第4話

 ***


 涼やかな空気の森を進む。緑の中を突き進むように足を動かしながら、魔女はずっと、考え事をしていた。

 結局、あれでよかったのだろうかと。


 彼女はガイアとの契約で、世界の果てに留まることを選んだ。彼女は箱庭から出ず、代わりに二人の痕跡は物語として、世界に残る。

 なにもかもがなかったことになるよりはよかった。

 けれども、次のようにも思うのだ。もしも潔くゼロに戻っていたら、今ごろまた違う自分として、最愛の人と再会していただろうに、と。

 彼との悲恋は誰にも渡したくはない。胸が締め付けられるような感情や、青年との邂逅は、なによりも尊いものだった。あの熱くとろけるような、静けさにも包まれているかのような日々の名残を、今でも探している。

 ああ、矛盾している。

 リチャードの幸せを求めてしまうのに、彼を一番に引き止めたがっているのは、自分だ。自分のために彼を手放したくないと。そもそもの話、魔女と関わりさえ持たなければ、リチャードは生き残れたというのに。


 ――つくづく嫌になる。


 表情を曇らせる女に、青年は笑いかけた。

「後悔はなかったと思いますよ」

 柔らかな声音だった。

「彼はあなたと共にあることを選んだんです。メラニーという魔女がなによりも大切だったから。一番に救いたい人、だったから」

 聞いて、心が震えた。

 無意識の内に唇が開く。

 なにか、訴えようと、口を動かす。

 言葉は出なかった。思いが喉元まで這い上がってきているのに、肝心の内容がなく、形を持たない。

「あなたは自由になってもいい。あなたが思うように生きて、いいんですよ。それを俺も望んでいます」

 それは、その言葉は。

 いったいどちらが望んだことなのか。

 オーウェンか、リチャードか。

 彼の顔を盗み見る。今、隣を歩いているのは、オーウェンだ。リチャードと同じ顔。自分が愛した人そのものなのに、どうしてこうも心が荒ぶるのだろう。

 唇を噛み締め、うつむいた。

「他人の癖に」

 低い声が出る。

 オーウェンがあっけに取られたように目を丸くする。

 メラニーはキッと目を尖らせ、彼を睨んだ。

「あなたが語らないで。リチャードではないあなたが」

 声を荒げ、思いに任せて怒ると、オーウェンは口を開けたまま、固まった。

 彼のショックを受けたように様を見て、メラニーは目をそらす。

 やってしまったという感覚があった。

 真意は分からないながらも彼は明確に、一人の女を想って言ったことなのに。

 後悔しても、もう遅い。

 彼女が沈黙を保っている間に、青年はすっきりとした表情に戻る。彼は寂しそうな目をして彼方を見つめ、またこちらを向き直し、口元を緩めた。

「そうですね。今の俺は、俺なんだ。きっとあなたが望む者にはなれない。代わりにはなれないんだ」

 苦々しくつぶやく。

 淡い声音が胸に響いた。

 自然と足が止まり、立ちすくむ。

 冷たく乾いた風が吹き、髪がなびいた。心にも隙間風が吹き抜ける。

 違う、そうではないと、心の中で首を振った。

 どうしたいのか、どうしてほしいのか分からない。

 ただ一つ、言いたかった。本気で彼を嫌ったわけでも、否定したいわけでもない。ただ、受け入れられないだけ。自分はまだ過去の中にいるだけなのだと。

 もどかしい思いを抱えている内に青年は背を向ける。行ってしまう。遠ざかってしまう。

 もはや届かぬ影へ手を伸ばす。

 行かないで。

 どうか。

 心の中でつぶやいた言葉は誰にも届かない。

 彼女は唇を固く閉ざしたまま、腕を下ろす。手のひらが力なく開き、指の先が地面に向いた。

 誰もいない森の片隅で一人、佇む。

 細く頼りない影が、緑の中に伸びていった。


 ***


 青年のいない夜を幾度も越えた。

 漆黒の闇に星が流れる度に彼を想った。

 かつて愛した男とオーウェンの顔が重なる。懐かしさと悲しみが海のようにこみ上げて、また目を伏せた。

 あの青年は現れない。もう二度と。

 自業自得だ。自分の本当の気持ちと向き合わずに、一方的にはねのけてしまった。もはや取り返しがつかない。

 あれだけ否定して今更会いたいなんて、どうかしている。メラニーはひっそりとまぶたを閉じた。


 そう、本当の気持ちはなにだったのか。

 どうありたいか、なにをしてほしかったのか。

 リチャードはリチャード、オーウェンはオーウェンでしかない。

 現実は分かっているのに、求めてしまう。焦がれる気持ちがこみ上げる。

 彼が彼でなかったとしても、もう一度顔を合わせてみたかった。

 その想いが拾い上げられることは、きっとない。

 もう終わってしまった、なにもかも。

 漆黒の空を見上げただ一人、嘆いていた。

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