第3話


 ***


 夜になって、急に独りになったと、実感が湧いた。

 先ほどまでの楽しさから一転、寂しさがこみ上げる。

 なぜ、楽園には自分しかいないのだろう。

 世界から隔絶されたから?

 封じられることを選んだのは、自分だ。

 二人の痕跡を遺すために、箱庭に留まり続けると。

 それなのに今更思う。

 いっそ消えてしまえたらよかったのにと。


 あの日、毒酒を飲んだ後の記憶が頭をよぎる。


 ――「明らかに隠し事をしていますよね、世界と」


 核心を突いたような問いかけに答えられなかった。実際になにのことだか分からずにいたけれど、心当たりはある。自分が世界と契約を結んだのは、ちょうどこのあたりだからだ。


 意識は暗く閉ざされ、魂の海で溺れていた。周りにはなにもなく、ただ流されていることだけが分かる。どこへ連れていかれるのだろうか。

 そんなとき頭上から声がかかる。いずこで聞いた、人ではない、森や空自然に近い、男の声を。


『勝敗は決した。今ある秩序は崩れ去り、敗者は退場する。死した魂は浄化され、また新たな魂として生まれ変わる』


 無機的で事務的な説明が耳に入って、脳に溶け込む。

 本当に自分は消えるのだ。

 なにもかもがなくなる。

 なかったことになってしまう。

 残酷な事実を認識すると、悔しさがこみ上げる。顔を歪め、唇を噛んだ感覚だけを、皮膚に感じた。


 声は出なかった。言葉として想いをつむぐことはできない。

 姿なき声は告げる。


『お前を最果ての楽園に封じ込める。それと引き換えにお前たちの物語を永久とこしえまで届けよう』



 世界の意志そのものとの関わりは、そこで終わった。

 魂の海での邂逅は本当にあったことで、それは今の自分が証明している。

 それなのに現実味が薄い。まるで夢を見せられたかのような感覚。神のごとき存在が放った言葉すら、今や曖昧だ。

 相手はいったいなにのために、あのような提案をしたのだろうか。そしてその折り、らしくない・・・・・発言をしたのを覚えている。

 それは完璧な存在が唯一見せた綻びのようなもので。

 だからこそ信じられない。

 本当はなにも言わなかったのではないか。

 自分の勘違いに違いない。

 メラニーは頭を激しく横に振り、目を伏せた。

 ため息を漏らし、また息を吸い込んでから、彼方を見つめる。夜空に瞬く星はとてもきれいで、世界の果てまで照らしてくれるような気がした。

 月は動かない。常に同じ場所に留まっている。楽園には時間が流れないのだから、当然だ。

 そのはず、だったのに。

 オーウェンが箱庭に足を踏み入れたことで、時が動き出したような気がする。

 初めて見た楽園の夜。黄金の輝き。彼が来るまで青い空しか広がっていなかったのに。


 地上ではどれほどの月日が流れたのだろう。

 かつて自分が生きた世界は、すでにない。

 独りになったという事実が、重く胸にのしかかる。

 誰かにそばにいてほしい。

 切実な思いが募る中で彼女は縮こまり、小さな体を抱きしめた。


 ***


 朝になった。

 空は青く澄み渡り、ふわふわとした雲が宙を漂っている。爽やかな空気と共に時間が動き出す。

 ガーデンテーブルの前に座り、ティーセットを並べる。カップに手を伸ばそうとしたところ、不意に影が近づく。目だけを動かしてそちらを向くと、楽園の端から近づいてくる影があった。オーウェンだ。リチャードと同じ顔、昨日と同じ格好で、彼女の元にやってきた。

 彼の顔はただそこにいるだけでこちらの感情を煽るのに、なぜか安心感を覚えている自分に気づく。

 心の底では彼を求めているのだろうか。

 首をひねりながらも相手にしてみる気にはなったので、手を下ろし、そちらへ顔を向ける。

 彼女が挨拶をする前に、オーウェンが口を開く。

「ちょっと森へ、行ってみませんか?」

 腕を曲げ、手のひらを彼女に向ける。

 別に誘いに乗っても構わないが。

 彼はそれで満足か。

 ほかにやるべきことがあるのではないか。

 魔女ごときに構う必要など。

 訝しく思いながらも、別に断る理由もなかった。

「気が乗ったわ」

 気まぐれを起こしたように彼の手を取る。

 立ち上がり、共に歩き出す。

 二人は庭を離れ、緑の深い場所へと赴いた。


「あなた、ガイアとは出会わなかったの?」

「ガイア? あれは概念ですよ。会えるわけないじゃないですか」

 森の中を進みながら問いかけると、彼は困ったように返した。

 ガイアとは世界の意志そのものだ。その詳細を知っている者はいない。

「そう」

 小さくこぼす。

 ほかは知らないが自分は知っている。

 ガイアのことを。

 ただ数度の邂逅ではあったけれど、確かに会ったことがある。奇しくもこの場所、新鮮な空気が漂う森の中で。


 今ある森を含んだ土地の一角が、世界の果てとして隔絶される前の話。

 ちょうど薬草を摘みにでかけたときだ。

 少し開けた位置に、カカシのように突っ立っているなにか。長く伸びたつややかな銀の髪に、宝石を埋め込んだような、切れ長の瞳。顔は中性的で、性別が分かりづらい。背には半透明の翅が見える。妖精のような姿だった。

「あなたは……?」

 首をかしげながら近づく。

「驚いた。私が見える者がいるとは」

 声は透き通っていた。

 余計に性別が曖昧になった気がするが、口調からして男性だろう。ならばそう、遠慮する必要もない。

「いいから答えなさいよ。あなたは何者なの? 名前くらいは言えるでしょう」

 眉を釣り上げながら問いかける。

「私は単なる機構、もしくは端末だ。名などないよ。いいや、あえて言うならガイア。そう、呼ばれている」

 彼はかすかに笑いながら答えた。

「ガイア……」

 口をあんぐりと開けて、固まる。

「世界そのもの。そんな大層なものが、どうして私の目の前に?」

 ありえない。

 それは形を持たないものだ。いくら端末といえども存在を確認できるなんて。

 衝撃を隠しきれない魔女に向かって、ガイアは顔色を変えずに伝える。

「確かに大層な存在ではある。だが、そうよいものでもない。実にくだらないよ。私のやっていることといえば、不要なものを消し続けるだけだからな」

 おのれを卑下するにしては、口調に感情がない。

「嫌なら辞めたらいいのに」

 唇を尖らせながら言う。

「辞めつつもりはないさ」

 ガイアはあっさりと返す。

「私はそうあり続けるのみだ」

 無感情のまま彼はつぶやく。

 当たり前のように言い切った様を見て、彼女は悟った。目の前の存在は本当に機構なのだと。

 おそらく現状はつらくもなんともないのだろう。なにもかもが他人事。自分のことですら勘定の外に追いやっている。世界や人に望まれるがままに存在し、繰り返すだけだ。普通ではない彼のあり方に、哀れみが湧いた。


 いつの間にか空は黄昏れていた。

 薄暗くなりつつある森の中で、ガイアは口を開く。

「お前、人間の男と関わっているだろう」

「それがどうかした?」

 目を眇め、睨むように見上げる。

「身を引くがいい。それ以上は破滅を招く。待ち受けるのは悲しい結末のみだ」

 ガイアは告げた。

 今すぐにリチャードとの密会をやめろと。

 自分のために。

 そうでなければ滅ぶからと。

 言葉を理解した瞬間、彼女の胸には怒りがこみ上げていた。

「そんな運命、知ったことですか。私は最期まで彼と一緒にいるわ」

 胸に手を当て、訴えかける。

 感情に任せて言ってしまった。

 そんな興奮している魔女の姿を、ガイアはただ見つめる。無感情な目。荒ぶっている自分が恥ずかしくなる。

 やがて平静さを取り戻したメラニーは、勢いよく相手に背を向けた。数歩大股で歩いて、途中で足を止める。

「あなた、どうして私に忠告したの?」

 硬い声で問いかける。

「ただ一人、私を見つけた存在だからだ」

 声は答えた。

「そう、そんなことで」

 だからなにだ。

 唇を固く引き結び、前を向き直す。

 覚悟を決めた表情をして彼女はまた歩き出す。凛とした後ろ姿は闇に溶けるようにして見えなくなった。

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