桜庭なぎさの裏事情
「分かったよ。疑ってごめん。なんでもするから許してくれ!」
肩を叩いて必死になだめた。
抱きしめられたことは、正直、うれしい。
でも公衆の面前で長々と抱擁されているのは恥ずかしい。
「……ごめんなさい」
ゆっくりと体を放した桜庭だが、瞳がうるんでいる。まだ何か言いたいことがあるみたいだ。
「ここじゃなんだし場所移そうぜ。立てるか」
そっと手を伸ばすと「うん」と小さく頷いて握りしめてくれた。
この手を離したくない。
血の気が引いて冷たくなった手を、ぎゅっと包み込む。
二人きりで話せる場所を探した末、カラオケスペースにたどり着いた。
ここなら周りを気にせずゆっくり話せる。
「ほらこれ、ドリンクバーで入れてきた」
二人分のジンジャーエールを机に置く。桜庭は「ありがとう」と一瞬笑顔を見せたものの表情は冴えない。
沈黙が流れる。
気まずい。なにか言わなければ。
――そうだ。
「矢島にはびっくりするよなぁ、空腹を我慢しながらおれたちのこと見張っていたらしいぜ」
「そういえば……瞳ちゃんポテトの袋に握っていたけど涼ちゃんがおごってあげたの?」
「うん、ちょうど割引券持ってたから。喜んでばくばく食べてたよ」
「そっか。涼ちゃんはやっぱり優しいんだね。なんの見返りも求めずに他人を助けちゃう、私を助けてくれた時みたいに」
「はは、バカだよなぁ、考える前に体が動いちゃうんだよ」
「ううん。……そういうとこもスキだよ」
じっ、と熱い眼差しで見つめてくる。
なんだか無性に気恥ずかしくなってジンジャーエールのストローにかじりついた。でも飲んでも飲んでも味がしない。心臓の音がドラムみたいに耳の奥で響いてる。
「あのね、涼ちゃんには言ってなかったんだけど」
膝の上に置いた手を握ったり開いたりしながら切り出した。
「じつは私、男の人が苦手なんだ」
「ごふっ!」
ジンジャーエールが気管に入った。ゴホゴホと咳き込むと「だいじょうぶ?」と心配そうに顔を覗き込んでくる。
「なんでもない! もう平気だ」
まだ喉の奥がヒリヒリする。まともに顔を見られない。
男が苦手?
じゃあおれは?
「小学生のころ通っていたスイミングスクールに意地悪な男の子がいたの。私の前でわざとバタ足して水しぶきをかけたり、練習しているときに下手だとか泳ぎが汚いだとか悪口言ったり。私は必死に我慢していたけど、あるときプールサイドで些細なことからケンカになって、その子の肘か腕が当たってプールの中に突き落とされちゃったの。まともに水を飲んで本気で死ぬんじゃないかと思った」
「ひでぇ……」
「気づいたコーチがすぐに助けてくれたけどしばらくは恐怖で動けなかった。男の子はコーチやご両親からこっぴどく叱られて泣きながら謝ってきて、いつの間にか来なくなっちゃった。それ以来、男の人が苦手なんだ」
たしかに桜庭が2組で男といるところを見たことがない。
いつも月乃や矢島と一緒だ。
「当時のスイミングスクールのコーチは男の人だったから、両親と相談して女性コーチが運営している別のスクールに通うようになったの。国際大会で入賞したすごい実績のある人で、その人の下で練習していたらどんどん記録が伸びていったんだ。あの記録も」
それで中学生記録を出したのか。
縁って不思議なもんだな。
中学生記録を出したときのインタビュアーはたしか男だった。だから桜庭は緊張して無表情になったのか。
「小中学生のころは男の人とは出来るだけ関わらないようにしていたんだ。特に水の近くにいると”また突き飛ばされるんじゃないか”って怖くなる」
ん? ちょっと待て。
水の近くで、男?――おれと出会ったシチュエーションじゃないか。
「……”不思議”って顔してるね」
桜庭がほほ笑んだ。
「あのときは猫を助けたい気持ちが強かったけど、本心ではちょっと緊張していたの。知らない男の人と濁流の側にいるんだもん。無意識のうちに体が強張って血の気が引いた。――――だけど」
あの時おれが掴んだ方の手を幸せそうに見つめている。
「手を握られたとき全然怖くなかった。強くて、あったかくて、とても幸せな感じがした。見ず知らずの私を助けようと必死な顔を見て”あぁこれは運命かもしれない”と思ったの。名前を聞きそびれて本当はすごく残念だった。どうやったらまた会えるかな、運命の人ならきっと会える、会ったらなんて言おう、なんて毎晩悶々と過ごしてたんだよ。練習にも全然身が入らないくらい。だから入学式前に駅で会ったときはこらえていた感情が一気に溢れて告白しちゃったんだ。びっくりしたでしょう?」
「うん、めちゃくちゃびっくりした」
あの告白には驚くべき裏事情があったのだ。
「ひとつ、確認したいんだけど」
「どうぞ」
「もしかしたら知らないうちに男嫌いを克服していて、おれに触れられたときに認識した……って可能性は?」
「ないよ」
にっこり。
「さっき言った女性コーチ、つい最近引退したの。新しい男性コーチは国際経験豊かでルックスもよくて教え方も丁寧だけど、やっぱり怖いの。だからなかなか練習に行けなくてタイムも落としている。でもいつまでも逃げ回っているわけにはいかない。頑張らなくちゃと思った。それで、元気パワーもらいたくて涼ちゃんとデートを仕組んだんだ!」
なんということだ。
あのじゃんけん→デートにはそこまで思惑が入っていたのか。
何も知らずに流されるままだったぞ。
「ルナっちは同じスイミングスクール出身だからこの辺りの事情をよく知っているの。私のことを心配してついてきたんだと思うけど、なにも言ってこないってことは合格なんだよ」
「なら嬉しいけど」
「ちなみに佳乃さんは飲食店街でフルーツパフェ食べてたよ。さっき見てきたんだ」
「いつの間に?」
「ふふ、お手洗いに行きながらね。実は佳乃さんとも同じスイミングスクール出身なんだ。昔からルナっちと張り合ってたよ」
自分の知らないところで色んな人間関係が蠢いている。
蚊帳の外なのはおれだけだった、ということか。
「つまり、いま私たちを邪魔する人はいないってこと。……涼ちゃん、さっき『なんでもする』って言ったよね」
ぎくっ。
しっかり聞こえていたか。
「言ったよね?」
「……ハイ、言いました」
「じゃあこの場でキスしてほしい。ちゃんと出来なかったから」
そう言って桜庭が差し出したのはプリクラのシールだ。
笑顔の桜庭とぎこちなくポーズをとるおれとのツーショット写真に混じって、桜庭しか映っていないものがある。困ったような横顔はフレームの外に向けられている。……もしかしておれはキス未遂で逃げたのか。
「ダメ、かな?」
小首を傾げて不安そうな桜庭。
ずっと不安と闘ってきたのかもしれない。
ひとりで頑張ろう、闘おうとしていた。
すごい。えらい。
覚悟を決めろ、鈴木涼太。
「……目、閉じてくれ。桜庭」
桜庭は嬉しそうに目を輝かせた後、プリクラのときみたいに目をつむる。こちらのタイミングに任せてくれるようだ。
おれはゆっくりと上半身を傾けた。
そっと肩を引き寄せて――――
生まれて初めて、キスをした。
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