おれの秘密
涼雨 零音
第1話
いる。やはりいる。
おれはそのことに気づいてから、やつを捲こうとあれこれ策を講じて試みた。もちろんあからさまにではなくあくまでさりげなくだ。気づいていると思わせない程度に、トイレの個室に三十分ほどこもってみたり、急に思い出したみたいに慌てて発車寸前の電車から駆け下りてみたり、人ごみの中で急に進路を変えてみたりした。やはりやつはいる。ついてきている。おれのなにがやつの気を引いたのか心当たりはない。おれは目立ったことはしていない。長いことうまくやってきた。なにかミスをしただろうか。ぼろを出すようなまねをしただろうか。わからない。わからないことを気に病んでもしかたがない。考えるべきはこれからどうするか、それだけだ。
おれは追手を捲くことは諦め、追いつかれない距離を維持することに注力した。商店街をあまり急ぎ足にならないように意識しながら歩いた。おれを見る視線を感じながら、でもそちらを向いてしまうことがないように注意して歩いた。なるべく自然に見えるように歩く必要がある。自然とはいったいなんだ。おれには商店街の自然な歩き方というのがどういうものかよくわからなかった。並んだ店先に視線をなげたり、スピーカーから流れる酷い音に耳を傾けたりしてみた。スピーカーは音質が悪すぎて何を言っているのかまったくわからなかった。商店街はその終端のところで国道を交わっている。このまま進むと国道に出る。うまくすれば合流地点に向かう仲間に拾ってもらえるかもしれない。失敗したら。失敗することは許されない。
国道に出て右へ進むと、しばらくして向こうからミサの車がやってくるのが見えた。ミサの車はアメリカの軍隊が使っていたものを市販化したゴツい四輪駆動車で、非常識なほど幅が広い上に真っ赤なので一目でわかる。狙ったみたいに完璧なタイミングだった。おれはミサが気づくことを信じで車道に寄った。戦車みたいな車はまっすぐおれの方へ突進してきた。そしてミラーがおれの耳をかすめるぐらいの距離感で急停止した。おれがすかさず後ろのドアを開いて乗り込むとミサはすぐに車を発進させた。
車は20メートルほど進むと路肩に寄せて止まった。おれとミサは車から下りる。
「っしたー」「おつかれっす」「つかれー」などとおつかれさまをどうにかしたような言葉が飛び交い、がやがやと人が集まってくる。こんな言葉はただの場つなぎとしてほとんど自動的に交わされているだけで、別に本当に疲れを労っているやつなど一人もいない。集まってくるのは男女入り混じってはいるが全般に若いやつばかりだ。この連中をひとまとめにしてスタッフと呼ぶことが多いが実際の職種は多岐にわたる。不思議なことに、職種を問わず男女を問わず、一様に同じような服装をしている。全員が下はズボン上はトレーナーかTシャツといった感じだ。
「おつかれさまです」
おれに駆け寄ってきたマネージャの明石が言う。おれはろくに返事もせずに、明石が差し出したスポーツドリンクを一口吸った。
ミサ役の
商店街と国道の交差点あたりにはクルーが集まっていた。ひときわ目立つのはガンマイクを持った音声スタッフとステディカムを身につけたカメラマンだ。おれは明石と並んでそちらの方へ移動した。
「おつかれさまっス。良かったスよ、今の」
監督の
このうすらバカ井戸橋の作る映画はわかったようなことをぬかす自称映画マニアみたいなやつらに受けがいい。おれにはどこがいいのかわからないのだけれど、連中に言わせればわからないのはボンクラであり、この高尚さを理解できる自分たちは素晴らしいのだそうだ。結局連中は井戸橋の作品を好んでいるわけじゃなく、井戸橋作品を褒める自分に酔っているだけだ。そういうオナニーの連鎖みたいなところに不本意ながら一枚噛んでいる自分にも嫌気がさす。おれには井戸橋のやりたいことはさっぱりわからないし、言っていることも半分以上わからない。芝居はいつも暗中模索でもがいているようなもので、自分でこれはいけたと思うような芝居はできたためしがない。それなのに井戸橋はおれをいたく気に入っていて、自分の作品の主演はおまえじゃないと、と言うのだ。おそらくこのさっぱりわからない感じがいいのだろう。オナニーの良さは本人にしかわからない。この井戸橋のオナニーに白川実春が出ているのは侮辱を通り越して凌辱だ。白川実春を振り返ると、例のおかま野郎がハエのように両手をこすりちらしながら彼女の周りを飛び回っているのが見えた。おれは嘆息した。
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