プールデート

「解散? なにそれ?」


 プールの水面から顔を出したなぎさが小首を傾げている。


 ここは市内にある屋内プールだ。佳乃・月乃の祖父である青葉丘高校の理事長は手広く商売をやっており、このプールの運営にも携わっているため青葉丘の生徒は割引で入れる。

 今日はおれたち二人とも部活が休みだったのでどこでデートするか相談した結果、ここに来た。平日の夕方なので人影はまばら、おれたちがいる50メートルプールに至ってはだれもいない。ほぼ貸し切り状態だ。なんとも運がいい。


「さぁ? 詳しいことは何も。明日の朝、必ず正面玄関前の掲示板を確認しろとしか言われてない」


 プールサイドに腰掛けて足を動かすと小さな波紋が広がった。なぎさはその周りをゆらゆらと泳ぎ回っている。


「そういえばルナっちもなんだかソワソワしてたなぁ」


「なんで? 理由は?」


「分かんないけど、妙に浮かれてるっていうか落ち着きがなかった。話しようとしたら忙しいから~って逃げられちゃったけど」


 水面から長い脚を伸ばしてシンクロナイズドスイミングみたいに天井に向ける。いつもにも増して白い肌が眩しい。


「ま、考えても仕方ないじゃん。明日の朝にならないと答えは出ないよ」


 話の途中でおもむろにパシャパシャと泳ぎだした。水の中にいるとじっとしていられない性分らしい。

 さすが競泳のエリートだけあってきれいなフォームのクロールだ。ひとかきで何メートルも進み、あっという間に反対側までいってしまう。


 なぎさは本当に水が好きなんだな。

 正直おれは泳ぐのが得意じゃない。昔プールで足をつって死にかけたせいで、水中にいると首を絞められているみたいに苦しくて怖いのだ。液状のモンスターだと思ってる。


 だけどなぎさがいる周りの水はおれが知っている水とは別物みたいだ。水面は光を反射してキラキラと輝いて見え、しなやかで、包み込むような穏やかさがある。水に愛されたなぎさはおとぎ話の中の人魚みたいだ。


 ──考えても仕方ない。それもそうだ。

 ここでヤキモキしてても進展はない。無為に時間が過ぎていくだけだ。


「でもなぁ……」


 気になるのは佳乃の表情。

 ここ数日覇気がないなと思っていた。深く思いつめて悩んでいるような……。


「えぃっ!」


 パシャン、と顔に飛沫がかかった。なぎさの仕業だ。


「こらぁ、なにすんだよ」


 レンタル水着なので水がかかっても平気だけど不意打ちはよろしくないぞ。

 なぎさは楽しそうに笑っている。


「ごめんなさい、だって涼ちゃん眉間に皺寄せて難しそうな顔してたんだもん」


 そう言うと、手をついてプールサイドに上がってきた。


 どきっと胸が鳴った。


 伝説の人魚は美しい歌声で船乗りたちを酔わせ、船を難破させたという。

 現代の人魚とも言うべきなぎさはと言うと……。


「――ねぇ、どうしてこっちをちゃんと見てくれないの? 涼ちゃん」


「どうしてって……そりゃあ……」


 分かってて訊いてくるのはなぎさのズルいところだ。


 最初「プールに行きたい」と聞いたおれは、当然なぎさはスク水か競技用の水着を着用すると思っていた。

 が、更衣室から出てきたなぎさはどうだ。


「まさか普通の水着を用意しているなんて思わなかったから」


 真っ白なビキニを着て現れたなぎさに卒倒しそうになった。

 適度に筋肉がついた体にはとても良く似合っていたし、生来のスタイルの良さもあって目のやり場に困ったくらいだ。


「おニューなんだよ? 可愛いでしょ? 涼ちゃんに一番に見て欲しかったんだ」


「……! まさか最初からそのつもりで!」


 ハッとしてなぎさの顔を見ると、


「ふふふ」


 と口元を押さえて笑っている。

 そうか、このデートは仕組まれたものだったのだ。


 平日のこの時間に人が少ないこと、部活が休みだということ、デートに屋内プールを選んだこと。すべてなぎさによる策略。おれはまた騙されたのだ。


「……涼ちゃん、怒らないで」


 スッと伸びてきた手がおれの手の甲に重なる。


 どっくん、と大きく心臓が鳴った。

 水に濡れたなぎさは心臓が止まりそうなくらいの美少女だ。黒く濡れた髪からぽたっと滴った水は鎖骨を伝って白い水着に隠された胸元へと吸い込まれていく。つい目で追ってしまった。


「私たちナイショで付き合っているじゃない? ここ最近お互いに部活が忙しくなってきたし、大会前には全然会えてないじゃん。だからどうしても涼ちゃんとイチャイチャしたかったの」


「……そっか、なら仕方ないな」


 やっていることはただの色仕掛けだけど熱意は買う。

 そっと手を握り返すと、なぎさは嬉しそうにほほ笑んだ。


「私ね、教室で授業受けていると時々考えるんだ。隣の1組で、涼ちゃんはいまどんなことしているんだろうって。幽体離脱して覗きに行きたいなぁって」


「おれもだよ。もしなぎさが部活で疲れて寝ていたら起こさなくちゃって思ってる」


「涼ちゃんは授業中に寝てないの?」


「寝てる。結構がっつり寝てる」


「やっぱりね。もしうたた寝していたら起こしてあげたいけど、こっそり寝顔を見ているのも幸せかなぁって考えちゃう」


 ――うん、おれも知りたいなぁと思う。


 なぎさは普段どんなふうに授業を受けているんだろう。

 真面目にノートを取ってる? それとも部活で疲れてうたた寝している? 国語の朗読はどんな風に読んでる? 先生に指名されて黒板に問題の解答書くときはどんな字だ?


 考えて考えて、早く会いたくなる。


「あーあ、涼ちゃんと同じクラスだったら良かったのになぁ」


「おれも、なぎさと同じクラスだったら楽しかったろうなって時々考えるよ」


「私、憧れなんだ。合図したわけじゃないのに授業中にバチっと目が合ってドキッとするの」


「おれはメール送りあいたいな」


「手紙でもいいよね、スリルがあって」


「体育では男女混合の競技なら一緒にできるよな、バドミントンとか卓球とか」


「いいね。他にも勉強教えあったり一緒にテスト勉強したり、教室で一緒にお弁当を食べるんだ」


「うん、だれの目も気にせずに交際できる」


「あーあ、どうして私は2組で涼ちゃんは1組なんだろう」


 やりたいことが募れば募るほどクラスが別という壁が立ちふさがる。


 青葉丘では卒業するまでクラス替えはない。

 お互いのクラスを代表する佳乃と月乃の関係は少しずつ良くなっているようだけど、まだ友好的とは言い難い。そもそも1組と2組の対立は「伝統」なのだ。そんなものぶち壊せと思うけど固定観念はなかなか覆らない。

 と同時に、別の問題も発生しているのだ。


「この前、カラオケ店で鉢合わせした2組と5組の生徒数人がちょっとしたケンカ起こしたらしいよ。お店から苦情が来ていたらしいってルナっちも困ってた」


「そんなことがあったのか」


 青葉丘はスポーツエリートが集まる1、2組は優遇しているが3~6組の他のクラスのことは二の次になっている面がある。知らないうちに差別意識・格差意識が生まれて衝突につながることもあるのだ。


「――なんだかやるせなくなってきちゃった。私、潜るね」


 そう言って、ほとんど飛沫を立てずに水の中に潜り込んだ。

 辺りは静寂に包まれ、おれだけがプールサイドに残される。


 ひとりぼっちになって、改めて考えた。

 1年1組の「解散」ってなんだろう。


「……ん? おーいもしもし、なぎささーん?」


 まだ浮かんでこない。競泳が得意ななぎさは潜水も得意だ。心配はないと思うが……、


「さすがに長くないか?」


 もしかして本気で溺れてるんじゃないか?


「なぎさ? なぁおい、なぎさ……」


 心配になって身を乗り出すのと同時に水面からヌッと現れたなぎさと唇が触れ合った。


「作・戦・成・功。唇の位置もタイミングもばっちり、私たちすごく相性がいいみたい」


 勝ち誇ったようななぎさがとんでもなく憎らしくて愛しい。

 こんな不意打ちキスってあるか。


「あぶないだろ! もしほんのちょっとでもズレてて、おれの歯とか頭でなぎさがケガしたらどうするんだよ!」


 思ったよりも声を荒げてしまった。

 さすがのなぎさも驚いたらしく、眉を下げてしゅんと項垂れる。


「……ごめんなさい。もうしません」


 あぁ違う。謝らせたかったわけじゃないんだ。

 ただ危ないイタズラはしないで欲しくて……。


「私、頭冷やしてくるね……」


 ゴボゴボと息を吐きながら沈んでいこうとするので慌ててプールに飛び込んだ。

 泡になって消えてしまいそうななぎさをぎゅっと強く抱きしめる。


「不意打ちなんかしなくても、なぎさが望むならいつでもキスしてやるから」


「あ……」


「だからケガにつながりそうな無茶はするな。心配するだろ」


 自分で言いながら恥ずかしくなってきた。

 おれはいつからこんなフリーキス野郎になったんだ?――あぁ、なぎさに会ってからだ。なぎさのせいで、こんなにも心が揺れるんだ。怒ったり心配したり不安になったり幽体離脱したいと思ったりするんだ。全部が全部、なぎさのせい。


 なぎさのことが好きでたまらないから。


「……さっき言い忘れたけど、その水着、すげー似合ってる。だから……その、他の男の前ではあんまり着てほしくない」


「うん、分かった、涼ちゃん専用にするね」


 専用ってなんだよ変態かって頭の中で突っ込みながらもちょっぴり喜んでいる自分がいる。

 おれだけが見られる白い水着姿――うん、変態だな。


「好きだよ。――涼ちゃんのことが好き。変態でも大好き」


 まるで心を読んだように抱き返してくるなぎさ。

 「変態同士だな」とお互い苦笑いして、どちらからともなくキスした。


 周りはしん、と静まり返って水音ひとつしない。

 心臓の鼓動だけが聞こえる。

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