226 この手に……

 アルは、空から落ちてくる小さなものに向かって、走り続ける。


 彼は先ほどまで死んでいたというのに、随分と早く、兵士が追いかけても追いつけず、大怪我をした仲間たちは走ることが出来ず、カイルだけが何とかついて来ていた。

 

 アルは、まだ十分な体力が戻っていない。

 全力で走るのは相当きつく、気を抜けば、倒れそうにもなる。


「王子、そんなに走ってはいけません! 私が、パティ殿を追い駆け、きっと、受け止めます!」


 カイルは少し後ろからアルに叫んだが、アルは、駄目だ、と、呟く。



「駄目だ、カイル。僕がパティを受け止める。これは僕の役目なんだ!」



 アルは、走りながら、カイルに叫ぶ。


 アルの声は、息も絶え絶えだが、迷いの晴れた、明るい声だった。

 カイルは、アルの声を受け、その場に立ち止まった。

 カイルの顔には、柔らかい笑みが浮かんでいた。



 パティが救ってくれたのだと、アルは分かっていた。


 アルは、木の葉のように風に飛ばされて行くパティを全力で追い、絶対に受け止める――、と、心から誓った。


 


 ――そうだ、空から舞い降りる天使はいつも、僕が受け止める。それは僕だけの、役割なんだ。



 ずっと、パティ……、君の夢を視ていた。

 君の声を聞いていた。


 あの時、パティが、助けてくれだんだね。

 僕を呼び戻してくれた。

 僕は、君を酷く傷つけてしまったのに……。

 酷く傷つけ、遠ざけた。

 それが正しいのだと、パティが平和な世界で生きることが幸せなのだと、決めつけていた。

 それに、僕はずっと、怖かった。

 パティが傍にいたら、ネイトに申し訳がないと思って、幸福になることから避けていた。


 だけど、パティ。

 君に伝えたいことがあるんだ。


 

 僕はもう、逃げない。

 君と幸せになりたいんだ。

 


 ネイトのことを忘れはしない。もう死んでしまった彼には許しをうことはできないけれど、僕はそれでも、パティと生きていきたいんだ。


 一緒に乗り越えたい。あの過ちを君に話そう。

 僕の罪も、苦しみも、君が味わってきた孤独や痛みも、これから起こるかも知れない悲しみも、二人で分かち合おう。


 そして、手を取り合って、喜びを、幸福を、築いて行こう。




「僕は、本当は、ずっと、君のことが――、パティが好きだったんだ」




 もうあと五メートルほどのところに、パティが落ちて来る。

 その先は崖になっていて、深い谷底だ。


 アルはもう、神から得た力が消えていることに気付いている。谷底に落ちれば、パティを捕まえることは叶わない。



 ――パティを失う訳にはいかない。

 絶対に、絶対に、嫌だ。



 アルは手を伸ばした。

 しかし無情にも、パティの体は谷底の方へ飛ばされていく。



(届かない……!)


 

 アルに絶望が降って湧くが、彼女を助ける――、という決意は無論、微塵も揺らいでいなかった。

 こうなったら、パティを腕に抱いて、谷底へ落ちる時、自分がクッションとなって彼女を救う。


 そうアルが考えて体を崖に乗り出そうとした時。



 ぶわっ。

 突風が吹いた。


 強い突風に煽られ、風の悪戯のように、突如、崖へ落ちて行こうとしていたパティの体が、アルの真上へと、降りて来た。


 それはまるで奇跡だった。

 風と化したシーナが手助けをしてくれたのだろうか。

 アルがそう思うほど、奇跡のようなタイミングの突風だった。


 アルの腕の中に、すとん、と、小柄なパティが収まった。


 アルは、腕に降りてきた天使――、いや、天使だった少女をまじまじと見つめる。


 パティの翼は焼けて燃え尽き、背中が剥き出しになっていた。火傷を負っていたが、焼けたのは背の部分だけで、それも酷い傷ではなさそうで、他には、傷はなかった。


 

 アルはパティをその場に降ろし、心臓に耳を当てると、きちんと、規則的な音を立てている。

 アルはパティの手をぎゅっと両手で握り締め、良かった……、と、消えそうな声で言った。

 


 ――パティが、生きている。


 

 そう実感すると、アルの目には涙が浮かんでいた。

 その喜びは何にも勝ることで、アルは嬉しさのあまり、地面に置いたパティをぎゅっと抱き締めた。


 すると、パティが、抱き締める感触に気付いて、瞳を開いた。

 パティの瞳は、もうあの七色に見える輝きを持ってはいなかったが、髪と同じブルートパーズ色の瞳も充分に美しかった。

 

「……パティ」

 アルはパティの手を握り締め、緊張して言った。


 こうしてパティを目の前にして会うのは、酷いことを言って以来なので、自分の心臓の音が聞こえそうなほどうるさかった。


 パティはアルを瞳に映した。

 

「パティ、良かった……、本当に。こうしてまた会えて、僕は、心から、嬉しいよ」

 アルは流れようとする涙を拭う。

「体は、大丈夫? どこか痛いところはない?」


 パティは何も言わず、アルが握っていた手を放すと、体を起こした。パティはどこかぼんやりとしていた。


「みんなも無事だ。それにね、この世界は、救われたんだ。これからは、国も、復興していける……」

 

 アルは、本当はそれよりもパティに伝えたいことがあったが、つい、喜びのあまり、他のことを口にしていた。


「あの……」

 今まで黙っていたパティが、ようやくそれだけ言った。捲し立てるアルに遠慮していたのかもしれない。 

 パティはきょとんとして、不思議そうな顔をしている。


 アルは、パティのその表情が、何か、物凄く不安を掻き立てられた。

 

「あの……あなたは――」


 パティはふらつきながらも立ち上がり、アルから一歩下がって、小さな声で言った。



「……あなたは、誰ですか?」



 パティは明らかに警戒して言った。

 パティが放った言葉に、アルは、ぴしゃりと、雷にでも打たような気がした。


 くらりと眩暈がし、アルの視界が、暗く陰っていく。


 平和になったこの世界で、ようやく掴もうとした光が、幸福が、一瞬の内に泡となって手の平から零れ落ちていく。

 

 アルは、心から愛するパティを前に、体の底から這い上がってくる空虚な感覚に縛られ、暫し、茫然とした。








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