第3話 浅ましい夜に

いつもタイトなボーイの制服しか知らなかったが、今夜のエリックは白い詰襟シャツをラフに着こなし、薔薇の地模様の入った光沢のある背当ても美しい濃灰のベストを羽織り現れた。いつもよりも少しだけ大人びて見える。


「新鮮だな。そのスタイルも悪く無いな!」


少し照れたように微笑むと、彼は招かれるまま部屋へと入ってきた。

ヴィクトーの船室は上層階の部屋ほどは立派では無いが、上質なチーク材やマホガニーをふんだんに使った贅沢なものだった。

デッキは付いていなかったが、ちゃんと窓も付いていて一人で船旅をするには十分だ。

少し狭いがこう言う夜はその方が良い。

二人で掛けていっぱいになってしまう丸テーブルの真ん中には三本立ての燭台の炎がチラチラと揺れていた。

冷えたシャンパンとフルートグラス。花瓶には小さなブーケ。

揺れも少なく地上のちょっとしたホテルのような良い雰囲氣だ。


「いつも仕事でお邪魔してるからと思っていたのに、僕も新鮮な気持ちがします。お招きいただいて有難うございます」

「疲れているのに呼び出してしまって、すまなかったね」

「いえ、少しも!船に乗って初めてお酒をいただく機会を頂きました」

「え?仲間同士で仕事終わりに一杯ひっかけたりしないのかい?」

「ふふふ、しません。みんなクタクタで、必死に寝てるだけ」


エリックは癖のようにシャンパンボトルに手が伸びるが、今夜は君がゲストだと言って、ヴィクトーがそれを取り上げた。

ポン!とコルクが抜けて、少し緑がかった金色のシャンパンが二つのグラスに注がれる。発泡のしゅわしゅわと言う音が心地よい。二人で向き合って「お疲れ様」と言ってグラスを合わせた。

蝋燭の光に浮かぶエリックはやはり何処か妖しい魅力を秘めていた。

ヴィクトーは図らずもあの人を思い出していた。

結局ヴィクトーが惹かれてしまうのは相手の中に紫の蝶を見るからだ。

奪っても奪っても、手に入らない美しい紫の蝶。


「君の出身は何処なんだ?」

「フランスですが…今はイギリスです。ドーバーの近くに」

「ああ、美しい所だね。私も行ったことがあるよ。白く切り立った岸壁が目に浮かぶ。海辺に住む者は海の仕事に赴くと言うけれど、君も海の仕事が好きだったのかい?」

「…いえ、そんなロマンチックなものでは…」


家の事は言いたく無いのかすぐさま話題をはぐらかされた。


「それより、マルロー様は…、いえ、ヴィクトー様は…考古学のお仕事をしているのですか?」


結局様をつけてしまうエリックが微笑ましい。

エリックの視線が文机の上に積まれた考古学書に注がれているのにヴィクトーは気づいた。


「お仕事…と言われるとこそばゆいね!ただのオタクだよ。田舎の三流大学で時々講師みたいな真似をしているよ」

「良いな、僕も大学に行きたかったです」

「え?行かなかったのかい?」


エリックの仕事ぶりを見ていると、とても賢い子だと言うことが伺えた。なのに大学に行かなかったとはどう言う事だろう。

家が貧しかったのだろうか。


「——っと、いけない!」


考え事をするふりをして、ヴィクトーはうっかり二杯目のシャンパンをエリックの手に態と溢れさせた。

慌てて自分で拭こうとするその手を止めて、ヴィクトーは胸ポケットのチーフで濡れた手を拭ってやり、ついでにその手の甲に口付けながら熱い眼差しで彼を見つめた。

そう。これがヴィクトーのいつもの手管だった。

大概、これで二人近づいてキスをして…と、なる事を想定していたのだが、エリックは慌てて椅子から立ち上がりヴィクトーの手を振り解いたのだ。


「エリック、逃げるなよ、この部屋に来たって事は君もその気があったと言うことでは無いのか?」


ヴィクトーはエリックを壁際に追い詰めて首筋に唇を押し当てると、エリックはヴィクトーの腕の中で弱々しく抵抗してみせた。


「待って、待って下さい!僕は…明日、下船するつもりだったので、その前に貴方と純粋にお別れを…っ」


——下船?下船だと?


ヴィクトーはその言葉に一瞬怯んだ。


「下船…?船を降りるのか?なぜ…!」

「け、契約だから…です!ジッダで降りて、折り返しの船に乗るから…っ、ヴィクトー様!やめて…」

「ならますます止めるわけにはいかないな!明日降りるなら今夜限りでは無いか!」


今宵を逃せばこのアバンチュールに決着が付かない!

ヴィクトーは身勝手な焦りから、エリックを強引にベッドへと押し倒していた。

抵抗する両手首を己のネクタイで縛り上げ、唇を奪ぎながら彼のシャツの胸をベスト諸共乱暴に左右に暴いた。貝釦が弾け飛んで床に転がり、白い素肌が曝け出た。

柔らかな腹に口付けようとした途端、ヴィクトーは驚きに固まった。その暴かれた白いやわ肌に無惨にもつけられた一条の刃物傷が目に鮮やかに飛び込んできたからだ。

それは喉元から一直線に臍の辺りまで切り裂かれ、薄くピンク色に表皮が引き攣れたように盛り上がっている。

ヴィクトーはエリックの腰のあたりに両膝を付いて跨ったまま、馬鹿みたいに何も言えずにその傷を見つめていた。


「…この船室に来る時に、こんなことになるんじゃ無いかと何処かで思っていました。

貴方は素敵だし、僕も心が動かされたのは本当です。でも…、きっとそうはならないと思いました。貴方も…こんな傷、嫌ですよね、気持ち悪いですよね?」


エリックはのっそりと身を起こすと、自分の口で手首に巻かれたネクタイを外すし、今度は自らシャツを脱いで、ヴィクトーにその背中を見せたのだ。


ヴィクトーの目がその戦慄に見開かれた。


「……これはっ、」


そこには更に深い傷跡が、背筋に沿って走り、まるで十字架を背負うように中央にも横一文字に切り裂かれた痕が有ったのだ。


「どうして…こんな…ッ」


ヴィクトーは言葉に詰まった。この傷を前にして、今宵の自分の魂胆やその所業が酷く浅ましいと自分自身を嫌悪した。

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