第4話 化け物

恐らく、その傷は随分と前に付けられている。そして多分それは何者かによって意図的に付けられてたもの。

腹だけかと思われた傷はご丁寧に背中にまで酷い損傷を負わせていた。

ヴィクトーの手は勝手に動いて滑り落ちているエリックのシャツを拾い上げ、その肩にかけると包むように自然とエリックを抱き締めていた。

その傷を何かから覆い隠すように。


「すまん…」

「僕はこう言うの慣れてますから。気にしないで下さい。…それに、これは貴方への予防線になるって分かっててこの傷を僕は利用したんですから」


この達観した静けさが、エリックの今までの人生を物語っていた。

これは気まぐれと慰めの為に抱いて良い体では無い。

ヴィクトーはそう思った。


「最後の夜なのに、僕の方こそごめんなさい。こんなものお見せして…」


ヴィクトーの腕から逃れたエリックは身繕いを整えたが、釦は飛んで前がはだけている。ヴィクトーは慌てて自分の着ていたジャケットを羽織らせた。


「…なぜ、こんな事に…っ」


それ以上俺は言葉にならなかった。


エリックはグラスに残っていたシャンパンを煽り開けるともう一度椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。


「最後の夜に、僕の話を聞いてもらえますか?今まで誰にも話した事ないんです」

「それなのに行きずりの俺になんかに…何故…」

「行きずりの人だからです。…それに、僕のことをほんの少しでも気にかけてくれた人だから。

僕も貴方の心に少しだけ爪痕を残したいのかもしれません」


そんな風に言う彼が何処か儚く見えた。蝋燭の暖色の揺らぎに今にも吸われて消えてしまいそうに見えた。


「……僕は、棺から蘇った化け物なんですって」

「…化け…物…?」


目の前の美しく清廉な少年と醜悪な言葉が上手く重ならない。「化け物」それは一体どう言う事だろう。


「両親に疎まれて殺されたのに、爪が全て毟れるくらい、棺を引っ掻いてもがいて…生きる事に執着した…。そう言う子供でした」


指先を紅く染めた子供が棺から這い出す光景が鮮烈に脳裏に浮かび、こめかみに嫌な汗が滲んだ。ヴィクトーは己の喉が生唾を飲むのが分かった。


「ご存知のように、イギリスは植民地拡大のために父はアフリカへ出兵することが度々ありました。長い時には三年も帰りません。そんな最中に僕が生まれた。

どう言うことかわかりますよね?」


ヴィクトーはすぐに想像出来た。

エリックの母は夫のいない寂しさを他の男で埋めた。

そして出来た子供がエリックなのだ。


「五年も帰ってこない夫からの便りもなく、父は亡くなったのだろうと誰もが思っていたのに、ある日突然帰ってきたのです。

慌てた母は僕を教会に隠して…、」


告白をしていたエリックの手が小刻みに震えている。それに気づいたヴィクトーが、その手の上に己の手を重ねた。

ヴィクトーの手もまた小刻みに震えていた。


「もういい、止めよう、エリック。俺が悪かった」

「いいえ、いいえ。最後まで、話させてください……」


エリックの中に決意のようなものが見え、もう一度声を振り絞るように話し始めた。


「その頃、母は今流行りの降霊術を取り入れた怪しげな新興宗教に傾倒していて、僕の背中に十字架を背負わせる事で罪の子ではなくなると…その言葉を信じ切って僕の背中を母は切り刻みました。

そして…、その儀式の最中に、僕の存在を何処からか聞きつけた父が逆上して教会に押し入ってきたんです。

こんな子供はいっそ殺してやると叫んで父は僕の胸から腹を一直線に切り裂きました。

痛かった…、体も心も痛かった…」


エリックの目から涙が膨れ上がって溢れ出した。

そんな重すぎる告白にヴィクトーはいてもたってもいられずに、たまらずエリックを抱きしめていた。


「あの時、僕は死んだんです。血まみれになって、死んだはずなんです。

血の匂いのする棺の中で目が覚めて…真っ暗で…、人々の嘆く声が聞こえてきて、祈りの声が聞こえて棺の上に土がかけられる音がして、僕は必死で棺から出ようともがきました…。

でも、…僕は助からなければよかった。それからの人生の方が遥かに辛かった…、こんな過去なんて切り捨ててしまいたい…!」


「エリック…っ、」


普段の彼からは想像も出来ない告白だった。

襟元を正し、穏やかな笑顔を絶やさず、静かで清い佇まいの奥に、こんな凄惨な過去が秘められているなど誰が知るだろうか。


なんて人生だ!

こんな仕打ちがあって良いものか!


エリックの凄惨な過去に向き合い、ヴィクトーは今更なす術もない。

ただエリックの背中を抱きしめて摩ってやることだけ。それしか無かった。


誰にも言えない秘密があると言う事が、どれほど苦しいのかを俺は知っている。




「ありがとうございます。聞いてくださって…」


暫く静かに涙を流していたエリックが顔を上げた。


「せっかくの夜だったのに、台無しにしてしまいましたね。すみませんでした。本当に…」

「そんな事はない。こんな重大な秘密を俺なんかに話してくれたと言う事は少しでも君は信頼してくれたからなんだろう?」


それには微笑むだけでエリックは何も答えなかった。

だがこんな時にも笑顔を向けようとしている彼がいじらしく思える。


「どうしても、明日下船するのか?」

「はい、漸く父が亡くなったので、家督を継ぐために一度戻れと…」

「そして君はそんな家に戻るのか」

「…子供は僕一人ですから」


このまま帰ったら、彼を縛る鎖は一生、その体と心に食い込んだままだ。


「エリック、このまま俺と来ないか。ハノイまで俺と…」


ヴィクトーはなんとしてもエリックを引き止めたい思いがあったが、彼は首を横に振った。


「どんな立場で僕は貴方の傍にいればいいんですか?僕は行きずりの、ほんの束の間、貴方の側を通り過ぎた人間に過ぎません。

貴方はこれからも気になる人はたくさん出てくるでしょう?僕は貴方の足手纏いにはなりたくありませんから、今夜でお別れです」


そう言うと、エリックは自らヴィクトーの唇に悲しいほど優しい口付けを落とした。


部屋を出て行くエリックの後ろ姿を未練がましく見送りながら、これが恋なのかただのアバンチュールなのかそれすらヴィクトーには答えは出なかった。

決して離さないと強く言えるような間柄にない事だけが今の二人の真実だった。


俺にしては考えらない終わり方だ。あんな優しげなキスをした…いや、されただけであっさり終わるのか?


どう考えても今回ばかりは自分の完敗だと、ヴィクトーは思っていた。

















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