第2話ここってブラック企業?

うだるような暑さとセミの鳴き声で目覚めた朝、カーテンを全開で開けると瞳が焼けるような朝日が飛び込んできた。

僕は大きく伸びをして、歯磨きをして、顔を洗い、万全を期して初出勤の準備を整えた。

「よしっ」

と自分に言い聞かせ、自転車に乗って「ヤーマダ頑張れドカベン物流倉庫」に向かった。

前日は緊張のあまり寝付けなかった為か、頭の中を誰かに揺さぶられているようで、朝食を食べてもいないのに、吐き気はするし、自転車は蛇行運転になっているしで、最悪な状況での初出勤になってしまった。

梅雨明けのむっとするような熱気が身体にまとわりついて、ハンカチで汗を拭いながら、懸命に自転車をこぎ続けた。

ようやくたどり着いた倉庫は、昨日見たプレハブ小屋のような事務所に負けず劣らずボロボロで、浮浪者の住処と捉えられても不思議でないほどに不衛生な建物だった。

「よお!」

昨日面接してくれた山田社長がタオルを頭に巻いて、自ら僕を出迎えてくれた。

「皆に、キミを紹介するよってな、ついておいで」

ロッカーで作業着に着替えた後、僕は社長と一緒に、寂れたシャッター通り商店街のような貧相な倉庫の中に入っていった。

「うわっ」

中に入った瞬間、蒸し暑さと、濁ったような空気、ジメジメした臭いに息が詰まりそうになった。

「虫が入ってくるよってな。窓は閉めきりにしとるんや」

初仕事はどんな環境でも耐え忍ぶ覚悟でいたが、ここの劣悪な環境は、まるで想定外だった。じっとしているだけで汗が吹き出し、呼吸をするのもためらう程に、酸素濃度が低く感じて、喉が渇き、舌も乾き、軽く目まいまでして、思わず壁に手をついた。

社長は慣れているせいか、ズンズンと足取りも軽く中へ進んでいく。換気が悪く、空気は重苦しく、エアコンは無くて、とめどなく流れる汗が目に入って、痛みでしばらく立往生していたら、前を歩く社長から叱責が飛んできた。

「何しとんや、はよおいで!」

ピーッピーッと音のなる方向へ出向くと、数台のフォークリフトが所狭しと動き回って荷物を運んでいた。

「あ、社長、おはようございまーす」

フォークリフトを運転していた社員さんたちが社長に挨拶をした。

「おう、おはようさん」

社長は右手をあげて、社員さんたちに挨拶を返した。その後、大声で現場にいる作業者全員を自分の周りに集めた。

「新人さん、皆に紹介するわ」

社長は、好奇の視線を集めた僕に目配せをして、自己紹介を促してくれた。

「本日よりお世話になります。阪神巨人さかがみなおとと言います。宜しくお願い申し上げます」

おなしゃーすと作業員の皆さんが返した後、社長はこほんと咳払いをした。

「阪神巨人と書いて、さかがみなおと君や、皆なかようしたってや」

「何ですかそりゃあ?」

皆が怪訝な表情を浮かべている中で、一番年配ともいえる男性が質問した。

「よくぞ聞いてくれた!こいつの名前な、阪神で、さかがみと書いて、巨人でなおとと読むんや。漢字で書くと阪神巨人なんやで…デレシシシシシシ」

社長は唖然としていた表情の社員たちを前にして、笑いをこらえきれなくなったのか、肩を震わせていた。

「ムルンフフ、アッパッパ ウプププ シャーッハッハッ ゲギャギャギャギャ」

社長は、何も言えず茫然する社員さんたちを差し置いて、一人でお腹を抱えて転げまわっていた。

「ヒーッ、ヒーッ ただでさえ空気の少ないとこやのに、笑かしたらアカンでホンマ」

社長はひいひい言いながら、横で真っ青な顔をしている僕の肩を無遠慮にバシバシと叩いてきた。

「ゼハハハハハ ココココココココココ」

「その王騎将軍みたいな笑い方やめろ…」

「何?」

僕はボソッと声に出したつもりであったが、地獄耳なのか社長に聞こえてしまっていた。

「いえ、何でもないです……」

僕は初就職をふいにしたくない為、肩を震わせながらも必死で自分を抑えた。

「せや、自分な、阪神巨人さかがみなおとじゃ呼びにくいよって、あだ名つけたる。阪神巨人でタイガース・ジャイアンツ、略してタイジャンや!どうや?」

どうや?も何もセンスの欠片も感じないし、余計に呼びにくいあだ名になっているし、正直タイジャンなんてダサすぎる絶対に嫌だ。

「おい!タイジャン!」

「はい?」

威圧感のあるだみ声に思わず返事をしてしまう自分が情けなくなった。

「ここにおる先輩方から仕事のやり方を一から教わって、少しでも『ヤーマダ頑張れドカベン物流』の利益に貢献せんとアカンぞ? 分かったかこの給料泥棒」

未だ貰っていない給料を泥棒呼ばわりしてくる社長に対し、僕は辞表を書いて禿げた後頭部目がけて投げつけたくなるほどの強い衝動に襲われていた。

それでも懸命に働き始めて2週間ほどで、ここヤーマダ頑張れドカベン物流は、とんでもないほどにブラックなところが段々と明るみに出てきた。

「おーい、アイス差し入れで持ってきたで」

社長が袋いっぱいに入れていたガリガリ君は、倉庫内の暑さですでに半分溶けていて、社員は皆、袋を少しだけ開けて、水分と化したガリガリ君をチューペットのように器用に飲んでいた。

「これ、給料から天引きしとくさかいな。わしの労費も加えて200円なり」

「え?差し入れなんじゃないんですか…」

僕は思わず声出して社長に異議を唱えてした。

「なんなりか? なんか文句あるなりか?」

なんで言い方コロ助やねん。この人の細かいボケには心の中だけでツッコむことにしている。

「てゆうかタイジャンお前、目の下のクマが凄いな。寝てないん違うか?」

社長は僕の顔を覗き込み、心配そうに声をかけてきた。

僕は、この会社に就職してからも、小説の執筆は怠らなかった。7時に出勤し、連日3時間ほど残業して、帰宅してからも4時間ほど、執筆に時間を割いた。

一刻も早くこの状況から脱し、一人前の作家としてやっていけるように、懸命に努力するしかなかった。

増してこのブラック企業で終身雇用など考えてもなかったし、新人賞で一発当てて、このふざけた社長を見返すことだけに専念していた。

「眠れないよ~る~ キミのせいだよ~」

そんなことなど露知らず、社長は、キテレツ大百科のエンディングを歌いながら、踵を返していった。

「あ、そうそう、今度の土曜日出勤な、タイムカード押さんでええさかいな。代わりに素敵なプレゼントがあるんや〜」

社長は、急に振り返り、思い立ったように僕に告げた。

「え……それって労働基準法違反……」

僕が口に出した瞬間、社長の顔色が真っ赤になり、額から青筋が浮かんでいた。

「なんなりか?ハゲブタゴリラ、吾輩に何か文句でもあるなりか?喧嘩売ってるなりか?」

社長は僕の胸ぐらをつかむくらいの勢いで迫ってきて、僕は思わず及び腰になってしまった。てゆうかハゲブタゴリラって、自分のことだろ。

「いえ……何でもないです」

思わず俯いてこう呟いてしまう自分が情けなかった。

タイムカードを押さなくていいと言われた土曜日の出勤は、てっきり半ドンなのかと思っていたら、通常業務並みの過酷さで、暑さで倒れそうなくらいにフラフラになり、ようやく仕事を終えた瞬間に、社長がやって来て、ボロトラックから、何やら荷物を降ろしてきた。

「いやー、ご苦労さん、5と9と6と3でご苦労さん。暑かったやろ~これ皆で一個ずつ持って帰ってや」

出されたのは賞味期限の切れた食パン一個だった。僕は何度も目をこすりながらか再確認したが、やはり期限の切れた食パンに変りはなかった。一日一生懸命働いた労働の対価がこれかと、余りの処遇に涙が出てきた。

タイムカードを押させてもらえず、交通費も支給されず、あげくに賞味期限の切れた食パンを渡してくるって、いったいどういう了見なのだろう?少なくとも人として赤い血が通っていないような気がする。

「ウチの親戚が扱ってる食パンや!出血大サービスやで」

出血大サービスも何も、賞味期限の切れてる捨てるしかない食パンを皆に無理やり渡そうとしている。気が狂っているとしか思えない。

「社長!いつもありがてえ、本当に助かりますわ」

作業員たちがヨイショしながら社長の周りに群がった。

あまりの異様な光景にここが日本かどうかも訝しんでしまう自分がいた。発展途上国の難民キャンプじゃあるまいし……

「社長、いつも本当にありがとうございます。僕らの為に、気を使ってもらって……」

「何を水臭い、社員は家族やで」

家族であるなら養う為の給料ちゃんと払えや。期限の切れたパンなんかいらんし…

「ありがて~、ありがて~」

「この食パン、キンッキンに冷えてやがる」

社長が配っている食パンは何故か冷凍保存されていた。

「ええか、期限の切れたパンっちゅうのは、冷凍保存しとくことで日持ちするのや、皆よう覚えておきや」

自分で期限の切れたパンって言っちゃったよ。

「ほれ、タイジャン、自分よう頑張ってるから、3個あげるわ」

キンキンに冷えた食パンを無理やり3個渡された僕は茫然と突っ立っていた。

「タイジャン、あまりの嬉しさに何も言えねえってやつか?」

いいなあという各社員の心にもない声が聞えて、僕は思わずそれまで繋いでいた何かが切れそうになっていた。

自宅に帰ると手渡された食パンは、速攻でゴミ箱に捨てた。少なからず、何人かはこうしてるであろう。知ったことか。もう小説の執筆をする元気すらも奪われてしまい、シャワーを浴びる元気もなく、僕はごろりと横になり、そのまま目を閉じた。

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本屋大賞獲ったんで!! バンビ @bigban715

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