サイモンの話、ロゼスの思い 後半
ロゼスはその日、城の周辺を歩いていた。
訓練日の休憩時間だった。しかし彼はここのところ食欲がなく、食事はほとんど喉を通らず、水を口にするばかりだった。
そのため他の兵士のように宿舎の食堂には行かず、ふらふらと出歩いていた。
イーシェアに出会ったのはその時だ。
一人の娘が花畑に腰を降ろし、教会の周りに咲くピンク色の花の匂いを嗅いでいた。
白いストンとした足首までの裾には赤い線が入り、手首で袖が広がった巫女の衣装を着衣していたので、彼女が教会の巫女姫と呼ばれる者だということは一目で分かった。
ロゼスがその娘から目が離せなかったのは、彼女が無表情で感情のない人形のように見えたからだ。
修道院にひっそりと暮らし、人々のために祈り過ごしている巫女のことは知っていた。知ってはいたがロゼスには神に祈る習慣はなく、懺悔することも必要としていないので巫女を見たことはなかった。
初めてイーシェアを目にしたロゼスは、戸惑った。彼女は人形のような表情をしているのに、優しい光に守られ、それでいて、近寄りがたい神々しさがあっ
た。
ロゼスも、イーシェアが万人を愛し慈しんできた、神に仕える身だと悟った。
「教会に祈りに来たのですか?」
ロゼスに気付くと、イーシェアは言った。
人形のような表情だったが、イーシェアの声は至極優しい響きだった。彼女の水色の瞳には人を労わるような光が映っていた。
「いや、俺はただ、通りがかっだだけで……。俺は、メイクール歩兵部隊のロゼス・ラジャエルです」
巫女はロゼスの瞳を見つめ、悲しげに笑んだ。
「ロゼス、苦しみの中にいるのですね」
その頃自分は戦争から戻ったばかりで、鬱々と過ごしていた。
数か月の務めであったが、目を閉じる度に血の臭いがし、死体を目にした無残な光景が蘇ってくる。
同じように戦争に行ったメイクール国の兵士は一様にイーシェアのいる教会へと通っていた。教会へ通う兵士たちは目に見えて元気になる訳ではないが、僅かばかり心が救われているようだった。
しかしロゼスには関係のないことだ。
「俺は苦しんでなんかいない」
ロゼスはイーシェアから目を逸らした。するとイーシェアは、不意にロゼスの手をとった。
(な……!)
ロゼスは急に手を握られて、戸惑った。
イーシェアの水色の瞳は澄んだ輝きを放ち、迷いなくロゼスを見つめていた。
「多くの者の命を奪っていますね。それはあなたのせいではないけれど、罪は罪です。彼らのために祈ることです。罪が許されなくても、いつか、心が救われる日が来ます」
「う、うるさい! やめろ!」
ロゼスはイーシェアの手を振り払い、怒鳴った。
ロゼスははっとした。
巫女に失礼なことをしてしまった。
場合によっては上官から叱咤されるだろう。だがそんなロゼスの心配をよそに、イーシェアはそっと微笑んだのだ。
それはぎこちない笑顔だったが、彼女にとって精一杯の微笑みだった。
「すみませんでした。失礼なことをして」
ロゼスの言葉にイーシェアはかぶりを振った。
「ロゼス、どうか、心のままに生きてください」
イーシェアは優しい響きの声でそれだけを言い、教会の方を向いた。
いつの間にか、少し離れた教会の前に彼女を呼びに来た世話係がいた。
その若い男はロゼスに気づくと少しだけ頭を垂れ、次いで、警戒するように見ていた。イーシェアは立ち上がり、教会へ戻ろうとした。
「あの……イーシェア様」
気付くとロゼスは、イーシェアを呼び止めていた。
「俺は祈りません。神というものを信じていないからです。ですがまたここへ来ます。その時はあなたのことを教えてください」
イーシェアは少しだけ目を見開いてロゼスをその瞳に映した。その時初めて、彼はイーシェアが人間らしい表情をしたと思った。
ロゼスはイーシェアにまた会いたいと思った。
しかしそれは巫女としてではなく、一人の人として、女性として、彼女を知りたくなったからだった。そこで何も言わずに離れれば二度と会えないような気がした。
イーシェアは何も答えなかった。
驚いたような、戸惑っているような、しかし柔らかな目をして去っていった。
その後、イーシェアとは何日かの間その場所で会うことができた。
ロゼスにとってそれはかけがえのない時間だったが、同時に寂しさをも思い起させた。
イーシェアは林檎のパイが好きなこと、祈る時には時間が止まるような感覚がすること、神を常に傍に感じていること、身寄りがなく、同じく教会に住む少女はよく話しよく泣くということ、身寄りがないが寂しいと思ったことはない、ということなどを話してくれた。
「ロゼス、この国には幸せな人たちがたくさんいます。耳を澄ませば聞こえてきます。悲しい心の方もいるけれど、満たされた心の声は私の耳によく届きます」
――私には彼らを救う義務があるのです。
この国を、メイクール国の人々を護ることが私の役割です。
「一人の人間の力なんてたかが知れている。まして国の人々を救うなんてこと……。あなたは自分の力を過信している」
ロゼスは少し笑った。
いつの間にか、彼はイーシェアに対して敬語ではなくなっていた。イーシェアと同等でいたいと思ったからかもしれない。
イーシェアはそれには答えず、悲しそうな顔をした。
その時彼女は何か言おうとしていたが、言葉を飲み込んでいた。
何を言おうとしていたのかは未だに分からない。
それが、イーシェアと交わした最後の言葉だったからだ。
彼女は今も人々のために教会で祈り暮らしている。しかしロゼスの前に現れることはなくなった。
理由を知りたかったが、知るすべもなく、ただロゼスは悲しい思いを引き摺るしかできなかった。
(イーシェアのことは忘れなければ)
そう思い、ロゼスは訓練に明け暮れた。
そしてせめて、あの方が住むこの国は護っていくのだと心に誓ったのだ。
「ロゼス!」
パティの呼び声に、ロゼスは我に返った。
洞窟の終わりが見えた。前方に光が差し込み、風が吹き、木々の匂いがした。
「やっと暗闇を抜けるのですね。ねえロゼス、もうすぐアルに会えるのですね」
パティは幸福な想像をし、嬉しそうに言った。
洞窟を抜けると、アルペール山脈はもう遠くの方に見え、まばらな木々が生い茂るだけだった。山の向こうの空は夕焼けのオレンジ色の光に染まっていた。闇を抜けたと思ったら、もうすぐ夜の闇が待っている。
「パティ、王子に会ってどうするんだ?」
ロゼスは嬉しそうにしているパティの横顔に言った。
「それは……お会いしたいから――」
「それは聞いた。分かっているかわからないが、この際言っておく。お前と王子では住む世界が違う。いつか王子は――」
そこまで言い、ロゼスは言葉を切った。それ以上言えなかった。まるで自分に言い聞かせているようだと思ったからだ。
「あまりアルタイア王子に近寄るなよ。それがお前のためだ」
パティは呆けたような顔をし、ロゼスから目を逸らすとぷいと前を向いた。反抗期の子供のようだった。
「わたしは、わたしの心のままに生きます」
パティはきっぱりと言い、前を見据えた。
ロゼスはパティの言葉に思わず彼女をじっと見た。
――ロゼス、どうか、心のままに生きてください。
そう言ったイーシェアの声が耳の奥に蘇った。
「急ぎましょう、ロゼス」
闇から抜け出したせいか、急に元気になったパティは夕焼けの陽を浴びながら生き生きと言った。
先ほどロゼスが言ったことなどとうに忘れたような口振りだ。
パティは今だけを生きていた。
先のことなど考えていない。気軽に暮らしていた天使の特徴だろうか。単に、物事を深く考えない
パティの七色の瞳は夕焼け色に染まっていた。
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