138 姉弟


 ザシュッ!


 メイリンがルーナに攻撃された首の近くの肩甲挙筋に受けた一撃は鋭く深く、メイリンはあまりの痛みと衝撃に地面に転がった。

 

「おい……メイリン!」


 ロゼスの叫び声で、メイリンは遠のきかけた意識を呼び戻され、はっと目を開いた。


 メイリンは首の近くに氷の剣を刺したまま、荒い息を吐き出して周囲を見回すと、ルーナは不適に笑んでいて、ロゼスは不安そうな顔をしている。


(今はまだ、死ぬ訳にはいかない)


 ――私が殺した人たちにも、当然家族がいて、大切な人がいた。彼らは、私のしたことを許さないだろう。

 私が仕出かしたことを正当化する気はない。死んだ後、幾らでもその罰を受けよう。

 だが、今はまだ、死ぬ訳にはいかない。


 メイリンは腕で体を持ち上げ、ゆっくりと立ち上がる。


(多くの命を奪ってきた私が、助けたい者がいるなんて、勝手なのは分かっている) 


 その者は私のことを何も覚えていないし、家族だなんて、これっぽっちも思っていない。


(それでも……ロゼスは、彼がどう思おうとも、血を分けた、私のたった一人の大切な弟だ)

 

 ルーナは既に重症を負ったメイリンに、更に攻撃を仕掛けに、再び氷の剣を取り出した。


 ロゼスはそれを見て、素早く槍を取りに駆け出し、振り向きざまに槍を振り翳す。

 ロゼスの素早い攻撃にルーナはたじろぎ、槍を剣で防いだが、膝を付いた。

 それでもルーナの力は強く、ロゼスはそれ以上槍を押し込めない。

 ルーナは片手で槍を掴み、氷の剣でロゼスを刺そうとしたが、ロゼスももう片方の腕で剣を止めた。

 ぐぐ、と二人は剣を押し合う。


「この距離なら、逃げられないわね……」

 

 押し合ったままルーナは小声で呟き、二人を横目に見やった。


「あなたたち、仲良く二人ともあの世に送ってあげるわ。……私の最大呪文、〝消滅の風ディサーラウインド〟!!」


 ビュア!

 ルーナの周囲に黒い風が沸き起こり、その黒煙の風はロゼスとメイリンの元へと手を伸ばそうとしていた。

 

(この風は、逃れられない……!)


 ロゼスは本能的に悟った。この風に巻かれれば死が訪れると。

 

 その時、メイリンが首から下げていた鎖に通した指輪が、光を発し始めた。


(これは……使える……!)


 メイリンは突如光り始めた指輪を通した鎖を引きちぎり、指に嵌めた。


「指輪よ、弾いて!!」


 メイリンはロゼスの前に出て、左手に嵌った指輪を掲げた。指輪は月光の青白い光を発して、全ての闇の風を青白い石に吸い込むと、次いで、闇の風をルーナに向かって弾き返した。


「キャア!!」

 ルーナは暗闇の風に埋もれていく。


「その指輪は……、まさか、神具……?」


 ルーナは黒い風の中で絶望の声を漏らした。

「ええ、そう。これは、神具〝月光の指輪〟よ。数年前にシスから受け取っていた」

「そんな……、さっきまで、何も感じなかったのに……!」

「私の心が完全じゃないけれど、魔に染まっていたから、この神具は何の反応も示さず、私には扱えなかった」


 指輪はウォーレッド国が保持していたが、シスは、魔のものでも使えるようにするため、指輪を預かっていた。ルーナはそのことを知らなかったのだ。

 メイリンはシスの「持っていろ」という命令だけを守り、指には嵌めず、首から下げていた。

 シスは指輪をメイリンに渡した時、こう言った。


『この指輪の持ち主であるお前の心が完全に魔に染まれば、指輪も汚れ、魔の力とすることができる』と。



「ムカつく、ムカつく、こんなところで、こんな奴に、こんなものでやられるなんて……!」


 ルーナの体は完全に闇の風に呑まれ、彼女は這いつくばって地面の土を掴み、歯をぎりぎりと噛みしめていた。

 その間にも、黒い風はルーナを覆い尽くし、彼女の下半身は見えなくなっていた。


「私はね、こんなところで死ぬような馬鹿な魔族じゃない! 私は、私は……、アウイナイト様に認められる、そういう存在なのよ……う……、ああっ……!!」


 ルーナはそこまで言うと、完全に姿が闇に中に消え、苦し気に呻き、やがてその声は聞こえなくなった。

 

 黒い風はルーナの声が聞こえなくなると同時に晴れ、そこには、何も残っておらず、ルーナ自身も、彼女が着ていた服も身に付けていた物も、何もかもが消滅していた。

 

 ロゼスは消滅呪文の恐ろしさを改めて実感し、茫然としていると、背後から、ごほっ、と何度か咳払いをする音がし、我に返った。

 メイリンは首から刃を抜き取ると、大量の血が辺りに散乱し、立っていられずに座り込んだ。

 

「メイリン……」


 メイリンの命があと僅かであると、ロゼスにも分かった。ロゼスはメイリンの傍に寄った。

 メイリンに対する嫌悪感はなく、ただ彼女がその命の役目を終えるその時を見守ってやろうという、同情のような、使命のような思いが芽生えていた。


「神具を扱えたってことは、私は、少しは人の心を取り戻せたのかしらね……」

 メイリンは指輪を外し、それをロゼスに渡した。


「私が死んだ後、しるしは、きっと、血縁者であるお前にうつるわ。この指輪を、きっとロゼスは扱える。持っていて」


「馬鹿な真似をしたな。俺を庇って死ぬなんて。言っただろう、俺はお前など姉だと思ってはいないんだ」

 メイリンはふ、と口元を緩め、穏やかな笑顔を見せた。


「馬鹿な真似なんかじゃない。私は、したいことをしただけ。後悔など、していない……」


 メイリンは、首の近くからどくどくと血を流し続けていた。

 ロゼスは思わず、腰に縛っていた布を取り、メイリンの血が流れる箇所にあて、止血しようとした。

 ロゼスの顔が近づいたことでメイリンはよく弟の顔を見ようと、じっと彼女の瞳はロゼスに注がれた。

 

 メイリンは、最後に本来の自分に戻ろうと思った。

 ファントン国の王女であった頃、その口調と、心に戻ろうとー。


「やはり、あの頃と同じ眼をしている……。ロゼス、無事で良かった……。私が死んでも、気にするな。元々、私は、あの時――、ファントン国が滅んだ時に、死んだも同然だった」


 傷を負った箇所に布をあてても、メイリンの血は止まらず、彼女の瞳は徐々に虚ろになり、ぜいぜいと肩で息をしながら、一つ一つ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「お前の本当の名は、ラピス。ラピス・レイジア・ファントン。……滅んだ国の王族の名だ、この名は名乗らないくていい。私のことも、姉だと思わなくていい。だが、これだけは……覚えておいて欲しい。

 父と母は、命をかけて、私たちを護ろうとした。心から愛してくれていたんだ。彼らのことは、心の片隅にでも、思っていて……」

 

 ――ロゼス、お前の思うまま、生きたいように生きろ。生きていてくれて、嬉しかった……。


 最後にそう言うと、メイリンのか細い声は途切れ、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。


 メイリンはその生涯に似合わず実に穏やかな顔で眠るように息を引き取った。その顔は悔いも思い残すこともない、美しい死に顔だった。


 少しの間、ロゼスは無意識にメイリンの亡骸を前にしていると、二の腕に違和感を覚え、右腕をまくると、そこに神の石と呼ばれるしるしが継承されていた。


 その石を目にしたロゼスは、不思議な光景が見えた。


 くすんだキャメル色の古い城の夕焼けに染められた庭園で、幼い自分と、まだ少女のメイリンが剣の稽古に励んでいる光景だった。

 メイリンは圧倒的な強さで、弟の未熟な剣を弾き飛ばした。


「ラピス、それでは一生かけても私には勝てない。もっと強くなれ。ファントン国の王子である名に恥じぬようにな」

 言葉はきついが、メイリンの表情と声には弟を労わる優しさがあった。


「姉、上……?」 


 ロゼスの胸に、湖に石を投げ入れ、弧を描くように痛みが広がっていった。

 その痛みはロゼスの体中を突き刺し、堪え切れない悲しみとなって彼の体と心を覆っていく。

 

 メイリンが姉であった頃の過去の記憶の一部を取り戻したと同時に、ロゼスの眼に、悲しみの結晶である涙が僅かに浮かんでいた。



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