第4話
北は自転車を懸命にこぎながら家に帰っていった。
夜が更けるにつれ次第に冷たくなった風が北の頬を赤くする。
(わたしが……。わたしが負ける……なんて!)
頭の中は悔しさで一杯だった。
公園から自転車で15分程走ったところに住宅が立ち並ぶ、一角に北の家はあった。白いペンキが塗られた一軒家だった。車が留めてあるガレージの横には北の母親が手入れをしているパンジーやコスモスの花がきれいに咲いていた。
だが今の北には当然ながら花の美しさに目をやるような余裕はなかった。
自転車を降りた北はズカズカと玄関に向かって歩き出した。
玄関のドアを開け靴を脱いだ北は、2階にある自分の部屋に行くためそのまま階段を駆け上がると、乱暴に部屋のドアを閉めた。
北の母親は一階で父親のシャツにアイロンをかけているところだった。
娘が帰ってきたことを知った母親は、ドアの音の大きさに驚いて北の部屋へと向かった。
母親は最近の北の素行に心配すると同時に神経質にもなっていた。
あの事故があってからというもの娘は変わってしまった。それまではなんでも話し合えるような良い母娘関係だったのに、あの事故以来、最低限必要なことしか話さない娘になってしまった。
ドアをノックしてから母親が言った。
「智美。何かあったの?」
部屋の中からは返事がない。
母親が再度ドアをノックした。
「智美。最近あなた変よ。夜になると変な格好してふらふら出かけていくし……。お父さんもあなたの事心配してるわよ」
だがやはり部屋の中からは返事がない。
「ねえ……智美。もちろんあの事故がショックなのはお母さんも分かるけど、いつまでもそれに引きずられていては駄目だと思うの。まだあなたは全然若いんだし、また夢中になれるものが見つかると思うわ。だから……」
母親がなんとか話の糸口を探ろうとしていると、ドンッという衝撃がドアに響いた。
北が枕を投げつけたのだ。そして「うるさいなあっ。ほっといてよっ」っとイライラした声が聞こえてきた。
その態度でふう、とため息をついた母親は諦めたように階段を降りていった。
北はベッドの上で仰向けに寝転がっていた。
赤いカーテンが目をひく6畳の部屋はこざっぱりとまとまっており、普通の高校生の女の子の部屋だった。ただ一点を除いては。それは机の上に置かれたラジコンとその機材、そして机の横に置いた白い棚の中にある、ナインレーサーとしてRC狩りをした際に奪ったラジコンだった。
そしてそのまま眠ってしまった。
歓声。
沿道に集まった人々が、声を張り上げて応援をしてくれる。
その声は集団の先頭を走る北に向けられていた。
通り過ぎていく風も、ふりそそぐ太陽の光も、何もかもが心地よかった。
北は人々の声援に答えようと、息を切らせながら懸命に足を前へ前へと動かした。
北は今自分が生きているということを実感していた。
だがそんな北を不幸が襲った。
それは突然のことだった。
今まで何ともなかった右足に突然激痛が走ったのだ。
それは北が今まで体験したことのないくらいの痛みだった。
(……いかなきゃ。前へ。いかなきゃ)
北は痛みに耐えながら、それでもなんとか前へ進もうとする。
だが頭で指示を出しても、足がその指示を拒絶した。
北の動きがそこでストップしてしまう。
その間に後続ランナー達が続々と北を追い抜いていく。
汗が額からこぼれ落ちる。
北が非常に悔しそうな目で選手達を目でおっている。
(負けない。負けたくない…)
北は足を引きずりながら、それでも前へと向かおうとする。
だが、数歩も歩かないうちに限界がきた。
「いたっ!」
北はそのままその場へと崩れ落ちた。
他の選手がどんどん北を追い抜いていく。
もう北は立ち上がることは出来なかった。
声は彼女を一人置いていってしまったのだった。そしてその声が彼女の元へと戻ってくることはもうなかった。
そこで北は目を覚ました。
北は一瞬、今自分が何処にいるか分からなかった。
蛍光灯の電気はついたまま。
時計を見ると、もうすぐ12時になろうとしているところだった。
額に手をやると寝汗をかいていることがわかった。
立ち上がった北は椅子に腰掛けた。
そしてじいっとひとしきり自分のマシンに目を向けた後、両手のコブシでガンッと強く机を叩いた。
「私がっ……。私が、負けるなんて……!」
今の北にとってラジコンで誰よりも早く走る事だけが、唯一自分のアイデンティティーを示すものになっていた。
北は机のキャビネット下段を開けた。
そこには高校に入ってからの写真など思い出の品があった。
北は1年の時に撮ったクラスの全体写真を見ていた。
そこには柏が写っていた。
写真を握る北の手に力がこもった。
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