簪月乃・佳乃編

いけないこと

 いけないこと。

 

 悪いことをしてはいけない。

 おじい様の顔に泥を塗るようなことをしてはいけない。

 学校をサボってはいけない。

 毎日お勉強とお稽古をしなくてはいけない。

 簪佳乃に負けてはいけない。

 友だちの彼氏を好きになってはイケナイ。


 ――でも、イケナイことをしたくなる時もあるのよ。女の子は。



   ※



「鈴木涼太くん、話があるんだけど」


 放課後、緊張した面持ちのなぎさが廊下で待ち構えていた。


「今日部活動お休みだよね。もし良ければ一緒に帰らない?」


「あ、うん。いま行く」


 おれは教科書やノートやらを慌ててカバンの中に詰め込んだ。


 ――例のデートから約一か月。いまは六月。梅雨まっただ中だ。

 毎日のように降り続く雨のせいで不快指数はピークだが、なぎさと相合い傘できると思えばそう悪くない。


「ごめん。お待たせ」

「ううん全然待ってない」


 並んで歩き出すと背後でクラスメイトたちの「うそ」「マジか」といった声が追いかけてきた。


 おれとなぎさがこうやって肩を並べて歩いているのはホント奇跡みたいなことだ。

 1組と2組は伝統的に仲が悪く、クラスの壁を越えてカップルが誕生したなんて前代未聞。当然周囲の風当たりは強くなる──筈だったのだが、ちょっと意外な事態になっている。


 ひと気のない玄関までやってきたところで、なぎさは足を止めた。


「鈴木くん、後ろ誰もいない?」

「うんいない。前も横も」

「そっか……じゃあ!」


 ぎゅっと腕に抱きついてきた。

 凛々しいクールビューティーから一転、大好きモードへと移行したのだ。


「さっきの台詞言い直してもいい? 涼ちゃん今日は部活お休みだよね。一緒にかーえろー❤」


 驚くほどの変わり身の早さである。


「ねぇねぇ折角だからカラオケ寄って行かない?」


「いいけど、この前みたいに石〇さゆりの『天城越え』熱唱するのは勘弁してほしいな。なんか怖かった」


 女の情念というか、浮気したらコロス! と言わんばかりの歌詞が怖かった。

 しかもなぎさは競泳で培った肺活量と凛とした声でめちゃくちゃ歌が上手いのだ。見た目のビジュアルも申し分ないので、将来的には歌手としてやっていけるに違いない。


「今回は歌わないよ。私は涼ちゃんが歌う独特なアニソンが聴きたいだけ」

「悪かったな、音痴で」

「ううん。一所懸命に歌ってる涼ちゃんすごくカワイイよ」

「お、男に向かってカワイイとか……言うな……」

「あれ? 照れてるの?」


 顔を覗き込もうとするのでカバンで必死に隠した。


 おれのアニソン好きはバドの選手だった両親に起因する。

 息子をオリンピック選手にしたかった両親によって夜遅くまでトレーニングをさせられ、夕飯もろくに食べられずにへとへとになって眠りに就く毎日。

 空いている時間はぜんぶバドに費やし、それ以外は二の次。小学校では同級生たちが見ているアニメやゲームの話題についていくことができなくて寂しい思いをしていた。


 でも辛いことばかりじゃなかった。

 年に数回、ご褒美としてアニメ映画を観に連れて行ってもらったんだ。そのまま外食して、普段食べられないような豪勢な飯を食べる。アニソンにはその時の楽しい思い出が宿っているのだ。だから試合前に聴くと自然と集中力がアップする。今でも欠かさず行っているルーティンだ。


 逆に言えば、いまのおれがカラオケで歌えるレパートリーはほぼアニソンだけ。

 アニソン自体はもちろん好きだけど、大好きな彼女に歌で「スキ」と伝えられるような、そんな曲を一つや二つ覚えてもいいかもしれない。


「さーくーらーばさぁーんっっっ」


 びくっ。

 突然なぎさが硬直した。


「部活サボってどーこーにいくのかなぁああああーーー」


 地の底から噴き出したようなオドロオドロシイ声とともに背後から伸びてきた手がなぎさ腕をぐっと掴んだ。


「ひゃん! 部長!」


 身をすくめるなぎさの視線の先には眼鏡をかけたポニーテールの三年生が立っている。顔を引きつらせて鬼のような形相をしているのは水泳部の女部長さんだ。


 相手を確認するやいなや、なぎさは急に咳き込みはじめた。


「すみません部長、きょうは風邪気味のため練習はお休み……」

「男とイチャイチャしていてどこが体調不良なのよ! さっさと着替えなさい!!」


 問答無用。

 なぎさの腕をがっしりと掴んで部室へと引きずっていく。


「あーん涼ちゃぁーん……」


 頑張れなぎさ!

 負けるななぎさ!

 ファイトだなぎさ!

 連行ドナドナされていくなぎさに精いっぱい手を振った。


「――なぁ鈴木」


 横から呼ばれてびくっと固まった。

 まさかおれにも部活からの使者が来たのか(いや今日は休みのはずだ)……と思って隣を見ると、クラス委員長の簪佳乃が腕を組んで佇んでいる。


「なんだ、びっくりさせないで下さいよ委員長」


 ほっと胸をなで下ろすと鋭い眼光がおれを射抜いた。


「おまえが勝手に驚いただけだ。未熟者め。」


「ち、ちなみにいつからそこに……?」


「ついさっきだがそれが何か?」


 身長140センチ台のこの小さな女の子(失礼)が、1組を牛耳っているボスだ。青葉丘高校理事長の孫娘であり、小さいながらも武芸全般に秀でた天才少女。居丈高な口調はともかくとして行動力や統率力、そして面倒見の良さもあってクラス内では一目置かれた存在になっている。


「ところで鈴木。近頃とみに桜庭なぎさと親しくしているようだな」


 上半身をひねりながら大きな瞳で見つめてくる。

 ぎくっ。とうとうバレたか?


「まさか、とんでもない。を実行中ですが、なにか不都合でもありますか?」


 冷や汗をかきながら必死に笑顔を浮かべた。


 じつは、おれとなぎさはとは思われていない。


 正直理解しがたいんだけど、1組の中でおれは桜庭なぎさを堕とすための演技をしていると思われているのだ。

 だから一緒に歩いていてもだれにも糾弾されないし、なんならクラス内ではヒーロー扱いだ。素の姿を知らない1組の生徒たちにとって桜庭なぎさは絶対攻略不可能なクールビューティーなのだ。

  

 一方、なぎさの方でもおれと一緒にいるのは1組の内情を探るためと思われているらしい。


 一体どうやったらそこまで歪曲できるのか謎だ。

 きっと敵対しているがゆえに色んな思惑が入り乱れて真実な捻じ曲げられているのだろう。


 とは言え、おれたちにとっては渡りに船。

 二人で相談した末、勘違いされたままイチャイチャできるのならそっとしておこうという結論に至った。


 卒業間近ならともかく、入学してまだたった二ヶ月。クラス替えがない限り二年半以上をそれぞれのクラスで過ごすのだ。お互いのためにも波風立たせる必要はない。

 たぶんクラスの何人かは真実に気づいているんだろうけど、一にも二にもスポーツ優先の彼らにとって他人の色恋沙汰はどうでもいいので黙認しているようだ。


「――いや、グッジョブだ。引きつづき頼む」


 ポン、と背中を叩いて佳乃委員長は歩いて行ってしまった。


 良かった。まだバレていないようだ。


 1組と2組の対立は伝統だが、今年はともに理事長の孫である佳乃委員長と月乃がいるせいでさらに悪化している。

 そもそも二人はどうして敵視しあっているんだろう? 血のつながった従姉妹同士なら仲良くすればいいのに。


 超短時間でなぎさと交際に至ったおれからすると、首をひねるしかない。

 もしかしたら血のつながりっていうのは想像以上に越えがたい壁なのかもしれない。




 なぎさと別れた帰り道、思い立ってカラオケ店に立ち寄った。

 次に一緒に来たとき、とっておきのバラードを聴かせてやりたい。レパートリーも増やしたいし、こっそり練習もしておきたかったのだ。


「お待たせしました。207号室へどうぞー」


 店員さんに促され、ドリンクバーでジンジャーエールを入れてから207号室に向かった。各部屋の前を通りかかると中から熱唱が聞こえてくる。いろんな声といろんな曲、上手いのも下手なのもたくさん。


「……ん? なんか超上手いんだけど。しかも英語」


 ある部屋でふと立ち止まった。

 アメイジング・グレイスだ。伸びやかな声でどこまでも高く広く響き渡る。まさしく讃美歌。


 失礼とは承知しつつ、歌い手がどんな人物か気になってガラス張りのドアの向こうを覗いてしまった。

 そこで驚くべき人物を見つける。


「あれって……まさか……!」


 身振り手振りを加えてアメイジング・グレイスを熱唱していたのは2組の簪月乃――愛称ルナっち――だ。


「……んん?」


 こっちに気づいた。

 青灰色せいかいしょくの瞳が楽しそうに細められる。

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