第5話 アラビア海の風に吹かれて

停泊したジッダは大都市だ。狭いスエズ運河を無事通り抜け、紅海のちょうど真ん中あたりに位置する大きな港街だ。

昔からメッカ巡礼を目指す人々で街は栄え、交易や外国への渡航の重要な中継地点でもある。

様々な文化と民族が交差する熱気に満ちた街。


ダルタニアン号は朝早くから乗船客と昇降客で何処もかしこもごった返していた。


甲板では、ジッダで船を降りていく人達、見送る人々が思い思いに手を振り、キスを投げ、名残惜しげに甲板や港に佇み、別れを叫んでは涙ぐむ。

そんな光景の中、船室の窓からヴィクトーはぼんやりとその光景を眺めていた。

この大勢の乗降客の中にエリックが混じっていると思うと、自然と眼差しが彼を探していた。

別れは昨夜済ませたはずだ。エリックは降りる決意を固めていたし、ヴィクトーも追うつもりはなかった。船が出れば別々の人生が待っていた。


いい思い出じゃないか。訳ありの綺麗な子とほんの少し唇が触れ合った。俺の人生のアルバムに彼の写真が美しく飾られる事だろう。


そんな事を考えていた時、混雑する港の人々の中に、あの姿勢の良い伸びやかな首の持ち主が目に飛び込んだ。

後ろ向きで大きな皮の旅行鞄を両手に下げた後ろ姿。


エリック…!


その背中が下船した人達に紛れて船から遠ざかろうとしている。それを見た途端、ヴィクトーは甲板へと駆け出していた。


「エリック…!エリック待て!行くな!」


その声はエリックの耳には届かない。

波間に揉まれるタグボートのように、あの艶のある栗色の髪が人混みに沈んだり浮かんだりしながら次第に遠ざかって行く。

今にも人波に飲まれていきそうなその後ろ姿に、ヴィクトーは思わず大声を出していた。

甲板の手摺りにしがみついて身を乗り出して名前を叫んでも聞こえない。

やがて汽笛が全身を打つように響き渡り、ヴィクトーの声は掻き消され、ゆっくりとその大きな船体が動き始めた。

はしけが外され、離岸していくともう誰も船には戻って来られない。

もうエリックの姿は群衆に紛れて見えなくなっていた。


「エリック!!くそっ!何処だ!」


こんな事ならちゃんと見送るべきだった。何をかっこつけていたんだ俺は!


激しく後悔に駆られながら俺は離れていく岸壁に視線を忙しく走らせその姿を探して甲板を走り、闇雲に叫んでいた。


「エリック!!エリッーク!!!」


もう見つける事なんて出来っこない。ああ俺はなんて馬鹿なんだ!今更後悔してももう本当に遅いと言うのに…。


甲板に出ていた人も皆んな其々部屋へと引き上げていき、あんなにごった返していた甲板の上は人もまばらになっていた。

ヴィクトーは一人まだそこに突っ立って、どれが港か分からなくなるまで海を見ていた。

アラビア海から吹き上がって来た熱風がヴィクトーの髪を弄ぶ。


漸く諦め、項垂れながら肩を落としてヴィクトーは部屋へと歩き出していた。

すると落とした視線の先に見覚えのある靴が佇んでいるのが見えた。

ゆらりと視線を上げた先、茶色い鞄を重たそうに両手に下げた人影が立っていた。

見失ったはずの、別れて行ったはずの人の影。


「……エリック!」


困惑した眼差しと、自分のした事が理解できないと言う顔をした彼がそこには居た。

ヴィクトーは直ぐさま駆け寄り彼の両肩に手を置いて、幻でも見ているような眼差しでエリックを見つめた。


「降りなかったのか?………何で…、だって君は…っ」

「分かりません、どうして残ってしまったのか…僕にも分からない」


自分に戸惑うエリックをヴィクトーは力一杯抱きしめていた。







「あ、……ん、ヴィクトー…っ」


「——ああ、エリック…、エリック…!」


二人は船室に帰るとすぐさま熱に浮かされた様にベッドへと雪崩れ込んだ。

永遠の別れと奇跡のような再会に二人の気持ちと身体が昂っていた。

恋人、愛人、伴侶、遊び、どんな言葉も今の二人に似合いなものがない。

ただ求め合うままに抱き合った。

痛々しい傷跡をヴィクトーが癒すように口付けた。何度もその疵の上を唇でなぞるその度に、エリックの甘い吐息が溢れ、その強く瞑った目元をいく筋もの涙が伝った。ヴィクトーは一粒たりとてそれを逃すまいと唇で拭い、何度も情熱的な口付けを交わし互いを夢中で貪った。

華奢な指がシーツを手繰り寄せ、堪らなそうにそれを噛んでは切なく眉根をきつく寄せ、震えながら愉悦に耐える表情かおにヴィクトーは唆られ、何度もエリックの中へと放熱していた。

異国の熱い空気に共に抱かれ束の間二人は満ち足りていた。


もうこれでいいじゃないか。

きっともう、俺は蝶なんて見ない。

取り敢えずハノイまで行って、すぐに引き返して来ればいい。 

蝶もあの人の事も忘れて、それで俺の旅は終わるんだ。

もう良い。

それで充分じゃ無いのか?



船室の窓を開け放したまま眠り込んでいた。目が覚めたのは月が煌々と真上に浮かんでいる頃だった。

波の音と潮の香りに混じって、何処からか懐かしい花の香りがヴィクトーの鼻腔をくすぐった。

そしてあの微かな蝶の羽ばたきが聞こえて来た。

夢の中のようでもあり、そうでは無いようでもある。

いつもあの蝶が現れる時の不思議な感覚。

ヴィクトーの目は妙に冴え冴えとしていた。

隣を見るとエリックが静かに寝息を立てている。

天井に目を凝らしていると金色の鱗粉をちらした紫の蝶が、まるで空中から生じたようにふわりと頭上に現れた。


シャラ……。




そして今、ヴィクトーの耳元であの人の銀の腕輪の音がした。



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