救難信号

memento mori《死を思え》――内海 疾風

 青天の霹靂とはこのことを言うのだろう。

 スマートフォンの通知欄には、「若葉摂津せっつ公爵死去」と表示されている。

 

 最近は会っていなかったが、25年からの付き合いだ。わたし達の研究所を建てる際に、理念によく協賛してもらい、便宜を図ってもらったものだ。

 

 レオに紹介してやったあの日も懐かしい。あの時レオは若葉さんに会うのをだいぶ渋っていた覚えがある。

 

 レオと言えば、今日弥生22日はあいつの命日だな。

 何故こういういい奴から死んでいくのかねえ。

 

 スマートフォンのロックを解除すると、ニュースアプリの通知がチャランチャラン。それに紛れて、スケジュールアプリの「レオナルド・Dディー・アルバーンの十九回忌」という通知もあった。

 

 もう18年前か。ということはルンちゃんは……。21歳くらいか。

 

 研究所内のカフェに寄り、わたしのマグカップでコーヒーを貰う。そして、受付に挨拶だけして所長室に向かう。

 もう第一線からは離れたし、所長と言っても大したことはしていない。だいたい面倒な仕事は事務方か副所長がしてくれるから、わたしはお飾りというところだろう。

 

 わたしはデータを見る時は紙が好きだ。所長室の側面の壁は本棚になっていて、その棚はファイルでほとんど埋められている。

 

 久しぶりに、レオの研究内容について懐かしんでみようと思った。

 レオの研究論文も紙として残してある。

 

 青い背表紙のクリアファイルを取り出し、確か初期にGeM-Huについて研究していたなとパラパラページをめくる。

 

 そして、微かな違和感を覚えた。

 クリアポケットの中に差し込まれている論文の端が折れているのだ。

 

 いや、わたしがしたことなら何も言えないが、わたしはこういうところで神経質だから、どうもわたしがクリアポケットに紙を差し込んだとは思えないのだ。

 

 誰かが資料を借りたなら一言欲しいものだ。

 しかも、ちょうどわたしが気にしていたGeM-Huの論文だ。

 

 クリアファイルをデスクの上に置き、抜き出した論文を読み始める。

 

 この論文は、瑞穂分子生物学会で一蹴されてしまったが、わたしとしては、遺伝子工学の研究者は一度は考えたことのある説だと思う。

 

 ヒトの遺伝子組み換え。Geneticallyジェネティカリー Modifiedモディファイド Humanoidヒューマノイド

 

 学会でタブー視されてきた論題に真正面からぶつかっていったレオは、異端のような扱いを受けたものだ。

 この論文だって、遺伝子汚染を軽視したような論調だったりする。

 

 最終的に、「GeM-Huの技術があれば、実験を重ね、不老不死の研究も可能」とさえ言っている。

 

 まあ彼が不死に関心を持つのも無理はないが、人格破綻がこういうところに出ると、なかなか受け入れられないわけだ。

 

 わたしとしては、どちらの意見も尊重したい。

 レオは大切な人を亡くしたくないと思っている訳だ。でも学会の理事長の言葉を借りれば、「我々は人体実験をしてまで子孫の不死を目指している訳ではない」というのも頷ける。

 

 また学会でこの論文を話題にすればまた議論になるだろうな。

 

 コーヒーを飲もうとしたが、いつもより熱く、口をつけた程度で飲めなかった。ただ、いつもより苦いことは分かった。

 新人のバリスタか? この研究所のバリスタならわたしの好みが分かっているかと思ったが。

 

 論文をクリアポケットに戻す。紙の端が折れていないかを確認しながら。

 

 デスクに向かい、パソコンを起動してすぐ、変なメールに気がつく。発信元のアドレスがめちゃくちゃだから、迷惑メールだとは思う。セキュリティーソフトの網をくぐり抜けるとは不思議なもんだが。

 そしてそのメールの数だ。普段2桁あれば多いくらいの受信数が、今日は200から来ている。そしてまた受信の通知。

 

 誰か手の空いている事務員に内容の確認を手伝ってもらおうと立ち上がろうとする。そしてたまらず、デスクに手をついた。

 やけに疲れている感じがする。いや、朝通勤していた時よりも辛い。

 動悸がする。心不全か?

 何にしろ、明らかに体調を崩したようだ。

 

 スマートフォンを取り出し、副所長への通話ボタンを押したところで、床に倒れ込んでしまった。

 

 どんどん呼吸が荒くなるのが自分でも分かる。

 今まで大病を患ったことはないのだがなあ。

 

 副所長が電話の向こうで何度も呼びかけるのを聴きつつも、何も答えられない。

 

 何故今コーヒーのことが思い浮かんでいるのだろうか。やっぱりあれがおかしかったのか?

 

 もし今死んだら、後悔するだろうなあと思いつつも、意識を保てず、わたしはそれを手放した。

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