17 サイモンの話、ロゼスの思い 前半
「およそ二十年前、メイクール国は危機的状況に陥っておった。あれは、小競り合いから大きな戦へと発展した、戦争じゃった」
メイクール国は他国に比べて軍事力が弱く、国土も狭い。世界的に見れば小さな
まだ各国と友好的な関係を築いていないその時代、小さな国に戦を仕掛けてくることは珍しいことではなかった。メイクール国は国の内部にまで敵の侵入を許し、多くの兵士や市民を失った。
「もう後少しで城の中にまで敵国の手が伸びてこようとしていた時、わしは恐ろしさに震え、城内の物影に隠れておった。その時は、平民も城の中に避難のためにある程度の人数を受け入れておった」
サイモンは戦争の恐ろしさを思い出し、声に緊張が走っていた。
「わしは小心者だ。怖くてじっとしていられず、避難の部屋から離れ、いつの間にか、混乱の中の玉座の間まで来てしまった。慌てふためく城内ではそれを咎められることもなかったがな。そしてその混乱の最中、玉座に窓から入ってきた者がおった」
ばさりと、黄金色の翼をはためかせた、美しい獣はまるで神の遣いのようだった。いや、サイモンにはそれは神そのものに見えた。
「そのものは、聖獣じゃ」
闇色の瞳に白く輝く体をし、黄金色の翼を持つ獣だった。
「聖獣――」
パティの呟きにサイモンは頷く。
「あの深く暗い瞳は、まさに闇色。見る者全てを見通し、何もかもを理解しているように見ておった。あの者の視界にわしは入っていなかったはずじゃ。物影に隠れておった。しかし、わしの存在は分かっておった。わしが何を思い、そこに隠れているのかもきっと分かっていたのじゃろう」
聖獣はサイモンのことは気に止めず、王と、その隣にいた従者の男を見て話し始めた。
「メイクール国の王よ。この国は今後も度々危機に見舞われるだろう。切り抜けられるよう、この子を授けてやろう」
聖獣は不思議な声を発した。
それは雄々しく、猛々しく、だが穏やかな響きをし、心に語りかけるような声だった。
一人の愛らしい赤子が獣の背のあたりから飛び出し、宙に浮かび、王の手元へと渡った。
「この子は神の力を授かって生まれた。生まれつき聖なる力を宿している、巫女だ。神に愛され、しかし同時に目をつけられている娘。この娘を聖なる存在とし、崇めながら育てよ。さすれば、この娘は国を救う力となるであろう」
(神に愛され、目をつけられている……?)
それはどういう意味だろう、とパティは考えた。
「その赤子とは、もしかして――」
「そう、その子は、イーシェア様じゃ。幼いが神々しい輝きを持って生まれた巫女姫を、聖獣様が王様へ授けられた」
パティは、瞳を大きく見開いた。
「メイクール国はその後救われた。なぜか、国を襲いに来た敵国の軍隊はその多くが消えていたそうじゃ。それ以降、王は尽力し、各国と友好条約を結び、簡単に襲われることはなくなったがな」
そう語ったサイモンの話をパティは内心疑っていた。その話は作られた物語ではなく、真実だというのだろうか。
「信じられんか? しかしそれは真実じゃ。他にも聖獣様は何か王たちと話していたが……それはわしの耳には届かんかった」
「サイモンはイーシェア様は人ではないとおっしゃるのですか?」
「わしには、巫女様は人非ず者と思えてならない。そう考えるわしは頭がおかしいか?」
サイモンに逆に問われ、パティは戸惑った。
「イーシェア様に初めてお会いした時、わたしもあの方は人とはかけ離れた存在のように感じました」
その時パティはイーシェアの美しい心を感じ取り、涙が落ちた。
それは不思議な感覚で、自然と分かったのだ。彼女は万人を愛し愛される尊い者だと。
「けれど、話しをする内にイーシェア様は人らしさというものを持っていると分かりました。わたし、あの方は人間だと思います」
老人は、そうか、と掠れた声を発した。
「マディウス王に聞いてみなかったのですか?」
「まさか! わしのような身分の者が王様と話せる筈がなかろう。それにわしは、イーシェア様の正体を探りたい訳ではない。ただ、あの聖獣様に再びお会いしたいだけじゃ」
サイモンは皺に覆われた目を細め、夢見るように言った。
「わしはな、聖獣様を見てからというもの、他のことは何一つできぬのじゃ。心を占めているものはあの聖獣様だけになってしまった……。それで俗世間を捨て、ほとんどここへ籠るようになった。あの美しく輝く聖獣様は、きっと神だ」
(闇色の瞳の獣の神)
そんな瞳を持つ神など天には存在しない。
そう言おうとしてパティは口を閉ざした。
神とはパティのような小さな天使とはかけ離れた存在だ。その力は絶大で謎も多く、一天使の彼女にはその多くを知る由もない。
その時、ぎい、とゆっくりと扉が開く音と共に、グレイ色の髪の青年が入ってきた。
「ロゼス!」
ロゼスは少し驚いた顔をし、パティの前に腰かけた老人を見つめた。
「驚いたな。洞窟に住む老人がいるとは本当のことだったのか」
サイモンは皺だらけの顔を緩めていた。
「天使にお付きの従者が来たようだな」
従者ではない、とロゼスは言いたかったが、面倒なので黙っていた。
「さあ、天使殿。行きなされ。ここはおぬしには暗すぎる。明るく愛らしい天使には太陽の下が似合うじゃろう」
「サイモン、お茶をありがとうございました。とても美味しかったです」
朗らかなサイモンにパティは笑みを返した。
ロゼスはサイモンと言葉を交わさず、軽く礼をし、その場を後にする。
再び闇の中をランタン一つで照らし、二人は歩き出す。少し経った頃、パティが窺うように口を開いた。
「……あの、ロゼス。サイモンは、イーシェア様は聖獣の神から授けられたのだとおっしゃいました。それは本当でしょうか? だとすれば、イーシェア様は人ではないのでしょうか?」
「なんだと?」
ロゼスは、あまりの内容に、怒り顔で不機嫌に言った。
「馬鹿なことを。どうせ担がれたんだろう。そんな筈がない」
ロゼスはその怒った口調とは裏腹に、自分でも驚くほど動揺していた。
「ロゼス?」
パティはロゼスの瞳を覗き込んだ。
ロゼスのグレイ色の瞳は不思議なほど揺れ動き、心もとない感情を表していた。
(イーシェアが人ではないなどと、愚かだ)
表情に出ることが少ないが、あの方は心根の優しい、人間らしい方だ。自分などとは比べようもないほどに。
ロゼスは閉ざされた暗闇の中でも、イーシェアの姿を思い描くことができた。イーシェアの澄んだ水色の瞳、その凛凛しく美しい佇まい、そしてぎこちなく微笑んだ顔を。
「本当の彼女を知らないだけだ」
ロゼスは歩みながらそう言い、それ以上何も言わなかった。
なぜかこの洞窟にいると過去のことばかりを思い出す、とロゼスは一人、自嘲気味に笑う。
この暗闇がそうさせるのか、それともパティに王子のことを話してくれとせがまれた時からか。今度はイーシェアのことを思い返していた。
ロゼスが、命を賭して、このメイクール国を守ろうと誓ったのは何よりも彼女のためだった。
心から愛しているが、決して結ばれることのない人。
思い返せば胸が痛み、しかし温かな心地にもさせてくれる人――。
イーシェアを思い出す時、ロゼスは蓮華の花の匂いまでもが蘇ってくるのだ。
出会ったあの日も、イーシェアは蓮華の花の傍で腰かけていた。
今ではもう遠い過去となったあの日のことを、ロゼスは再び思い返した。
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