38 敵
ナターシャは小ぶりの剣を構えた。
「剣を振るうのって楽しいのね。まだちゃんと刺したことがないから、すごく嬉しい」
ナターシャはうっとりと言った。
その夢見るような声音にパティは背筋が凍り付いた。
パティはフレデリカを庇う形で立ち、彼女の肩を支えているので、思うように身動きできない。
「や……やめて、ナターシャ!」
フレデリカは腕を押さえながら叫んだ。
ナターシャは口の端を持ち上げ、何も答えず、剣を脇に抱えてそれをパティに向かって突き出した。
「きゃあ!」
パティは叫び声を上げ、倒れ込んだ。
運良く剣は空を切ったが、再びナターシャは剣を振り降ろすー。
ガキッ!
すんでのところで、近くまで来ていたアルが剣で少女の剣を受け止めた。
「……アル!」
パティは涙の滲んだ瞳で、剣を構えるアルを見つめた。
「パティ、すまない。少し様子を見に出ていた」
アルは視線を交えた剣から目を逸らさずに言った。
パティはアルが来てくれた嬉しさと安堵感で再び泣きそうだったが、今はそれどころではない。
「パティ、フレデリカ様を連れて離れるんだ!」
アルは剣を交えながら叫んだ。
パティは頷き、唇を青くし、がくがくと震えるフレデリカに立ち上がるよう促し、腕を掴んだ。二人は急いでその場から離れ、少し遠巻きに様子を伺う。
「アル――」
パティはアルの実力もわからないので心配になり、立ち止まった。
フレデリカが一人で歩き出してもパティは動こうとせず、フレデリカはヤキモキした。
「パティ様、人を呼んで来ましょう」
その場から逃れようとするフレデリカだが、パティはアルを置いては行けなかった。
二人は交えた剣を一旦離し、ナターシャは後ろに二歩ほど下がり、勢いをつけて再びアルに向かって剣を振り下ろす。
再びアルはその剣を剣で受け、がきぃっ、とさっきよりも大きな金属音が鳴り響いた。
ナターシャはち、と舌打ちし、眉を寄せた。
(大丈夫だ、いける!)
魔の力のせいか、少女とは思えない素早い動きと力だが、それでもナターシャは体も小さく、力も普通の兵士よりは弱かった。
ナターシャは
アルが急に現れたことはナターシャにとっては誤算だった。
アルはナターシャの背後をとり、背中を剣の柄で打ち付け、彼女が倒れかけた時、両腕を掴み、動けないように拘束した。
「大人しくするんだ、ナターシャ、怪我するぞ」
アルは少女の両腕を強く掴んでいたが、ナターシャは呻き声を上げ、逃れようと暴れた。
ナターシャは腕を振り回したり体を捩ったりし、アルの手を振り解こうとするが、アルは手を緩めなかった。
「何の騒ぎですか?」
ネオが二人の召使いと共にランタンを手に持ち、回廊の向こうから歩いて来た。
「メイドたちから騒ぎが起きていると聞いて来てみれば……これは一体、どういうことですか?」
ネオは、ナターシャを押さえつけたアルを見て、怒りに顔を歪ませた。
幼い妹は両腕を背中に回され、その腕を掴まれて身動きが取れずにいた。
また遠巻きに見ていたフレデリカは、片腕を押さえ、押さえた手からは血が滴り流れている。
「お兄ちゃん、助けて!」
ナターシャは声をあげた。
先ほどとは異なった、幼い少女そのものの怯えた顔つきと震えた声だった。
「アルタイア王子、ナターシャの腕を放してください」
ネオは血管が切れそうな顔で言った。
「ネオ、待ってください! ナターシャはー」
「こんな幼い子を押さえつけるとは・・どういう神経だ、早く放せ!」
ネオは立場も
「断る」
「あなたが王子であっても、容赦しませんよ」
ネオには剣術の心得があった。
彼は腰に差した長く細い剣を引き抜いた。それは一般的には女性用とされる剣で、扱い易いがネオはその剣を剣舞の披露の際に使用していた。
パティはやめて、と叫び、ネオの前に立ち、両腕を伸ばしてアルを守る体制をとった。
「ネオ、お願いです。やめてください! アルを、傷つけないで――」
パティはその美しい瞳に涙を溜め、震える声で懇願した。
一粒、彼女の頬を涙が伝った。
ネオは天使の涙と恐怖に震える声に、彼女に対し憐れみと申し訳なさが込み上げた。
「ネオ、よく見るんだ」
アルは、ナターシャを掴みながら、彼女の取り落とした剣を顎でくいと示した。
「僕の剣に血はついていない。君の姉フレデリカを切ったのはナターシャだ」
ネオは落ちた剣の先を見た。その剣はナターシャのものであり、確かに血で汚れている。
「あなたはロベート・ガラ家の跡取りだろう。妹を思う気持ちはわかるが、的確に判断し、
ネオは反論しようとした。
自分は跡取りではない、また偉そうにいうな、と。
しかし今は冷静を取り戻し、立場もあって、アルのいうことに文句をいう気にはなれなかった。
「そうよ、ネオ、何勘違いしているのよ。襲ってきたのはナターシャの方よ! あの子、普通じゃないわ」
フレデリカが反論する機会を逃していたが、ようやくアルの潔白を証明してくれた。
「つまらない展開ね」
突如、女の声がし、その場にいた者は皆ぎくりとした。
それは大きな声ではないがよく通り、澄んだ響きであったがなぜか不気味だった。
背後に立っていたのはリンだった。
「もっと面白くなると思っていたのに、残念だわ。ねえ、ナターシャ」
抑揚のない声で、リンは淡々と言う。
リンは赤く光る眼で上目遣いにアルやネオたちに視線を走らせ、片手で、その薔薇色の前髪をくしゃりと握った。
彼女の格好はドレス姿ではなく、軽装で、襟に紐のついたシャツと、膝より少し短い丈のスカートを履き、手には鋭い棘のついた長い鞭を持ち、腕には盾を装着していた。
「リン様! 申し訳ございません。私、失敗してしまって……」
ナターシャはアルに後ろ手に捕まれながら、リンに向かって言った。
「ええ、そうね。だけれど、いいのよ。あなたがいてくれるだけで私の役に立っているのだから」
リンは微笑み、優しく言った。
(口調は変わらないがリンの雰囲気がまるで違う)
アルは気づいていた。
リンは殺気のような鋭さを醸しながら、それでいて表面上は穏やかに装っていた。
パティたちは声を発せられずにいた。
状況を飲み込むのに時が必要だったのと、リンが後ろに連れている魔物が、その腕に、屋敷の主、カーネリアを掴んでいたからだった。
カーネリアは魔物の腕に捕まれながら、微かに呻いた。
(どうなっている?)
ネオは、信じられない思いでいた。
3mほどの巨体を持つ、土気色の魔物はぐるる、と低い声で鳴き、太く短い手は胸のあたりでカーネリアを掴んでいた。
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