約束と、初めての魔物 後半

 パティは森の真上まで飛んで行き、降り立とうとした。だが木の枝に翼が引っ掛かってしまい、降りられなかった。仕方なく、森の端まで再び飛び、そこで降り立ち、持っていたコートを着ると、森へ足を進ませた。

 パティは意気揚々と森へ入ったものの、ほんの数分で怖気づいていた。


 そこは光のない世界――、そうとしか言えなかった。

夕刻を過ぎた時刻のせいで辺りは暗く、もう間もなく、更に深い闇が訪れようとしている。

 鬱蒼うっそうと生い茂る草木の葉の色や形も、暗闇に浸食されようとしていた。遠くの方から獣の鳴き声が聞こえたかと思えば、不意に息が詰まるほどの静寂に包まれる。


 パティの鼓動は早打ち、緊張と孤独は高まっていった。


あてのない森を彷徨さまよい歩く自分はなんと心許こころもとない存在なのだろうと思った。


数歩先には獣や魔物が茂みに隠れ潜んでいて、例えこの身を牙で貫こうとしていたとしても、自分にはそれを防ぐ手段は何一つないのだ。


 パティに言いようのない感情が襲った。

恐怖という、身が竦み、背筋が凍るような思いだ。一足一足、パティは音を立てないように慎重に進んで行った。


(怖い。でもイリヤを見つけなくちゃ)

 

 怖かったが、パティは戻ろうとは一切考えなかった。

 暫く歩くと、がさ、と背後で音がした。

 パティの心臓が大きく打った。


「お前、何でこんなところにいるんだ?」

「イリヤ!」

 運良くイリヤを見つけたパティはほっと胸を撫で下ろした。


「良かった、イリヤ。あなたを探していました。ミーナが心配しています。帰りましょう」

 パティは駆け寄り、明るく言った。イリヤはパティの言葉に戸惑っていた。


「ミーナが?」

 パティは頷いた。

「みんなと約束したんだ。まだ帰らない」

「でも、イリヤ、ここは危険です、もし魔物が出たら――」

「帰らないと言ったら帰らない! お前こそ帰れよ」

 イリヤにパティの言葉は届かなかった。

 パティを拒否し、反対方向を向く。少年の右手には作業用の小ぶりの斧が握られている。


「魔物を見つけて連れて帰るんだ。そうしないと、俺は……」

 イリヤは独り言のように言って、歩き出す。

 イリヤのその思いは子供たちとの約束を守るためというより、己への決着のためだった。嘘をつき続けてきた彼にとってそれはどうしても守らなければならない約束なのだ。これから、生まれ変わるために。


「イリヤ……」

 更に進んで行くイリヤに、パティは後ろからついて行くしかなかった。


 どれだけ歩いただろう、辺りはすっかり闇に包まれた頃、パティはなぜか急に息苦しくなった。

 体が蝕まれるような、違う生き物に呑みこまれるような、嫌な感じだ。

パティは立ち止った。


「どうしたんだ?」

「イリヤは何も感じないのですか? この嫌な感じ……」

「何言ってるんだ?」

 パティの動悸は早まり、息苦しさもどんどん増していく。森に入った時とは比べものにならないほどの寒気と緊張が彼女を襲う。


(これは、魔の存在)


 パティは誰に教わるでもなく、そう悟った。

 闇は光を侵食し、光は闇を照らし出す。二つの存在は相容れない。よってパティは、闇の存在を目に見なくとも、肌で感じ、認識できた。


「魔のものが……、すぐそこにいます」


 パティは暗闇の中、少し先の茂みを指差した。

 イリヤは眉を寄せ、パティの示した方向に斧を構える。パティはイリヤが斧を構えて進もうとすると益々不安になった。 


「イリヤ、やめて!」


 パティは心の底から叫んだ。

 パティは初めて、本当の命の危機を感じていた。


 のそり、と、ゆっくりとした足取りでその魔物は現れた。魔物は茶色を濁したような肌の色をしており、太い体と短い手足に鋭い牙を持っていた。


「にんげん、か」

 醜い魔物は言葉をあまり知らないのか、聞き取りにくい発音で言った。


「ま、もの……」


 パティは微かな震える声で言った。

 体中、がたがたと震えが止まらない。


「とうとう出たな!」

 イリヤは斧を手に果敢に襲いかかった。が、魔物は軽くイリヤを叩き落とした。

 イリヤは地面に叩きつけられ、少年はその衝撃に小さく唸った。


「イリヤ!」

 パティはイリヤに駆け寄り、急いで起こした。

 その間、魔物はのそのそとパティに近づいていく。


「大丈夫ですか?!」

「いてえ……」

 イリヤは地面に打ちつけた足を摩った。右膝から血を流し、足の先がおかしな方に曲がっていた。


 パティは驚いて目を見開き、両手で口を押さえた。イリヤは足を折ったのだ。これでは走って逃げることもできない。

 その間にも魔物は迫ってくる。

 魔物は丸太のような腕を背中に回して汚れた指で背中を掻いた後、まん丸の瞳をぎらりと光らせた。

「にんげん、は、ころしてやる!」

 醜い魔物は、醜い声で言った。


「お前、もう逃げろよ」

 イリヤは泣きそうな顔で足を押さえながら言った。

 パティはイリヤの言ったことが頭に入っていなかった。逃げるとも、逃げないとも言えない。パティはただ恐怖でその場から動けなかった。


 足音がパティのすぐ後ろで止まり、魔物の荒い息遣いが聞こえてもパティは何もできなかった。


(わたし……、ここで死ぬの?)

 

 恐怖に侵された頭で、奇妙に冷静にパティは思った。 


 ――もう死んでしまうの?

 ようやく地上へと降り立つことができたのに。もうお終いなの……? 

 ミーナとの約束も守れず、アルに会うこともできずにー。

 

 無意識に、パティは倒れたイリヤを庇う格好で少年に覆い被さり、その恐怖の瞬間をじっと待っていた。


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