りたい。帰ってエミーリアとお茶をしているほうがずっと有意義な時間を過ごせるというものだ。

「侯爵様はお忙しいのかしら?」

 追加のお茶を注ぐメイドに声をかける。

 コリンナの不機嫌そうな声にメイドはびくりと怯えたようだった。怖がらせるつもりはないが、今は笑顔を作る気分にもなれない。

「えっと、その、たぶん今日も離れにいらっしゃるのかと……」

 もう少々お待ちください、と小さな声で告げられる。たどたどしい口調にそっとため息を吐く。新入りのメイドなんだろうか。

「離れ?」

 グレーデン侯爵はこの屋敷の主なのに、どうして離れにいるのかとコリンナは眉を顰めた。

 コリンナのその表情に、メイドはますます怯える。コリンナのうつくしい顔は少し表情が冷たくなるだけでとても寒々しくなるのだ。

(……埒が明かないわね)

 向こうがお見合いに乗り気ではないのは承知しているつもりだが、ここまで放置されると当然腹も立つ。コリンナは今までこんなに放っておかれたことはなかった。

「離れってあの建物よね?」

 丁寧に手入れされた庭木の向こうに建物が見える。庭にあるには大きすぎるし、先ほどから違和感があったのだ。

「はい、そうです」

「私があちらにお伺いします。侯爵様が離れにいらっしゃるのは確かなんでしょう?」

 そう言ってコリンナは立ち上がった。

「え!? いえ、あの!」

 すたすたと歩き始めたコリンナのあとをメイドが追いかける。しかしコリンナの細腕を掴んで引き止めるわけにもいかず、メイドはあわあわとするばかりだ。

 庭に出れば離れはそれほど遠くない。コリンナの勝手な振る舞いは褒められたものではないが、客人を放置し続ける侯爵相手に遠慮するのも馬鹿馬鹿しくなった。

(時間稼ぎの手段は他にもあるんだもの、悪いけど一言文句を言っておしまいね)

 離れの前に辿り着くと、コリンナは自らの手でドアノッカーを叩く。離れといってもしっかりとした造りの小屋、という感じだ。貴人の療養に使えるようなものではない。

「侯爵様? いらっしゃるんでしょう?」

 父が聞いたら怒り出すかもしれない大きな声でコリンナは侯爵に呼びかける。

 中では話し声がした。コリンナの登場に驚いたのか、たぶん侯爵と、家令が何かを言っているんだろう。

「お待ちくださいリヒャルト様!」

 悲鳴のような家令の声のあとに、離れの扉が開く。

 現れたのはボサボサの灰色の髪に、よれよれのシャツを着ただけの男だった。前髪が長すぎて目の色はよくわからないし、顎から口の周りにかけては髭が伸び放題になっている。

 離れにいるのはグレーデン侯爵だけのはずだ。何より今家令はこの男のことをリヒャルトと呼んだ。

 つまりこれは、もしかしてもしかしなくてもグレーデン侯爵。リヒャルト・グレーデンなのか。

「あ……」

 コリンナは唇を震わせた。

 信じられないと言いたげに目を見開く。

「君がルドルフの妹? 約束を忘れていたわけじゃないけど、三日も徹夜してると曜日感覚がすっかりなくなっていてね。悪いけど今日は帰ってくれないか」

 リヒャルトはぼりぼりと頭をかきながら、待たせたことへの謝罪もなくそんなことを言ったのだ。

 このコリンナ・シュタルクに。社交界の花、手に入らぬ高嶺の花と呼ばれるコリンナに。


「――あなたの屋敷に鏡はないの!?」


 コリンナは叫んだ。

 今回ばかりは意訳の必要もない、まわりくどい嫌味でもない、ただただ言葉通りの問いだ。

「……は?」

「何をどうやったらそんな格好になれるのよ!? 髪はいつから洗ってないの梳かしてないの!? 初対面の人に会うならせめて服くらい着替えなさいよそのシャツもいったい何日着たままなの!? あなた、そんなに前髪が長くて自分の顔が鏡で見えるの!?」

 愛想などもとからないが、遠慮もなしにコリンナは叫んだ。驚くとかそういうものは一目で吹き飛んでしまった。

「明日また来ますから、もう少しまともな格好をしていなさい! あなたたちも主人を甘やかしてばかりいないできちんとさせなさいよ身体にも悪いでしょう!?」

 家令とメイドに向かってびしっと告げると、コリンナはドレスの裾をふわりと揺らして踵を返す。

 リヒャルトも家令もメイドも思わずその背筋の伸びた後ろ姿を見送ってしまったが、すぐに家令たちは慌ててコリンナを追いかけた。


「……は? また明日来る?」


 一人残されたリヒャルトだけが、めんどくさそうに呟いたのだった。



 ――やってしまった。

 コリンナは帰りの馬車の中で頭を抱えていた。

 もうグレーデン侯爵とは関わらない、今回限りでいいと思っていたはずなのに、つい「また明日も来る」と言ってしまった。言ってしまった以上、やっぱり行かないという選択肢はコリンナの中にはない。自分から言ったことは守らなければ。

「だって……あの人があんまりにもひどいから!」

 がっと顔を上げて思わずコリンナは大声を出した。

(いい大人がアレってどう考えてもまずいでしょ!? 仮にもあの人は侯爵なのよ!? 来客の約束を忘れたわけじゃないけど徹夜続きで曜日感覚がおかしくなってた!? 何それ馬鹿なの!? 馬っ鹿じゃないの!?)


 ――そう、コリンナは元来とても世話焼きなのだ。


 もたついている人を見るとあれこれと口出したくなってしまうし、見て見ぬふりというのがとても苦手だ。しまいには手も口も出してしまう。妹のエミーリアがしっかり者なので公爵家ではコリンナのお節介が発揮されることは少ないが、家族はコリンナの性格をよく知っている。

(お兄様、私が黙っていられなくなるのがわかっていたのね……)

 やられた、と思う。

 あの悲惨な姿を目の当たりにしてしまった以上、コリンナはどうやっても忘れることができない。気になって気になってしかたない。どうにかしなければと思ってしまう。

 これは断じて恋などではないし、ときめきなんて欠片も感じていないけれど、あの人をあのまま放っておいたらきっと遠くない未来にあの離れで変死体が発見されるに違いない。しかもその変死体がグレーデン侯爵だと判明するまで苦労しそうだ。

(使用人たちじゃ強く言えないみたいだったし、あの人いつかコロッと死んじゃうわ)

 コリンナの言うことを素直に聞くとは思っていないが、口うるさい人間も時には必要だ。むしろコリンナはまったくの赤の他人だし、思いっきりあれこれ指摘したところで将来の禍根になるわけではない。

 お互い時間稼ぎのための見合いだ。好かれようと猫を被る必要もないし、こうなったらあの侯爵がせめて普通になるくらいまではとことん付き合ってやろうじゃないの、とコリンナは腹を括っていた。

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