第九嘘 ショータイム




「冷めるよ」


嶺は俺が取り分けた鍋に手を付けないのを見て、鍋から視線を外す事なくそう言った。俺は何度も何度も考えては消えた言葉の中から、結局情けない言葉をひり出した。


「…嶺、もしかして怒ってるのか?」


嶺は俺の言葉を聞いて顔を上げた。深い緑色をした嶺の大きな瞳は、俺をいつもより弱く映す。シーカや友達といる時は、ある程度年齢を重ねた大人の男として自分がちゃんとしてるな、と安心できる。

でも嶺といる時は違う。俺の常識や価値観なんか、嶺には全く通じない。いつも不安で、ドキドキして、追いかけたくなる。


「…もしそうだったら?」

「…何回も言ったけど…俺は嶺を傷付けてまでこの生活を続けるつもりは無い。同棲は解消して、シーカとの付き合いも「はーぁ」


大きくため息を吐いた、分厚い唇。キスシーンが映える様に、昔ヒアルロン酸を入れたらしい。でも嶺は元々の顔が派手な為か、全く違和感が無かった。


「…何…?」

「つまんないよ、そんなの!」


嶺は細い指先で俺の顔を掴んだ。俺は嶺の言葉に驚いて声が出なかった。


「は!?」

「あのさぁ、うちら最近、シてないじゃん?」

「…え…まぁ…え!?だからこんな事を?」

「違うよ、馬鹿」


馬鹿、バカ、ばか?俺が馬鹿?何で俺が馬鹿なんだよ、納得いかねー。俺はコメカミをピクピクさせながら嶺の言葉を待った。嶺は鍋から鶏肉と白菜を取り、七味唐辛子を死ぬほどかけた。毎回毎回、かけすぎだよ。この馬鹿舌、馬鹿はおめーだ。


「…私側のレス、だったでしょ」

「…うん」

「私さ、ショピの真面目で優しくてイケメンで普通の男って所が好きなの。いつも必死で一生懸命でバラエティの台本読み込んじゃうような、そんな所が私になくて新鮮だった」


鍋の具材を、口に運ぶ事なく嶺は置いた。俺はなんとなく、嶺が言おうとしてる事を察した。胸の奥に、嶺の言葉が重くのしかかる。


「だから、合わなくなった。キスもデートもセックスも、楽しくなかった。正直最近は別れを考えてた。切り出せなかったのは、ただの情だった。「嶺」


俺は嶺の言葉を遮った。俺は目元を手で覆い、机に肘をついてため息を吐いた。わかっていた。嶺の気持ちも、この先の俺たちの事も。俺の方が確実に、先に気づいてたよ。


「もういい、わかってるから」


俺の声は震えていた。痛いほどの沈黙が流れる。頭の中で色んな事を処理していた。でも俺のそんな思考は、次に嶺が発した言葉で吹き飛ばされる事となった。


「…なのにあの日…ショピに呼び出されて、この疑似恋愛の提案を受けた時…私、心が震えたの。あの時また、貴方を好きになった」

「!?」

「私の想像より、貴方は普通の男なんかじゃなかった…久しぶりに濡れたの。ここまできて、普通の展開や関係なんてつまらない。」


そうか、あの時俺はそっち側の人間になってしまったんだな。俺は心のどこかでそう理解した。そして同時に、俺と嶺が元の関係や接し方に戻る事は無いんだと自覚した。目の前の嶺は、酷く遠くて不確かな存在に思えた。


「だから私は私が楽しめるように動いてる。ショピの対応を見て、感じて、触れて…私は今、全身で貴方に恋をしてるの。貴方にというか、この状況で見る貴方に、ね。」


嶺は美しい微笑みを浮かべて、そう言った。嶺が好きなのはもう、俺ではない。この生活が終われば、嶺は俺の側から消えるだろう。俺はこの生活が終わるまでに、嶺を失う覚悟をしないといけない。心のどこかで思ったその感情に、俺は深く傷ついた気がした。この先、どうにかこうにか騙し騙し嶺と付き合うために画策しながらすがり続けるか、今回の生活で嶺の気持ちが本当に変わるか、それとも…売れない舞台俳優だった時からの関係で結婚まで考えた人をここで終わらせるか。


「もっと私を楽しませてよ。」


目の前にいる嶺はもうとっくの昔から、俺の知ってる嶺じゃなかった。胃が冷たくなるのを感じた。頭がパンクしそうだった。俺は鍋に手も付けず、会計をしてその場を後にした。具合が悪くなって立ち止まり、バス停のベンチに座った。暗い夜道に街灯のオレンジだけが柔らかい光を落としている。本当の俺じゃもう、嶺の心を取り戻す事はできない。その事実に自分が思っていたより、深く傷ついていた。


「…シーカ…」


口に出た独り言にハッとした。俺は自分が思っていたよりもずっと、シーカに心を癒されていたのかもしれない。落ち着け、俺。人の女だ。胸の奥に鈍い痛みが走る。一緒にいる時間が長くて、錯覚しただけだ。シーカは俺のものじゃない。俺の女じゃない。嶺と上手くいかないからって、気持ちを逃すな。一回りも歳が違って、まだ未来があって、自分の母親の為に俺を選んだだけだ。


「…クソッ…」


それでもいい。会いたい。話を聞いて欲しい。真面目で優しくて擦れてなくて綺麗で、嶺とは何もかも違った。嶺を愛していたはずなのに、この同棲生活が始まってあの家に帰るようになってから、俺は少しずつ嶺の事を考える時間が減っていた。薬と同じだ。合ってなければ効かないし、合ってればその全てが作用する。シーカは俺に合った薬だった。眠くんとの結婚に戸惑っていた時も俺との同棲を解消したくないと言った時もキスをせがまれた時も、俺は役者の枠を超えて愛しいと思った。心のどこかで、俺は喜んでいた。演じていたはずだった、何もかも。嶺が今日していた表情も、俺は思い出せない。きっとそんな俺に、嶺は気づいていたと思う。俺には、演技なんか向いてないのかもしれない。


胸ポケットが揺れて、電話を知らせた。画面にはシーカの名前が表示されていた。


「…嶺、ごめん」


幸せにすると決めた相手だった。愛していた。でも、嶺に最初に拒まれた夜から、俺はずっと誰かに必要とされたかった。嶺は俺に作用しない。俺も嶺にはもう作用しない。俺はシーカの電話に出た。


「どうした?」

『嶺さんとの話し合い、どうなったの?』

「別れるよ。」


俺の言葉に、シーカは沈黙した。俺は上手く言葉を探せなかったけど、最低限伝えないといけない言葉だけを伝える事にした。


「言っとくけど、お前のせいじゃないから」

『でも…』

「…とっくにダメだったんだ、俺たち。でもちゃんと、眠くんとは別れさせるから。」


俺の言葉にシーカは押し黙った。シーカを手に入れるべきじゃない。そんな自分の弱さにシーカを付き合わせたくない。眠くんみたいに、本当に自分を想ってくれる若くてイケメンで金もあって、未来もある人と…


『ショピ』


シーカの声が鼓膜を撫でる。


『月見える?』


街灯の遥か上に、月が浮かんでいた。闇に薄く灯りを落として、満月でも三日月でも半月でもない月が浮かんでいる。


『レモンみたいだね』


同じ月を見てるんだな。俺は出しかけたその言葉を仕舞い込んだ。その後自分が話した言葉は酷く曖昧なものだった。電話を切った後、空を見上げた。オムレツみたいな月が、涙で滲んで見えた。








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