44 逃亡
後ろ手に捕らわれたパティは、メイリンがアルに言い放った言葉が聞こえた時、寒気がした。
恐ろしいと思ったのは、自分が人質となったからではなく、アルが殺されてしまうのではないかということだ。
「メイリン、やめてください!」
パティは腕を捕られながらも、後ろに首を回して、メイリンの眼を見て叫んだ。
「アルは……、素晴らしい人です。出会ったばかりのわたしにも優しくて、思いやりがあって、勇気があって。……苦しみも抱えています。理由はまだ分かりませんが、ずっと苦しんできたのです。メイリンが思うようにのうのうと生きてきた人ではありません!」
メイリンはパティの話など聞くつもりはなかった。だが天使の瞳は不思議な吸引力を持ち、その眼を見ていると、なぜか言葉を遮ることができなかった。
「パティ、やめるんだ! メイリンに逆らうな」
アルはメイリンをこれ以上怒らせて、パティが傷つけられたりしないかと冷や冷やした。
アルは屈んで十字剣を床に置き、メイリンの元へと滑らせた。それから自らもゆっくりと歩いていく。
「待ってください、アル」
パティは、今度は静かな口調で言った。
「メイリンは、きっと、わたしを殺しません」
パティはメイリンに腕を掴まれながら、首を回したまま、天使の眼はメイリンの赤い瞳を見つめていた。
「何を言っている? 私に天使は殺せないとでも?」
メイリンはパティを睨みつけた。
しかしどうしたことか、メイリンの口調には戸惑いが表れていた。
「メイリン、どうして、悲しそうな眼をしているのですか?」
透き通った声で天使は言った。メイリンは、だがパティが恐ろしいと感じた。
(何だ、この天使の瞳は……。まるで何もかも見透かされているような眼だ。それだけじゃない)
なぜ私は震えが止まらない。
メイリンはパティを捕えた腕が、唇が、僅かに震えていた。
「私はもう何人も殺している! 私が仕えていた豚のような男に始まり、その後も、追って来た兵士も、山賊のような輩も私は躊躇なく殺してきた……。ナターシャだってそうだ、私はあの子が死んだって構わない。お前のことも、例え殺したとしても何にも感じない!」
「いいえ、メイリン。あなたは本当はそんな人ではありません。だってあなたは――」
メイリンはすぐにでもパティを黙らせたかった。
しかし体は硬直し、天使の美しい瞳から眼を逸らすことができない。
その輝く瞳は闇を照らす光のように、酷く眩しい。そしてなぜ、その瞳を見つめることが怖いのだろうか。
「あなたは神に選ばれた人なのですから」
メイリンはパティのその言葉を聞いた途端、はっとした。
「黙れ、私がこの世で最も憎んでいるのは神だ!」
腕の震えを抑え込み、メイリンは天使の瞳の呪縛から逃れる。
メイリンはパティを掴んでいた手を離し、彼女に鞭を打ち付けようと振り上げ、その鞭を振り下ろす――。
その時、アルが飛び出し、一瞬の内にパティの手首を引っ張り、咄嗟にパティを抱き締めた。
パティが鞭に当たらぬよう、ぐるりと向きを変え、アルは鞭の方に背を向ける。
バシッ!!
アルは背を鞭で打たれ、二人は転がった
メイリンはアルを殺すチャンスと思い、続けて攻撃を仕掛けようと鞭を振り上げた。
突如、バタバタと、回廊の奥から数名が駆けて来る足音がした。一同は何事かと、足音の方に注目した。
彼らはムーンシー国の兵士で、今にも鞭を振り下ろそうとしているメイリンの前まで来て、攻撃態勢を取った。
「リン・ガーネット、動くな!」
その小隊の隊長であろう、口髭を生やした筋肉質な中年の男が剣を構えて叫んだ。
「お前には拘束命令が出ている。大人しくしろ!」
「拘束命令ですって? 誰がそんなこと――」
メイリンは兵士らを見て我に返ったのか、冷静さを取り戻し、口調が戻っていた。
「私ですよ、リン様。いいえ、メイリン様」
「ノートイ……」
奥から進み出た丸眼鏡の男を見て、メイリンは舌打ちした。
逃げた召使いとフレデリカが、残った屋敷の者たちに緊急事態を伝え、執事が兵士を呼んだのだ。
すぐに兵士が駆け付けたのは、ノートイの私兵が屋敷の周辺を探っていたからであった。
兵士はすぐにノートイと連絡をとり、さらに城の兵士を増やし、屋敷へと乗り込んで来たのだ。
アルは、メイリンがノートイに気を取られた隙に、パティを庇いながら距離を取った。
「アルタイア王子、ご無事で良かった」
ノートイはほっと息を吐いた。
傷を負ったものの、命に別状はない他国の王子は頷いた。
「ノートイ、感謝するよ」
「私はムーンシー国の宰相ですからね。国の大事には兵を動かす権力が与えられています。それにしても、まさかあなたが、ファントン国の元王女だったとは、驚きました。それだけでもあなたを捕える理由にはなりますがー」
ノートイはメイリンを見ながら言う。その丸眼鏡の奥が光った。
「あなたのその黒い翼。メイリン様、あなた、魔族と取引をしましたね? 魔と関わりを持ったあなたは問答無用で処刑対象になりますよ。そして我が国王を陥れた、その罪は重い」
「陥れただなんて、人聞きが悪いわね。ラスティル王の行動は、元々持っていた願望に過ぎないわ」
と言っても、多少の暗示はかけたが、という言葉をメイリンは飲み込んだ。
メイリンは言いながら考えを巡らせていた。
(ここまでノートイの私兵が来ているということは、屋敷の外にも集まっている)
メイリンは眉を寄せ、くっ、と唸った。
しかしそのすぐ一瞬後には、形ばかりの笑みを作っていた。
「仕方ないわ。アルタイア、お前の命を奪うのは先延ばしにしてあげる。だが覚えておくといい。お前たちメイクールの王族は許さない」
――決して。
そう言い、メイリンは黒い翼を羽ばたき、近くの大きな窓まで飛び、窓枠に足をかけた。
「逃がすな!」
小隊の隊長が叫び、兵士は一斉にメイリンを捕えようとしたが、彼らが一歩踏み出した時にはもう、メイリンは窓から外へと飛び出し、そのまま翼をはためかせていた。
ネオは慌てて窓に張り付き、他の兵士たちに混ざってメイリンの姿を目で追った。
メイリンは屋敷に集まっていた兵士らを飛び越え、そのまま飛び去って行った。
アルは窓の外を見ることはなかった。
メイリンはもう捕らえられないだろうと予想できていた。しかし、いずれメイリンの方から会いに来るだろう。
メイクール国の王子である自分の命を奪うために。
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