真夏の昼の夢



「………………」



 いつの間にか正文は、深い霧の中を歩いていた……。


 何故歩いているのか?何処へ向かって歩いているのか?


 正文自身にも、分からない。


 やがて……前方に人影が……その後ろ姿が見えた。



「やい、そこのお前。此処は何処だ?俺様が尋ねてやるからありがたく答えやがれ」



 正文が紳士的(自己分析)に尋ねると、人影が振り返って、正文を睨む。



「な……!?」



 正文を睨みつけているのは…… 《もう一人の正文》 だった……。


 自画自賛する美顔は、今はまるで蝋のように白く、感情を滾らせる眼光が霧の中で爛々と煌めいていた。


 正文は大層驚いたが、同時に確信もした。


 嗚呼、これは夢だ……と。



『お前は……』



《もう一人の正文》 が、呆れと怒り……ほんの少しの憐憫が混じった表情と声色でーー



『お前は……これで良いのか……?』

「は、何を言ってやがる……?」

『お前は……今のお前は……』



 途端に、 《もう一人の正文》 の輪郭がぐにゃりと歪んだ。


 まるで、一昔前の特撮映画の特殊メイクのように安ぼったく、勿体ぶって態とらしく、 《もう一人の正文》 は形を変えた。


 律の姿にーー変わった。



「り……っ!?」



 仰天して喉がつまった正文に、律は空虚な笑顔で言う。



『私はもう……必要無いのか……?』



 律の言葉が、正文の芯の……脆い部分へと刺さる。


 何故、そんなことを言う……?


 お前はもう……お前にはもう……?


 そして、律は、正文に背を向けて、霧の中へと消えていく……。



「律!待て!」



 慌てて地が出てしまった正文は、律へ向かって……例え夢の中だとしても……懸命に手を伸ばす。




『マサフミ……ッ!』



 ……正文の背後で少女の悲鳴があがった。


 シェーレだった……。


 アビリス人人魚姿のシェーレが……宙に浮かんだまま……少しずつ泡となって溶けていく……!



「…………!!」



 律か……シェーレか……!


 葛藤を起因にした混乱に、正文は声にならない叫びをあげた。


 堪らず伸ばしたその手の……向かった先はーー。




「は…………!?」



 蝉時雨が、いやに煩く頭に響く。


 気が付くと……正文は畳の上で寝転んでいた。


 平沢庵の特別室、シェーレに貸し与えている部屋だ。壁掛け時計が、二時十分を示している。


 正文が周りを見遣ると、漫画や絵本や、携帯ゲーム機が無造作に転がっていて、更に視線を移すと、敷かれた布団の上でーー



「「………………」」



 ワンピース姿のシェーレと修二が、健やかな寝息をたてていた。


 そうだ……。正文は思い出した。


 シェーレに、色々な物語を話して……修二と手遊びで遊んで……そのまま昼寝をしてしまったのだった。



「………………」




 首もとにかいた嫌な寝汗を拭い、先刻の夢を思い出した正文は、シェーレがいることに……当たり前だが……安堵した。



「………………」



 そう、正文は安堵したのだ。


 シェーレがいたことだけに、安堵してしまったのだ。


 律のことを忘れて……。




「……こいつは、地球に独りだ。アイツには……俺じゃなくて……」



 律にはカウナがいる。何よりも律を想ってくれる男がいる。


 正文は、シェーレの気持ち良さげな寝顔を見守りながら、何度も己に言い聞かせた。


 そうやって、夢の中で……去る律に背を向け、シェーレに手を伸ばした自分を正当化し、中々消えない罪悪感を、強引に有耶無耶にした……。


 近くを流れる沢のせせらぎに混じって聞こえるヒグラシの鳴き声が、正文の脳内に、律の笑顔を何度も何度もフラッシュバックさせた……。





 ****





 猪苗代湖や会津若松へ向かう宿泊客を送り出し、平沢庵は今、束の間の平穏の中にいる。


 だが……。



「あ〜〜……。あ〜〜……。あ〜〜〜〜!!」



 女将の文子は虫歯一つ無い口を開けて、忌々しげに唸る。


 文子は苛々していた。フラストレーションが溜まって仕方がなかった。


 何故か……?理由は分かっている……。



 正文だ。



 シェーレを保護してからというもの、正文は女湯覗きをキッパリ止めてしまったのだ。


 おかげで文子は覗き撲滅を名目に正文を折檻出来なくなり、行き場を失った生来の好戦的な血が、文子の中で発散されることなく凝り固まっている。



「……そんなにシェーレちゃんにカッコつけたいワケ?」



 文子はロビーの受付から正文たちのいる離れの客室の方向を眺め、溜め息を吐いて独り言ちる。


 正直まさなおは旅館組合の会合、中居のハルナとナルミは客室の清掃、ゆきえは猪苗代のパトロール。


 誰も文子の相手をしてくれない。


 平穏だが……退屈だ。


 退屈は精神の衰退を……精神の衰退は肉体の老化を促進させる。老化だけは勘弁だと文子は心底思った。


 文子は一時、適当な罪状をでっち上げて正文を締め上げようとも考えたが……さすがにそれはやり過ぎだ。



『ぐぇ〜〜!せ、背骨がぁあ!?お袋ヘルプ……!俺様死んじゃう……!死んだッ!』

『母ちゃんやめて!兄ちゃんのライフポイントはとっくにゼロよ!』



 覗き魔正文のいたあの頃が……修二に止められるまであらゆる格闘技を駆使していたあの頃が……こんなにも懐かしく感じるなんて……。


 ホルモンバランスの関係で、感情の起伏がいつもよりも若干激しい文子は、たちまち感傷的センチメンタルになって鼻をすする。



「……に連絡でもしよう。あと、真理子野ザルと今夜飲みにでも……」



こんな日は真理子と酒を酌み交わすに限る。


 真理子に連絡をする為に、文子は手にした携帯端末を起動させようとした。


その矢先ーー



「頼もう〜〜〜〜!」



 突如、聞き覚えのある男の美声イケボがロビーに響き渡り、文子はぎょっとして玄関に目を遣った。



「カウナモ!?おい!?いい加減にしろ!」

「いいやリツ!我を止めるな!最近のマサフミの行動は目に余る!」



 平沢庵の玄関前で擬態化したカウナが……律の手を引いたカウナが仁王立ちで構えていた。何故か、酷く興奮している!



「ちょちょ?カウナちゃん!?リッちゃん!?何ごと!?」



 慌てて出て来た文子に、カウナは険しい表情で深々と一礼するとーー



「フミコさん!お騒がせして申し訳ない!我は今日!マサフミに決闘を申し込みに参った次第!!」

「は!?決闘!?え!?何言ってんのこの子!?」

「文子さんからも言ってください!私の言うこと聞かないんだ!このバカウナモ!!」




 呆気に取られる文子と、頭を抱える律を他所に、カウナは顔が真っ赤になるほど思い切り深呼吸をしてーー



「ふぅ〜〜……マサフミ!いるなら出て来い!リツを賭けて我と勝負しろ!勝負ぅ〜〜〜〜!!」





 続く

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