10 約束と、初めての魔物 前半

「ミーナ、どうして泣いているのですか?」


 しゃくりあげるミーナにパティは優しく言った。

 ミーナは少しすると落ち着き、涙を拭きとった。


「イリヤが、イリヤが死んじゃうかもしれない」

 パティは死という不吉な言葉にどきっとした。


「死ぬって……、何かあったのですか?」

「イリヤは魔物の棲む〝スラナの森〟へ入ったの。魔物を連れてくるって言ってた」

「魔物! この国には魔物がいるのですか?」

 パティは驚きで声が大きくなった。


「ここは地上だ。魔物がいつ現れてもおかしくない」

 見ていただけのロゼスが腕を組んで冷静に言った。

 天の平和に慣れているパティは初めて、恐怖を感じた。


「国や大きな街などは護衛も強化されているから、魔物が現れることは滅多にない。 しかし、スラナの森だと? そこへ入ったというのか?」

 ロゼスは信じられない様子で問う。


「うん。私、心配になってイリヤの後をつけて行ったの。イリヤは斧を持って、森へ入って行った……。私、止めようと思ったけど、イリヤは足が速くて、追いつけなくて――」

 ミーナは小刻みに震え、そのか細い声も震えていた。


 スラナ村から数キロの場所、平原を抜けた西に広大な森がある。そこは薬となる草花や果物も採れるが、魔物が棲んでいた。森に入ったまま帰って来なかった者も多い。


「私たちがもう遊ばないって言ったから、イリヤは魔物を連れて来たらまた遊んでくれって……。イリヤが死んじゃったらどうしよう」

 そう言ったミーナの瞳には再び涙の粒が浮かんでいた。


「ねえ、旅人様、イリヤを探して!」

 ミーナはパティから離れ、大きな槍を背負ったロゼスの服を引っ張り訴えたが、ロゼスは眉根を寄せただけだった。


「ねえ、お願い! イリヤを助けて!」

「……生憎だが先を急ぐ旅だ。別の者に頼んでくれ」


 ロゼスはミーナの手をそっと引き離した。

 ロゼスの冷たい言葉にパティの瞳が大きく開かれる。

 パティには信じられなかった。なぜロゼスがそんなことをいうのか。

 ロゼスに拒否されたミーナの小さな手が当てもなく彷徨い、宙に揺れていた。


 パティはふらふらとしたミーナの手を握り締め、大丈夫、と頷いてみせた。そうしてミーナから離れ、ロゼスに向き直る。


「ロゼス、イリヤを助けてください、お願いします」

 パティはロゼスに強い口調で詰め寄った。


「お前まで何を言い出すんだ? いいか、早く港に着かなければ出港に間に合わなくなるかも知れない。王子に会えなくなるかも知れないんだぞ」

「会えなくなるなんてことはありません。だって、アルは死ぬ訳じゃないのですから」

 パティはきっぱりと言った。


「だけれど、イリヤは、誰かが助けないと死ぬかもしれないのでしょう? イリヤはこの国の人間です、あなたが守るべき人です」

 パティは間違ったことは言っていない。むしろ、彼女の言ったことは正しい。しかしその正統な言い分にロゼスは苛々とした。


「優先すべきは任務だ! 大体、無闇に魔物の棲む森に入るような馬鹿は放っておけばいい」

 

 パティがはっきりと自分の意見を言ったので、それに触発されたのか、ロゼスも大きな声を出した。そしていつもの彼の癖――、口の悪さも顔を出していた。


「自分から魔物の棲む場所に出向いているんだ。そいつは命が惜しくないのだろう」

「違います!」

 パティは叫んでかぶりを振った。


「イリヤは、自分の食べ物を分け与える優しい人です。一生懸命に生きている子です。そんな人間が死を望むなんてことありません!」


 パティは七色に見える瞳に光を宿していた。ロゼスはその瞳を逸らそうとするが、なぜか、上手くいかなかった。


「あなたには、分からないのですね」


 パティはロゼスを見つめ、囁くように言った。


「イリヤは一人ぼっちなのです。悲しくて、辛かったのです。だから魔物を探そうしているのです」

 パティは不意にロゼスから眼を放し、ミーナを向いた。


「ミーナ、イリヤが行ったのはどちらにある森なのですか?」

「あっちだよ」

 と、ミーナは西を指した。

「ミーナ、イリヤはわたしが見つけます。だからもう、泣かないでください」

 パティはミーナに力強く言い、立ち上がった。


 パティは着ていたコートを脱ぎ、腕に持つ。手に持ったままだとバランスが取り難いが、少しの距離なら大丈夫だ。


 パティは目を閉じ、息を整え、吐き出した。


 もうすぐ夕刻を迎える北西大陸では寒さが増していたが、パティは寒さを堪えて、真っすぐに立っていた。


 ぶわっ、と、パティの背に閉じられていた翼が勢い良く広がった。翼はパティを飲み込むほど大きく開かれた。純白のまっさらな色は彼女そのもののように透明な美しさだった。ミーナもロゼスもその翼の美しさに息を飲む。


「パティ、何を――」


 言いかけたロゼスの前で、パティは翼をはためかせた。


(アルには、会いたい。だけれど、今は、イリヤを助けたい)


 ――ばさっ。

 壮大な翼を操つり、パティは空へと吸い込まれるように宙に浮いた。


「アルは見ず知らずのわたしでさえ助けてくれました。もしアルがここにいたら、きっとイリヤを助けようとする筈です、今のわたしと同じように!」


「やめろ、パティ! 戻れ!」


 ロゼスが叫んだ時にはパティはすでに空高く舞い上がっていた。あっという間にパティは空に飛ぶ小さな鳥のようにしか見えなくなっていた。

 とくん、と、ロゼスの胸が大きく打った。


 ――あなたには分からないのですね。


 パティのはっきりとした澄んだ声が、ロゼスの体中を巡る。ロゼスは拳を握り締めた。


(分からないだと?)


 彼は唇を嚙みしめる。


 ロゼスには両親がいなかった。イリヤと同じように。ロゼスは戦争孤児で、他大陸で生まれ育ったが、戦争に駆り出されたメイクールの兵士に拾われ、メイクール国へと保護された。

 その時ロゼスは十歳を過ぎたほどの年だったが、ロゼスにはメイクール国に渡った以前の記憶がなく、本来の年齢も分からなかった。

 戦争の悲惨さを間の当たりにし、記憶を失くしたのだろうと誰かが言った。


 ロゼスはメイクール国の孤児院で育ち、孤独だった。年端もいかない子供ではなかったが、失った記憶を抱えて生きていくことは辛いことだった。


 ロゼスは両親の顔も生まれ故郷も知らない。祖国と呼べるのはこのメイクールだけだ。だから、以前の国がどこか、どういった状況だったかを聞くことはしなかった。


 ロゼスは親のいないイリヤの孤独を理解していた。だからこそ、許せなかった。

 イリヤの命を粗末にする行為――、ロゼスにとってそれは生きることを放棄したとしか思えなかった。


 恵まれていないのはイリヤだけではない。

 メイクール国は豊かな国ではない。他にも同じような境遇の者はいる。

 だがパティは、そんなロゼスの思いを無視し、翼を開き、飛び立って行った。


(パティは何不自由なく天で暮らしていた天使だ。それなのにイリヤの孤独がわかるのか? それとも、解ろうとしているだけか?)


 どちらでもいい、とロゼスは思った。

 パティはただイリヤを助けたいのだ。パティのいう通り、王子ならばイリヤを救おうとするだろう。アルタイア王子はそういう人だ。


 ふと気付くと、小さな少女が心配そうにこちらを見上げている。ロゼスは溜息をついた。


「お前は心配せず家に帰っていろ。パティとイリヤは俺が探し出す」

「ほんとう?」

「ああ、本当だ」

 ロゼスがそういうとミーナはようやく安堵したようだった。

「きっとよ。約束」

 少女が繋いだ小指から、ロゼスは微かな温もりを感じた。


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