佳乃とのこと。
明け方ふと目が覚めた。
見慣れない天井の模様が飛び込んできて一瞬「遠征にでも来たんだっけ」と考えて、いいやちがう、と思い直す。ここは簪の家だ。
「のど乾いたな」
枕元にあったスマホで時刻を確認すると六時前。みんなまだ静かに寝ている。
おれは周りを起こさないようそっと布団から抜け出した。ひやりとした廊下に出て、突き当たりの洗面所を目指す。
「ん?」
ゴトゴトと物音が聞こえてきた。
まさか幽霊……!?と一瞬身構えたものの、庭に面した部屋のひとつに灯りがついている。あそこは確か台所だ。
「――うむ、なかなか美味だ」
こっそり中を覗くと割烹着姿の佳乃がコンロの前でなにやら仕込み中。味噌やしょうゆの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。匂いに誘われるままふらっと一歩踏み出した。
「いい匂いですね委員長」
佳乃がぴょんっと飛び跳ねた。
「うわ!……なんだ鈴木か。びっくりさせるでない」
「すみません。喉乾いちゃって」
「仕方ないな。ちょっと待っていろ」
そう言って食器棚からグラスを取り出すとたっぷりの水を入れて渡してくれた。ごくごくとあっという間に飲み干してしまう。佳乃は呆れながらおかわりもくれた。
コントの上には大きな鍋が二つ乗っていて、ぐつぐつと何かが煮込まれている。
「これは何ですか?」
「朝食だ。土鍋で炊いたご飯を食べてもらいたくてな」
「委員長自らですか?」
「ホストとしてゲストをもてなすのは当然のことだろう。藤堂も住み込みではないので出来ることは自分でやる、それがわたしの主義だ。良かったら食べてみるか」
そう言ってスプーン一杯分の白米を差し出される。
白く輝く白米からひっきりなしに立ち上る湯気。口に入れた瞬間に甘味が広がり、えもいわれぬ幸福感に包まれた。
「うまい……! すっごく美味いです」
不安そうにしていた佳乃は見る見るうちに瞳を輝かせて満面の笑みを浮かべた。
「良かった。鈴木が言うなら安心だな。煮物も味見してみないか?」
「します!」
口に入れるもの入れるもの全てが美味い。
佳乃は勉強だけじゃなく料理もできるんだ、すごいな。
しばらくして太陽が昇り、台所にも日差しが入ってくるようになった。
一通りの支度を終えた佳乃は満足そうに微笑む。
「さて皆が起きてくる前に洗い物を片付けておこう」
「あ、おれも手伝います」
流しの前で並んで食器類を洗っていく。
澄んだ水が気持ちいい。
「先ほどニュースを確認したら道路の水は引いたようだ。朝食が終わったらみんな無事に帰れるぞ。引き留めてすまなかった」
「いえいえ、修学旅行みたいで楽しかったですよ」
「テスト勉強もよく頑張った。次の期末は大いに期待しているぞ」
「ぐ……! 楽しみにしていてくださいアハハハ」
やばい、こうしている間にも英単語が頭から抜けていきそう。
佳乃はしみじみと息を吐いた。
「……本音を言えば不安だったんだ。わたしはどうにも独善的で高圧的な態度をとってしまうから、テスト勉強させられた上に帰れないとなったら不満が募っているのではないかと。だから昨夜は目が冴えて眠れなかったんだ」
へぇ、意外。佳乃でも不安で眠れないことがあるんだな。
「なんか試合前のおれみたいですね」
「鈴木でも眠れない夜があるのか?」
「ありますあります。うちは両親揃ってバドのコーチなのでプレッシャーがすごくて。でも口で『ガンバレ』じゃなくて接し方がパないんですよ。前日は必ずトンカツ、部屋には必勝祈願のお守りやお札が置いてあるんです。毎回ですよ。だから僅差で負けたときの情けなさと惨めさと申し訳なさといったらもう……。どんな顔して家に帰ればいいのかガードレールの前とかで悩みますもん」
「……大変だな。わたしたちは似た者同士ということか」
「ですね。でもおれ、バドで勝てない自分には価値がないと思ってましたけど、最近はそうでもないんですよ」
なぎさに会ってからだ。
なぎさはバドじゃないおれ自身を好きになってくれた。認めて、甘えて、頼って、鈴木涼太という人間を丸ごと肯定してくれた。
「だから委員長もムリして肩ひじ張らなくてもいいんですよ。毎日そんなんじゃ息苦しいでしょう」
「…………鈴木」
心なしか佳乃の目が潤んでいる。きっと朝日が眩しいせいだな。
「朝ごはんだって完璧じゃなくていい。味が濃かったり薄かったり塩と砂糖を間違えたり、少しくらい失敗していいんですよ。それも含めていい思い出になるじゃないですか。昨日の花火だってうまく火がつかなかったり煙でむせたりしましたけど楽しかったですもん。桜庭なぎささんも喜んでました。もちろん他のみんなも」
頬をゆるめていた佳乃がハッとしたように顔をこわばらせた。
「――桜庭、か」
キュッと蛇口をひねり、何か言いたげな目でおれを見つめてきた。
朝日を浴びたその顔に一瞬目がくらむ。
「前々から鈴木に聞きたかったことがある」
「ん? なんですか?」
大きな瞳とぱちぱちと二回ほど瞬かせたあとで、佳乃はためらいがちに口を開いた。
「──桜庭なぎさとの本当の関係についてだ」
どきっと心臓が鳴った。
「以前聞かれたことがあっただろう? もし桜庭なぎさが本気で、自分も本気で好きになったらどうしたらいいのかと。わたしは深く考えもせずシェイクスピアの言葉を引用して会話を打ち切ってしまったが、本当のところはどうなんだ?」
そうだ。傘を貸してやったあの日、佳乃から言われた。
ロミオとジュリエット内のセリフ『憎らしい
「おれは――……」
なぎさのことが好きだ。この気持ちにウソはない。
だけど佳乃に面と向かってそれを言っていいのだろうか。
おれとなぎさは別段憎みあっていたわけじゃない。
お互いのことをなにも知らない状態から惹かれあって、たまたまクラスが別だったから表向きいがみ合っていただけだ。
――――本音を言えば、佳乃たちのせいで。
これはその意趣返しになってしまうだろうか。
「……じゃあ、もしも、おれが桜庭なぎさに本気で恋していると言ったら……認めてくれますか?」
――――ぽたり。
水漏れ……じゃない。
「委員長?」
おれは目を疑った。
佳乃の瞳から大粒の涙がこぼれているのだ。
なんで?
どうして?
おれに責められたと思ったのか?
「ち、違いますよ委員長、おれは別に非難しているわけじゃなくて」
「みるな――!」
佳乃は顔を覆いながら走り出した。
廊下に出ると寝起きのなぎさと月乃が向こうから歩いてくる。
「あ、鈴木涼太くんと佳乃さん。おはよう」
「んーいい匂い……ん? なになに?」
佳乃は無言で二人の間を走り抜けていく。なぎさたちは目を丸くしていたが戸惑いを浮かべておれを見た。
「なにかあったの涼ちゃん」
「カノちゃん泣いてたみたいだったけど」
「どうしたはおれが聞きたいくらいだよ。とりあえず追いかけてみる」
しかし角を曲がったときには佳乃の姿がなかった。
見失ったのだ。ただでさえ迷路のように広い屋敷の中、どうやったら見つけられるだろう。
「あ、おはようございましゅ」
「ちーっす」
庭先からポプラと矢島が声をかけてくる。ちょうどいい。
「なあ佳乃委員長見なかったか?」
「佳乃しゃんならさっき向こうの方に駆けていきましゅたけど」
「なにかしたんっすか?」
「なにもしてねぇよ!」
つい声を荒げてしまったが謝る余裕もなく、ポプラが指さした左手の奥に向かって走った。
「あれ、行き止まり?」
――いや、二階へ続く階段がある。階段下に割烹着が脱ぎ捨ててあるので間違いない。
「委員長? いますか?」
急な階段をゆっくりと登りながら声をかける。
二階は物置になっているようで、いろんな箱が所せましと置いてあった。佳乃は小さな窓の前で膝を抱えている。
おれは足音を立てながらもゆっくりと近づいた。
丸まっていた小さな背中がびくりと震える。
「委員長、どうしたんですか突然走り出して。びっくりしましたよ。なにか変なこと言っちゃいました? だったら謝りますから」
できるだけ優しく声をかけた。
女の子の扱いはよく分からない。初めてできた彼女はなぎさだ。
「……いいや、鈴木は悪くない。悪いのはわたし。だから自己嫌悪して反省しているのだ」
「なにに対しての自己嫌悪ですか?」
そっと隣に腰を下ろした。
でも佳乃は顔を上げようとしない。
「鈴木に問いかけておきながら逃げ出したこと、廊下を走ったこと、すれ違ったみんなと朝の挨拶をしなかったこと、それから、なぜそんな失態を犯したのか分からない自分に自己嫌悪しているんだ」
「わぁ、めちゃくちゃ真面目じゃないですか」
佳乃はふっと鼻を鳴らしてよりいっそう小さくなった。
「ああ、真面目だ。バカ真面目。母や祖父の言いつけに従い、簪家の次期当主として恥じない行動をする。将来は家が決めた相手と結婚して子を成す。それがわたしのアイデンティティーだったはずなのに……どうして……どうしてこんなにモヤモヤするのか」
「落ち着いてくださいよ委員長。きっと腹が減ってるんですよ。あと寝不足かもしれません」
「──うるさいっ!!」
必死になだめようとした矢先、佳乃がおれの懐に飛び込んできた。
あまりに突然のことにバランスを崩して床に倒れ込む。馬乗りになった佳乃の涙がおれに降りそそぐ。
「教えてくれ鈴木。もしおまえが桜庭なぎさのことを好きだとしたら、どんな手を使ってでも止めたいと思うこの苛烈な思いはなんだ? 胸の痛みはなんだ? わたしは一体どうなってしまったんだ?――――教えてくれ! 頼む!」
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