第2話
現場がハネるとおれはたいてい
おれは携帯端末の会話ツールで文乃にメッセージを送る。
―終わったぞ
送信してしばらくそのまま画面を眺める。見ていると既読マークがつく。こういうツールはたいてい、送ったメッセージを相手が表示すると既読マークがつく。既読と呼ばれているが読んだかどうかがわかるわけではない。端末に表示はされた、というほどの意味だ。そのまま見ていると返答が届いた。
―はい
文乃からのメッセージはオレの端末に表示されたから向こうに既読マークがついた。おれが読んだかどうかは関係ない。おれと文乃は一年ぐらいの付き合いだが、出会った最初の頃からやりとりはこんな具合だった。会話ツールでのやりとりがこうも短い関係をやはりカノジョとかカレシとか呼ばないだろう。
おれはいつものようにタクシーを拾い、文乃の住む町へ向かった。車内にはAMラジオがかかっている。運転手はおれが誰か気づきもしないか、気づいたとしてもたいていは何も言わない。
文乃とは料理屋で待ち合わせることもあったし、喫茶店のことも、時間帯によってはバーのこともあった。その日一緒に訪れようとしている店で直接待ち合わせるのが通例だ。まれに店ではなく文乃の自宅でめしを食おうということもあった。どこで飲み食いしようとしまいには文乃の部屋に行きつく。文乃がめしから家でと言い出すのは出るのが億劫なときか、あるいはめしの後をじっくり楽しみたいときだろう。今日はそのまれなケースでおれは直接文乃の部屋へ行くことになっている。
途中でタクシーを待たせて買った手土産を持って文乃のマンションを訪れると、文乃は卓上の電気調理器を出してしゃぶしゃぶを用意していた。
「おつかれさま」
文乃が言うこの言葉は本当におれの疲れを労っているように聞こえた。死にかけていた言葉が意味を取り戻して響き始めるような感覚があった。
「ありがとう」
「どうでした、今日の現場は」
文乃はおれの上着を受け取ってハンガーにかけながら聞いた。文乃のあやつる言葉は耳にここちよい。声自体も落ち着いていていい。このところ雑なしゃべり方をするやつが増えたから文乃のような話し方をする女はそれだけで貴重だ。
「ああ。相変わらずだ。井戸橋はどこまでも井戸橋だな。わけがわからん」
おれはそんなことを言いながら食卓についた。
「でもあの人の作品、評判いいのでしょう」
「ごく一部には、ね。どうもよくわからん映画を愛でる連中というのが特に評論家みたいな中に大勢いるからな。井戸橋の作品はそういう連中に受けがいいから気鋭の監督とかいうことになるわけだ。おれに言わせれば大衆映画で興行収入を上げてるような監督こそもっと褒められるべきだけどね」
「褒められてるでしょう。売り上げは数字として残る成果なんですから」
文乃はキッチンからぽん酢やごまだれの瓶を持ってきて食卓の上に並べてから椅子に腰をおろした。
「まあそう言えないこともないか。だけど大ヒット作で誰でもタイトルを知ってるような映画でも監督が誰だか知らないってこと多くないかい」
「それはそうですね。でも監督としてはどうなんでしょうね。監督の名前で知ってほしいのか、作品が知られてほしいのか、どちらでしょうね」
「そりゃ自分を知ってほしいだろう」
おれは最初の肉を一枚湯にくぐらせて軽くごまだれにつけ、口の中へ放り込んだ。一口噛むと絡みついていたごまだれのむこうから肉汁と脂が染み出し、出会いを喜ぶように絡まり合いながらおれの口の中を飛び回った。
「あなたはそうなんですか」
肉の喜びを文字通り噛みしめているおれを見て顔をほころばせた文乃が言った。
「出演した映画が喜ばれて、あの映画よかったよ、あの俳優が印象に残ってる、名前知らないけどって、そういうのは嬉しくありませんか」
「うむ。嬉しくないことはない」
「そうでしょう。あなたの名前が知られなくてもあなたの仕事が誰かを喜ばせているんですから」
「でもおれは、どうせならおれのことを知ってほしいよ。そのあんたが評価してる俳優はおれだよって教えて回りたいぐらいだよ」
文乃は鍋から拾い上げた白菜を丁寧にぽん酢につけて口へ運びながらふふふと笑った。
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