カイル・ディグラスと巫女イーシェア 後半

 パティは肩を落とし、茫然とした。 


 酷いことを言ってしまったのだとようやく理解したが、もうその言葉を取り消すことはできない。

一度口をついて出た言葉はただ流れ落ちるだけで、時を戻すことなどできないのだから。

 やがてカイルの姿が見えなくなっても、パティはその場から暫く動くことができず、立ち尽くしていた。


 気がつくと、夜のとばりが下りていた。


 パティはまだ墓地にいて、その場にぺたりと座り込み、空を見上げていた。

 どうすればいいのかわからず、その場から動けずにいた。


 カイルの哀しみに彩られた表情がパティの胸を締め付けていた。

 パティはいつしか両手を結び、天に向かって祈りを捧げていた。


「天の神よ。わたしは愚かなことを言ってしまいました。どうすればいいのでしょう……?」


 一人きりでいるせいもあって、パティは闇の暗さが怖かった。

天世界に夜はない。

いつでも光に満ちた天にいたパティには初めて知る不安と孤独だった。

 哀れな天使をじっと窺う者がいた。

 月の光の満ちる中、その者は絹の衣を引き摺りながらゆっくりと近づいた。


「――誰ですか?」


 その者は鈴を転がすような澄んだ響きの声を放った。

 パティは自分の目を疑った。

 顔を上げた先、凛とした佇まいの女性の顔に見覚えがあったからだ。 


「あなたは……水の神、アクア様!」

 パティの声は驚きのあまり掠れていた。


「アクア?」 

 彼女はたおやかに首を傾げ、不思議そうに繰り返した。

 その人は二十歳前後に見える、女性だった。

 娘の眼は澄んだ水色で、眼尻に瞳と同じ色の線を引いていた。左耳には青みを帯びた小さな宝石を嵌めている。惹きつけられる、美しい人だった。

 パティを見つめ返し、その言葉を彼女は反芻する。パティは不意に冷静になった。


(この方、アクアさまじゃない)


 アクアは水の世界から出ることはないし、水の女神は天使どころか、神とさえもほとんど口をきかない。

 神としての威厳を保ち、あるがままの澄んだ存在として天に在り続ける彼女が、話すこと自体、おかしなことなのだ。

 パティは再び、女性を見つめた。よくよく見れば、天に住まう神とはまるで違う存在だった。


 顔立ちは同じ血を分けたように似ているが、水の女神が何の感情も浮かべることなく、それこそ流れる水の如く、神としての役割だけを全うし時を重ねてきたことに対し、この女性は国の人々を見守り、他者のために尽くしてきたことが伺える、優しく温かな瞳をしていた。


「私の名はイーシェアと言います。あなたは天使ですね」


 イーシェアは、自分はここに住む巫女だと言った。

 巫女、まさしくそうだ、とパティは思った。


(この方は万人を愛し慈しみ、他の者のために生きる聖者さま――)


 パティの瞳からは知らず、涙が頬を滑り落ちた。


(美しい心)


 人間の中にこれほど澄んだ心を持つ者がいるなど、天に住まう誰が知っているだろうか。


「なぜ、泣くの?」

 イーシェアはたどたどしく言った。

「あなたのような方にお会いできたことが心から幸福なのです。涙―、これは涙なのですね」


 パティは自分の瞳から零れる滴を拭き取り、手の平についたそれを不思議そうに眺めた。


「心が打つような喜びは、涙を流させるものなのですね。わたし、知りませんでした」

 パティは神を前にするのと同じように、イーシェアを敬愛し、懺悔した。

「イーシェア様、わたしは何も知らないのです。天使であるのに、わたしは人を傷つけてしまいました。あの方はもうわたしを許してはくださらないでしょうね」


 彼女――、イーシェアはパティの近くに更に寄った。

 そっと手をとり、イーシェアは自分の手の平でパティの手を包み込んだ。


「その者は、きっと、許してくれるでしょう」

「そうでしょうか?」

「……その者は、死者だけではなく、誰に対しても、優しさを持ち合わせていますから」


 巫女の手の温かさはパティの迷いや痛みを全て取り除いてゆくようだった。

「パティ、あなたがもし本当にその者に許しを請いたいのでしたら、思いは伝え続けることです。いずれ、その思いは通じるでしょう」


 ――けれどそれを求めてはいけない。

 許されることが当然だと思うことは押しつけであり、傲慢なのだから。


 イーシェアはそう言ってから、パティの瞳を見つめた。

 イーシェアの視線は、心の内を全て見透かされているようだった。


「行くところがないのなら、修道院へいらっしゃい。小さな天使を寝かせるベッドくらいは用意させます」


 イーシェアの優しさに触れ、パティの心に明りが差し込むようだった。

 パティは、はい、と言い嬉しそうに巫女の後からついて行った。

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