45 癒しの力

「逃げられましたか」

 ため息交じりにノートイは呟いた。

 ノートイは気持ちを切り替え、アルの元へと近づいた。


「アルタイア様、怪我の具合はいかがでしょうか?」

 ノートイは心配そうにアルを覗き込む。

「僕は大したことはない。それより、パティや他の方たちを、早く医者に」

「分かっています。しかしアルタイア様も軽傷ではありません。すぐに手当てをします」


 話している途中で、ネオがナターシャ、と大声で呼びかける声がパティたちの耳に劈いた。

 急いでアルたちはネオの元へと行くと、ネオが蒼褪めた顔で座り込み、ナターシャの背に腕を置き、妹を抱えていた。

 傍にいるカーネリアは立ち上がれず、傷だらけだが意識ははっきりしており、意識のないナターシャを案じていた。


 ナターシャはネオの大声にもぴくりとも動かず、瞳を閉じていた。

 先ほど剣を振り回していた少女とは異なり、無邪気な寝顔を見せている。

 ナターシャから、あの異質な嫌な気配が消えていることにパティは気づいていた。しかしその代わり、ほとんど生気も感じられない。


 ノートイもすぐにネオたちの元へと来た。彼には医療の知識があった。

 ノートイは顔色の悪いネオの肩を叩き、ナターシャを見せるよう促した。

 ネオはナターシャを静かに床に置いた。

 ナターシャの体は冷たく、心臓が動いてなければ、もう命を手放しているように思えた。

 ノートイは少女の脈を取った。

「これは、手の施しようがありません」

「え……?」

 ネオは何を言われたのか理解できなかった。


「な、何を言っているのです? ナターシャは生きています。心臓は動いている!」

「この少女は、確かに今は生きています。大きな傷もなく、どこにも異常がない。しかしだからこそ、おかしいのです。異常がないのに、今にも心臓が止まりそうなほど脈が弱い」

 ネオの訴えに、ノートイは言いにくそうに言った。


「心臓が止まりそう? そんな……」 

 ネオは唇を微かに動かし、呟く。

 目の前が真っ暗になった。

 パティはナターシャの傍らに膝から座り、少女の手をぎゅっと握った。


(ナターシャ。可哀そうに)

 その時、なぜそうしたのかわからない。

 ただパティはナターシャを助けたいと思った。少女の冷たい手を温め、癒してやりたかった。

 すると、その思いが通じたかのように、パティが握った手を伝い、ナターシャの体が静かに発光したのだ。


「これは――」

 聖なる光に包まれたナターシャは笑んでいるように見えた。その場の者はその光が人間の力の及ばない不思議なものだと理解していた。

 光は数秒後に消え、まだ幼い少女が、ゆっくりと瞼を開いた。

 ネオやアルは喜びの表情をし、ノートイは信じられない思いでその光景を見つめた。

「お兄さま?……何をしているのですか? この方たちは誰ですか?」

 覚醒したナターシャはきょとんとした顔で、自分をじっと見ている兄の顔を見返した。


「ナ、ナターシャ……!」

 ネオは目覚めた妹を抱き締めた。その体には温もりが戻り、暫く見ていなかった妹の子供らしい表情が戻っていた。

「ナターシャ、良かった――」

強くナターシャを抱き締めたネオの頬を、涙が一つ伝った。

「お、お兄さま、ちょっと、苦しいよ!」

 ナターシャは訳がわからず、兄の腕の中でもがくと、ネオはごめん、と言い、やっと離した。


 ノートイは思わず丸眼鏡を外して、ナターシャをまじまじと見た。

 少女は何の後遺症もなく、おかしなところもない。

 奇跡、そうとしか思えなかった。


(天使には回復の力があるのだろうか)

 ノートイには長けた知識があるが、そんな話は聞いたことがなかった。

 しかし、何せ天使は天に住む者で、珍しい種族だ。天使について書かれた文献はほとんどない。そういう力を持つ者もいた、ということだろうか。


「ともかく、怪我をした方は手当が必要です。すぐに医者を呼びます」

 ノートイは、再び眼鏡をかけ、答えの出ない考えを遮った。

 兵士たちに怪我人を部屋に運ぶように指示し、薬や医師を手配してから、アルに近づいた。

「アルタイア王子。近日中に城へお越しください。王との面会の場を用意致します」

 アルはノートイの申し出にぎくりとした。


「ノートイ殿。ラスティル王は僕を捕らえようとしました。城へ出向くことはできません」

 アルは俯いて言った。


「アルタイア王子、状況から考え、メイリンはどうやら心を操ることができたようです。ネオ殿の妹様は完全に心を支配されていたようですが、ラスティル王もまた、心の一部を操られていたのだと思います。王はメイリンにたぶらかされ、心の隙を突かれただけなのです。どうか、王に弁解の機会をお与えください。メイリンが消えた今、王も平常心を取り戻すでしょう。本来、ラスティル王は穏やかな気質で、争いを望んではおりません。王子、私を信じていただけませんか?」

 ノートイは丸眼鏡の奥の黒い細い瞳をアルに向け、必死に訴えた。

 アルは、ノートイの人柄をわかっている。

 無論、嘘をつくような者ではない。助かったのもノートイのお陰だ。

「分かりました、ノートイ殿。助けられた恩もありますし、あなたのことは信じています」

 ノートイは、深く礼をした。


「パティ様、大丈夫ですか?」

 鞭の棘の穴が多数開いたドレスに、ネオは、召使いから受け取ったショールをパティにかけた。

 ネオもまた、背の破れたシャツを着ていた。シャツの襟元から、首筋に埋まっている小さな石が見えた。透明だが、微かに青みを帯びた石だ。

 ネオの首筋に嵌った石のしるしを、パティは初めて見た。

「痛みますが、ネオよりは傷はずっと浅いです。ネオ、背中の傷が酷いですね」

「いえ、私は――」

 ネオは背の傷は確かに痛んでいたが、そんなことはどうでも良かった。パティには言いたいことがあった。

「パティ様のお陰でナターシャは救われました。本当に、感謝しています。それなのにあなたには酷いことを言ってしまいました。どうか、お許しください」

 ネオは深く頭を下げ、今までに見たことのない真摯な対応をした。

 パティは少し面食らった。プライドの高いネオが頭を下げるとは思わなかったのだ。


「頭を上げてください。許すなんてそんなこと……、わたしは気にしていませんから」

 パティは慌てて言い、顔の前でぶんぶんと手を振った。


「わたしもネオに感謝しています。アルもわたしも、あなたがいたから助かりました。それから、ネオにはそんな控えめな態度は似合いませんよ」

 ネオは少し目を見開いた。

「あなたは自信家で、時に横柄で、けれど、妹思いの愛想の良い方です。そういう、いつものネオでいてください」

 パティは悪気なく、少々悪口を言っていた。

 ネオは若干気を悪くしたが、次の瞬間には、ため息をつき、笑顔を見せた。

 

 ――そうして、ようやく、ロベート・ガラ家での長い夜が明けた。

  

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